「ニッポンの芸能人」シリーズ2
2004/10/28
昭和16年(1941)越路吹雪17歳
昭和15年(1940)4月、当時の内務省から芸能人16人に対して、芸名を変更せよという命令が出た。つまり、外国かぶれのカタカナ名とか、皇室のおエライ人の名をもじったものはけしからんというわけだ。
たとえば、歌手のディック・ミネは日本名の三根耕一に。漫才のリーガル千太・万吉は柳家千太・万吉に。同じく漫才のミス・ワカナは玉松ワカナになどなど。
現在のテレビのブラウン管をうろつく若いゲーノー人は「外国かぶれの名を禁止する」なんてことになったら、どうなりますかね。
さらにこの年には、米・みそ・醤油・塩・マッチなどが配給切符制になって、自由に買うことができなくなった。
いっぽう、銀座の大通りには「ぜいたくは敵だ!」の標語を大書した立て看板がずらりと並べられた。
作家の永井荷風先生は日記で「銀座食堂で食事をしたが、南京米にじゃが芋をまぜた飯だ。どこにぜいたくがある!」と怒っている。
翌昭和16年には「月4回肉なしデー」が制定され、野菜不足で青果店に行列ができるなど、時代は戦争への暗黒時代へどんどん傾斜する。
17歳の越路吹雪はまだ宝塚に在籍していた。
「男装の麗人」の規制はじまる
歌舞伎の舞台は女優なし。女役も男性が演じる。宝塚や松竹歌劇団では、男役も女優が演じる。
だが、すべての事項に干渉し、統制しようとする政府当局は「女は女らしくせよ」と発令し、いわゆる「男装の麗人」を禁止した。
宝塚では葦原邦子・小夜福子。松竹歌劇では水ノ江滝子・オリエ津坂などが「男装」で熱狂的な人気を集めていたが、上演する演目を強引に変更させられた。
この年の3月、東京宝塚劇場で喜劇王エノケンこと榎本健一の出演で「エノケン竜宮へ行く」を上演。タカラヅカのステージに、あのエノケンが出たのである。
その10年後の昭和26年(1951)、つまり昭和20年の敗戦からの6年後、宝塚を退団した越路吹雪は、有楽町の帝劇でコミックオペラと題した「お軽と勘平」を榎本健一と主演し、大好評を得た。
ここから、あの「エンターテイナー越路吹雪」の新しいヒストリーが始まったのだ。
同じ年度の新宿ムーランルージュのこと
あれこれある古いパンフレットから、昭和16年5月の新宿ムーランルージュを眺める。
いまテレビではやたら「バラエティ」ということばを使うが、このことば、すでにムーランルージュが使っていた。時代や社会を鋭く風刺したコント・踊り・トークなどをコラージュした「バラエティ」は、当時の知識人たちに大いに受けた。
かの黒沢明監督も、名物の「割引タイム」の列に並んだ。その長身が目立ったとか。
ムーランには、明日待子・小柳ナナ子などの美少女がいた。現在のアイドルだ。
そして、黒沢明作品「七人の侍」でもおなじみの俳優左ト全をはじめとする、個性的な俳優たちがウィットとエスプリの香りのあるシャレた舞台を創っていた。
ザラ紙のペラのパンフの余白には「仕事に熱心・スパイに用心」などというヘンな標語も印刷されていて、苦笑をさそう。
ぼくの叔父の小沢不二夫もこのムーランルージュの文芸演出部に在籍していた。
後年、越路吹雪と並ぶ名歌手美空ひばりの「リンゴ追分」を作詞している。
貴重なパンフレットはさまざまな「ニッポンの芸能人」のエピソードに彩られていて、読み返すと、日本の過去が浮きぼりになってくる。
次回は、石原裕次郎を育てた水ノ江滝子さん。乞う御期待!
— posted by 本庄慧一郎 at 10:14 am
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