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「ニッポンの芸能人」シリーズ100

「桂小金治独演会」のこと
 07年3月21日(水)春分の日。
 「異才!麻生芳伸さんをしのぶ会・一周〔季〕記念イベント/桂小金治独演会」が、中野区沼袋の山田屋さんの大広間で開催された。
 麻生芳伸さんは芸能プロデューサーとして、津軽三味線の高橋竹山さんを東京に紹介(コンサートをプロデュース)し、現在の津軽三味線のブームのきっかけを作った人だ。
 そして芸能プロデューサーとしては、落語の林正蔵(先代)、古今亭志ん生、同じく馬生、そして志ん朝さんのご一家と親しみ、ちくま文庫の「落語百選全6冊」の編著はロングセラーとして売れている。
 ぼくは麻生さんとは数年前に出会い、おつきあいの歳月はさして長くはないが、そのわりにはヒンパンにお会いしていた。
 ある時、ぼくが「いま、講演などで引っ張りだこの桂小金治さんをなんとか高座に戻ってほしいとアピールしている……」と話したところ、麻生さんは「ぜひ、小金治さんの独演会を実現したい」とたちまち目を輝かせて意気込まれた。
 05年11月22日に横浜のにぎわい座に小金治さんが出演するというので(団体の貸し切りだったが、麻生さん、ぼく、そしてワイフの三人で)入場させてもらった。
 同じ年の7月〜8月に、ぼくはギラン・バレー症候群亜型ミラー・フィッシャー症候群というややこしい大病をして、治療・リハビリで4ヶ月は――と診断されていたが、主治医に「自主リハビリ」の嘆願書を提出、許可をもらって退院した。しかし、歩行もままならない状態だった。
 が、にぎわい座にはワイフのサポートで強引に出かけた。
 実はその直前、麻生さんの要請で、退院後初の外出(電車に乗るとか)をしていた。
 「ぜひ、一日も早く、中野沼袋の山田屋の西村重博さんに紹介したい」ということで、「退院後、初外出」をしたのである。
 そんなヨチヨチ歩きのぼくは、にぎわい座のその日、偉丈夫の麻生さんの足運びにまるでパワーがないことを見て取ったのだ。
 大病直後の亭主をサポートしているワイフはゆっくりと歩を運ぶ麻生さんから「この3ヶ月、食欲がなくて10キロほどやせた」という言葉を訊き出し「病院にいらっしゃった方が……」と勧めている。
 病院嫌いを自称していた麻生さんは、それでも親しい友人の皆さんに相談して阿佐谷川北病院へ出向いた。その折の診断書と検査スケジュール表をFAXで送ってきて「なあに、医者はすぐオーバーなことを言う」と元気そうに電話口で語ったが。
 それから1ヶ月と9日後の05年12月31日に急逝した。享年67歳。

06年3月19日の中野サンプラザのでの「しのぶ会」開催
 親しい友人・お仲間が「しのぶ会」を開催。130余名の参集でぼくは献杯のごあいさつを承った。
 ぼくの時代小説の初期の短篇に「まさかの坂」がある。
 人生は上り坂・下り坂、そして「まさか」という坂もあって……という江戸人情物である。
 麻生さんの急逝は、「まさか」であった。
 そのしのぶ会をきっかけに有志の皆さんが「桂小金治独演会」を具体化しようということになり、いったんはあきらめていたぼくもお手伝いをすることになった。
 そして、木村聖哉・青木英明・田島正夫・志田盛弘さんを中心として作業は進められる。
 当日は70〜80名というお客を予定していたが、前回のしのぶ会の皆さんだけでたちまち満員ということになり、ぼくのお客さんにご案内することも出来ずのありがたい現象になった。
 しかし――。
 この企画に積極的だった山田屋さんの西村重博さんはこの3月2日に急逝されたのである。
 前日の3月1日(木)に「能管春の集い」があり、ぼくは3月1日の午前9時電話で「席ありますか」と西村社長と話している。
 「弥生3月の1日、いちばんのお電話が本庄さんからのもの。うれしいことです」といういかにも江戸の商人(あきんど)さんらしいごあいさつだった。
 その方が翌日、お亡くなりになったのである。
 能管の力強く主張する音色も印象に鮮やかだったが、西村社長の彼岸への旅立ちもまた強烈な印象を遺した。
 ここでも「まさか」と呟やかずにはいられなかった。

桂小金治さんの熱演・満員・大好評!
 ぎゅう詰めの大広間での開催のごあいさつを承った。
 小金治さんは講演のハードスケジュールのせいか、はたまた気候不順のせいか、空気の汚れのせいか、のどを痛めていた。
 でも、なんとか随談「親父の背中」と題して約1時間の(木の葉を鳴らしての演奏もあって)ホットなトークでかっさいをあびた。
 そして翁家喜楽さんの太神楽(曲芸)がこれまた大好評。
 トリは小金治さんの「禁酒番屋」で爆笑のウズ。
 声の不調をおしての熱演は文句なしの名演となった。

第2部「しのぶ会」も満員で――
 山田屋さんの地下ホールでの第2部も、立錐の余地もないほどの賑わいになった。
 西村重博さんにとっては三七日を迎える日が初めての春分の日ということで、ご仏前に、尽力を頂いた「桂小金治独演会」の大成功のご報告のご焼香をさせて頂いた。
 奥さまやご家族の皆さんもよろこんで下さった。会が終了して、ぼくはワイフと二人で、居酒屋で呑んだ。麻生さん、西村社長との思い出を語り合った。
 思えば、沼袋はかつて(四十数年前)住んでいたことがある。演劇や作家への思いを抱きながら悶々としていた。
 さまざまな意味で、忘れられない地でもあるのだ。
 今回のイベントにはいくつものえにしの糸が交錯していた。感無量の思いがある。

P.S.
ぼくはいま、時代小説家としてたくさんの注文を頂いている。
文庫書き下ろしという長編もすでに三十数冊。この長編を書くきっかけになったのは日本文芸家クラブの企画で、報知新聞に1ヶ月連載の小説を書いた(都合3チャンスを担当させてもらった)ことだ。その折の報知のご担当は秋保洋征さんだったが、この日、麻生氏の親友、志田盛弘さんが「ぼくの親しい友人――」とご紹介して下さったのが、なんとこの秋保さんであった。えにしというのは不思議なものです!

— posted by 本庄慧一郎 at 05:36 pm  

「ニッポンの芸能人」シリーズ99

だれに出会うか。どういう人と出会えるか
 「一期一会」というという言葉は、茶人千利休の高弟、山上宗二の著した書物の中にあるとか。意味は「生涯にただ一度まみえること」である。
 人間の生涯は例外なく一回こっきりだから、すべての出会いは正に「一期一会」なのだ。
 人間が生きてゆくうえには、とりとめのない雑事や煩悩につきまとわるのが常だが、昨今、そこに自ら分不相応の欲を加えて自滅してゆく者が多い。
 やはり、やたら〔忙しがっている〕現代人たる者、もう一度「一期一会」なる四文字についてじっくり考えてみる必要がある。

 阿原成光著「お祭り・英語楽習入門/いじめは授業でなくす」(三友社出版)を、著者阿原先生からご恵贈いただいた。
 阿原成光先生は、小生の二女である麻子が石神井中の時にお世話になった方である。(長女も長男も同校卒である)
 先生は英語を担当なさるかたわら「演劇部」の指導をなさっていた。
 その当時のいきさつは、麻子本人からよく聞かされていて、麻子にとっては学校の授業や、さらに好きな「演劇」を通しての体験がきわめて快いものであることは知っていた。
 その当時のことを、先生はこのご著書の中で書いて下さっている。
 146頁「学習を生きるはげみにしていけよ」の項である。
 すでに20年余の歳月が流れている。娘麻子はその間、女優を志して故人になられた由利徹さんに可愛いがられて、新宿コマ劇場の舞台に立ったり、また某劇団の旅興行に付き人として同行したりと、演劇という特殊なフィールドで親の知らない辛苦の体験をしたようだ。
 現在はフツーの主婦といった生活をしている。
 親馬鹿と言われるのを百も承知で申しあげるが、そろそろ四十路にさしかかるはずのこの娘は、いつもあっけらかんと朗らか(に見えて)でのべつぼくの仕事場に現れて肩をもんでくれる親孝行な子である。
 そして、折にふれて、中学での演劇体験と阿原先生のことを口にする。
 彼女の思いの中に「阿原成光先生」がずっといらっしゃるのである。
 ぼくは「学校教育の最大のポイントは、どんな先生と出会えるか」であると信じてやまない。
 その点、娘麻子にとっての「こころの財産の一つは阿原先生との出会い」であることはまちがいのないところだ。

阿原先生の教科「整理と対策」
 阿原先生のご著書の文中に麻子が先生にさしあげた手紙文が引用されている。いわく「(略)なんのとりえもなかった私にとって、これは大きな自信につながりました。そしてあらためて阿原先生と『整理と対策』に感謝しました(後略)」とある。
 阿原先生が文中でもご紹介して下さっているとおり、麻子の父親であるぼくは、放送作家・コピーライターを経て、現在時代物(エンターテインメント)の小説をせっせと書いている。そして、ワイフもまた演劇(舞台)をめざしたこともある者ということもあり、ぼくは昨年、念願の舞台の脚本を書いた。(06年11月22日〜12月6日劇団テアトル・エコー公演――おかげさまで好評だった)
 そんな来し方をふり返るにつけ、ぼく自身は、劇作家だった叔父・故小沢不二夫(戦前の新宿ムーランルージュ出身)とその叔父と親しくして下さっていた劇作家故三好十郎氏を師と仰いで勉強に励んだ。
 戦争と敗戦という大パニックの中でついに学校という場にじっくり腰を落ち着ける時間のなかった(不幸な!)ぼくは、二人の師のおかげで「日本語による文筆業」を生業として生きてきた。
 さらに昨今、文筆業として親しくかかわる人たちの中に「ぜひ、この人と深くおつきあいしたい」と思える方が何人もいらっしゃって、しみじみありがたいと思っている次第だ。

 小説の大先達、吉川英治氏の著書「親鸞」の一節――「その無窮にして無限の時の流れから見ると、人の一生は雷光のような一瞬……」とある。
 阿原先生のご著書を拝読して、やはり「人の一生の大事は、だれと出会うか。どういう人と出会えたか」をあらためて痛感した。

追伸 それぞれの一回こっきりの人生にとっても「整理と対策」は必要ですよね、 阿原先生?

— posted by 本庄慧一郎 at 09:19 am  

「ニッポンの芸能人」シリーズ98

どうにも肚に据えかねるということ
 前回の都知事選で、「ボクは石原裕次郎のアニです」とニヤニヤしながら何度も恥ずかしげもなく口走ったイシハラシンタロー氏が嫌いだ。
 ついでにゲーノー人の集団〔石原軍団〕なる者たちに選挙の応援をさせたりした氏にうんざりした。
 彼シンタロー氏とは同時代を生きて来たぼくだが、人間観・人生観・社会観・政治感をまったく異にしている。とうよりすべての点で相容れない。
 ゴーマンで、独断的で、のべつ人をテンから小馬鹿にしたような言動を弄する彼には〔公人〕とか〔公僕〕といった思慮や意識が完全に欠落している。
 都知事三選を謀(たくら)む彼は、オリンピック誘致だの、カジノ賭博場を作りたいの、かと思えば三宅島にオートレース場を……などなど現実離れしたスタンドプレーに終始している。
 彼の〔都政の私物化〕なる事実はすでに周知のことだが、いまだに鈍感な選挙民たちは怒りもせず、抗議もしない。
 映画「武士の一分」は藤沢周平の原作だが、いまこそ「選挙民としての一分」の志をはっきり示すべきだ。
 選挙という貴重な権利と義務をないがしろにする者は許せない。
 とにかくぼくは、石原慎太郎氏を(選挙で)選んでいない・納得していない・認めていない。
 現在の日本の〔民主主義の多数決〕といものは、横暴以外のなにものでもない!

石原慎太郎氏が「江戸っ子」をうんぬんするか?
 東京生まれ、東京育ちのぼくは、あの〔大東亜戦争〕という名の誤った、そして愚かしい戦争のさなか、アメリカ軍の爆撃の修羅場で生死の境を右往左往した。
 逃げ帰る〔故郷〕をもたない者たちは、敗戦後はさらに過酷な物資不足と食糧不足にさいなまれた。
 折しもこの文章をまとめている本日は3月10日。63年前のこの日は東京大空襲の日だ。
 本所・深川あたりの無惨極まる爆死体・焼死体、さらに炎に追われて川や運河に追いやられての溺死体などをじかに見ている。
 腹を空かした栄養不良のヨレヨレのわっぱが、本所・深川あたりの食糧倉庫が爆破されたというので、焼け米を拾いに行ったのだ。
 北区滝野川の家から、交通機関など壊滅していたはずなのに、どうやって本所・深川まで辿り着いたのかまるで記憶にない。
 ただ生活力旺盛な友人(小学校6年生)がいて、彼のシリについていったのだ。
 やっと手堀りで手にした焼け残り米は、嗅気ふんぷんで食えたものではなかった。
 その黒焦げ米も、ほぼ1ヶ月後の4月13日未明の空襲で家もろとも焼けた。
 ちっぽけな家の周辺に焼夷弾の残骸の鉄筒が20本(!)ほど突き立っていたのを忘れない。(忘れるもんか!)

 今回の都知事選で石原批判を掲げて何人かの候補者が参戦している。
 現行の都政を是が非でも変えてたいと思うぼくは、〔まっとうな風〕が吹くことに期待してやまない。
 その舌戦はすでに始まっているが、石原氏が対立候補に対して、「江戸っ子向き、東京っ子向きではない」などと勝手なことをほざいている。
 そういうおのれの言動や思考の質をどう思っているのかね?
 いませっせと時代物(江戸時代の市井の人々を主人公にした物語)を書いている者としては、江戸っ子気質とは、いわゆる「巧言令色」(口先だけで、まるで志のないこと)的人間とは真反対の気質と設定している。
 少々、軽率でお先っ走りではあるものの、嘘や不正や得手勝手は大嫌いということだ。
 最近「江戸しぐさ」などがもてはやされているその理由は「人間らしい基本の礼節を学び直せ」ということだ。
 石原サンに「江戸っ子や東京っ子は」などと言われるのはまっぴらだね。

— posted by 本庄慧一郎 at 05:11 pm  

「ニッポンの芸能人」シリーズ97

「こいつは春から縁起がいいや」とつぶやく
 歌舞伎の春狂言の定番といえば「三人吉三」。
 その登場人物(白浪――盗賊)の三人のうちの一人、お嬢吉三が口にするおなじみのせりふだ。
 ぼくは暖冬といわれるこの2月に何度かつぶやいていた。
 というのも、昨冬の11月22日〜12月6日までテアトル・エコーが上演して くれた「大都映画撮影所物語」についての劇評や推挙が演劇雑誌「悲劇喜劇」3月号の「特集・2006年演劇界の収穫」に掲載されたからだ。
 劇評をして下さり、推挙をして下さった5人の方々とは、これまで一面識もなかった。それだけに「演劇・返り新参者」としては、文字どおり跳び上がるほど嬉しく、不作法ながら、出版元早川書房に各氏の電話番号を訊いて、じかに御礼のごあいさつをさせていただいた。
 以下、「大都映画撮影所物語」に関する部分を転載させていただきます。



「悲劇喜劇」(早川書房)2007年3月号
特集・2006年演劇界の収穫

演劇時評4/岩佐壮四郎(近代文学)・香川良成(演出)
劇 評
高田正吾(編集部)では、12月にご覧いただきました舞台の劇評を始めたいと思いますので、よろしくお願いいたします。
 まず、テアトル・エコーで「大都映画撮影所物語」。本庄慧一郎作、永井寛孝演出、恵比寿のエコー劇場で、熊倉一雄ほかエコーの主要なメンバーが出ています。これは昭和十一年が大体舞台になっていますね。ここの映画はもちろんご覧になっていないと思いますが。
香川 僕は全然。
高田 僕も全然観ていないですけれども。全部サイレント映画だったそうですね。
香川 これは大都映画撮影所という昭和十年代に実際にあった、娯楽映画をつくっていたその撮影所の物語なんですね。
 場面は、撮影所の控室と社長室。そこを行ったり来たりして、最後は社長みずからメガホンを取ってチャンバラ映画の撮影を始める。というところで幕になります。エコー独特な喜劇のフォルムで演じられ、娯楽性の中に当時の社会や人間への風刺を込めて描いており、比較的成功しているんじゃないかと思います。
 そこの控室には「挙国一致! さあ団結だ!」「守れ! 満蒙、帝国の生命線!」なんていう大きなポスターが左右の壁に張られています。
 喧嘩っ早い大部屋の俳優とか、アル中気味の社会派くずれの脚本家や、女優目当ての警官が出入りしてたり、大日本愛国者演芸同盟という狡猾な漫才師コンビが紛れ込んできたり、元大都映画俳優の脱走兵を脚本家がかくまったり。
 彼は人を殺したり殺されたりするのはいやだと言って脱走してくるわけですね。そこに憲兵も来るんですが、憲兵は実は社長の昔の浮気の子供だったというような大衆劇としてのいろいろな要素が盛り込まれています。それから怪傑紫頭巾や鉄仮面も登場させて、大騒動になったりとか、盛り沢山です。
 初め、劇場に入ったら昔の無声のチャンバラ映画を――
岩佐 実写をやってましたね。
香川 場面転換のときもそれをやるもんですから、それと舞台とを結びつけて想像することができて、あれも成功の一因だったんじゃないかと僕は思いました。
岩佐 そうですね。
香川 ひたすら娯楽映画に情熱を注ぐ人々を通して、戦中の状況も批判的に描いているんですね。
 例えば、スターに赤紙が来て壮行会が行われるんですが、そのときは一応ありきたりのあいさつ、「大日本帝国臣民の誇り」云々というようなことをいってるんですけど、飲んだりいろいろしている間に、つい本音が出て「大好きなチャンバラをもっとやりたかったです。がんがん流し目で決めて、見得を切りまくりたかったです」なんて言う。そういうところなど、なかなか心憎いなと思いました。
高田 岩佐さんはいかがでしたか。
岩佐 大都映画というのは粗製濫造ぶりで名をはせたというんですが、もともと社長の河合徳三郎というのは土建屋だったのが、映画が好きで製作に乗りだしたらしい。そういう連中の娯楽映画づくりにかける情熱が肌で伝わってくる。
 さっきの酒浸りの脚本家というのは、新劇運動かなんかから流れてきたんじゃないかと思うんですが、これが、市川千代之介といういい加減な名前の人気スター(笑)をかくまってこれを鉄仮面の主役にしてみたり、憲兵が実は社長の隠し子なんだが、彼のおかげで今度は社長が窮地を救われたり、いかにも安っぽい人情喜劇にみせてつくっているんですけども、細かいところはなかなかしっかりしていて破綻がない。脚本の本庄慧一郎という人は、非常に達者、手練れという感じがします。
香川 テレビドラマを書いたり。
岩佐 手練れといえば、熊倉や沖恂一郎、山下啓助などはいうまでもなく荻窪オット、西荻ドッコイという漫才コンビ(笑)に扮する沢りつおや林かずお、丸山裕子などの練達の演技が、中堅、若手を盛りたてているのも見逃せない。
 立ち回りも、一見珍妙な所作で客席をわかせるんですけども、そうとうな修練の跡を窺わせる。
 また何人もの鉄仮面が憲兵を取り囲んで、ラ・クンパルシータに合わせてタンゴを踊る場面なんかも基礎訓練が行き届いていることを感じさせます。
 演出のテンポも的確で、大都映画はB級映画をつくっていたようですが舞台のほうはドタバタ喜劇といしてはA級の仕上りではないか(笑)と思いました。
香川 そんな一見ばかばかしい映画づくりもできなくなる。いかに戦争中の統制が厳しかったかが伝わってくる。それに対する反抗になるわけですね。逆にそういうドタバタ喜劇を作ることがね。
 例えば、「絹代さんお願いがあります。どうか接吻させていただきたいのです……」その接吻という言葉はいかんというので削ったら、「絹代さん!どうかどうか……サセテ頂きたいのです!」(笑)になってしまうとか、そういうところを随所につくりまして、最後は社長みずからメガホンを取ってチャンバラさせる。僕は点を入れたいですね。
高田 A級ですか。
香川 A級(笑)そんなところです。



 すでに菅井幸雄氏には赤旗紙のコラムで、このうえないおほめをいただいている。その劇評コラムと、畏敬する小沢昭一氏の好意に満ちたお葉書、さらに雑誌「東京人」の創刊者であられ、評論家としてご活躍の粕谷一希氏のドキドキするようなお手紙(このほか友人知の手紙FAXなどいろいろあるが)と、今回の「悲劇喜劇」07年3月号の4点がぼくの貴重なお宝になりました。

 あえて申しあげたい。
 「知的フィールドの堅実な有識者の諸先輩に認めてもらうことは、ただ嬉しいとしか言いようがない。このトシになって「ボクは幸せだなぁ!」と実感を味わえるんなんて……。謝々! 謝々! 謝々!です。

— posted by 本庄慧一郎 at 05:13 pm  

「ニッポンの芸能人」シリーズ96

ぼくは武道館のビートルズを取材した時代小説作家デス
 音楽が好きだ。
 よく冗談半分で言う。「武道館のビートルズ公演を取材した時代小説作家」と。
 たんなる音楽好きというより、音楽とかかわる〔仕事〕をずいぶんやってきた。
 東芝EMI(現在はEMIはない)のラジオ番組の構成ほかでは、ポップス・フォークソングをはじめあらゆるジャンルのサウンドを聴き、DJ風に構成した。
 いまも素敵な演奏を楽しませてくれるクラリネットの北村英治さんとは「文明堂ハニー・サウンド」でずっとご一緒したし、ジャズピアノの故八木正生さんとは、作詞・作曲のコンビで数えきれないほどの楽曲(主にCM)を作った。企画・作詞・制作でかかわった楽曲数は250〜300曲はあるだろう。(時代小説の原稿書きで忙しい毎日だが、この2月には旧友の依頼で昭和6(1931)年創立の大手運輸会社の社歌を作詞した)

コンサート「立原摂子の世界」/六本木スィート・ベイジル
 ぼくの周囲には素敵なミュージシャンが大ぜいいた。いや、現在もいる(!)。
 そのうちのおひとりが立原摂子さんだ。
 昨夜(07’.2.22)、六本木スィート・ベイジルでのコンサートも良かった。
 クラシックをベースにした、作曲・編曲、そしてピアノ演奏というステージには〔品格〕があり、上質のエンターテインメントがある。
 会場がシアター・レストランなので、ぼくはオープニングで「摂子さーん!」と声をかけた。ファンとしては当然のことなのです。
 音楽ヒョーロン家めいたことは言わない。
 とにかく快く楽しめるのが立原摂子ワールドなのだ。
 ぜひ立原さんとは〔いい仕事で〕ご一緒したいと意欲している。

川内康範センセイと森進一クンのこと
 音楽の仕事をしているからいい人だ――というのはとんでもない誤解である。
 デタラメ・いいかげんな人間はどのギョーカイにもいる。
 森進一の「おふくろさん」の歌詞いじりの問題はやはり起こるべくして起こったトラブルだ。
 いまテレビ局の番組制作のネツ造問題でガタガタだが、同時に新聞社がらみの醜聞も多発している。
 たとえば、新聞の社説を担当する論説委員なる者が他社の論説記事から盗用盗作しているとか。
 森進一の「おふくろさん」では、歌手(側)が勝手にバース(前歌)をつける改作していたというのだが、ぼくも「物書き業50年」、しかも「おふくろさん」問題にかかわっていたといわれている故保富庚午氏と同じ構成作家だったのだ。
 モラルの欠落はいま、政治・経済・社会のいずれの分野にも蔓延している。
 まったく手のつけようがないね。

 つくづく思う。
 心のまっとうな人、感性の洗練された人、志が上質な人の創った音楽を享受して、当方の心と、感性を健全に保ちたい――と。


「音楽は天使のスピーチだ」とはうまい表現だ。――カーライル
 でもねぇ。昨今の楽曲の中にはたんなる騒音屋の騒音みたいのが多いぜ。

PS
 本日(2月23日)は、目黒雅叙園での「隣々会――渡辺洋氏主催」にお招きを受けている。「キャロル山崎」のステージがある。
 また明日(2月24日)は、新谷のり子さんのルーテル市ヶ谷でのコンサートがある。
 ぼくの作詞した「平和を願う歌」シリーズのうち一曲「鳥になれたらいいね」(作曲 園田容子)をうたってくれた新谷のり子さんも、とっても素敵になられた。
 演劇・映画、そして音楽漬けの日々である。

— posted by 本庄慧一郎 at 04:25 pm  


*** お知らせ ***
自主CDを制作
21.1:130:128:0:0::center:0:1::
平和を願う歌
「鳥になれたらいいね」
総合プロデュース:本庄慧一郎
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