三谷幸喜さんの映画「笑いの大学」
04年11月21日(日)。仕事場のある練馬区石神井を午前8時に出発。1時間30分をかけて荻窪へのウォーキング。そして地下鉄丸の内線で新宿へ。そそくさと牛丼をかき込んで、新宿文化の10時10分からの映画「笑いの大学」を観た。
怠惰なことにこの「名作」といわれる舞台もNHKのラジオドラマも接触していなかった。(でも、この2ヶ月の例にあげれば、毎月の歌舞伎座・国立劇場・そして新国立劇場。加えて、劇団テアトル・エコー・劇団青年劇場・劇団ピープルシアターなど、あ、それから新橋演舞場の十朱幸代公演、さらに作詞を再開したのでライブハウスへ2回ほど、それに加えて映画「隠し剣・鬼の爪」などなど、実に小マメに出かけているボクなのですがね)
「笑いの大学」の内容
昭和15年(1940)の東京浅草の小劇場の若い座付き作者と警視庁保安課の検閲官の二人を主人公にした対話劇。
日本が戦争という暗黒の時代に突入してゆく時代は軍国政府の「狂気の言論統制」が強行されていた――敵対する両人の熾烈な対立がやがて奇妙な友情へと変華してゆくという時代色濃厚なコメディである。
密室劇といううたい文句だが(プログラム)、原作が舞台だから当然だろう。でも、演者(役所広司・稲垣吾郎・高橋昌也他)のじっくりと粘着力のあるパワーあふれる演技もいいし、星護という人の演出もなかなかだ。
テレビドラマの演出というと、たいていは「チロチロおしっこ漏れ」みたいなのが多い。
あるいはその演技も「ねずみのフンを転がすような」(東野英治の言葉)ばかりだ。
ここで話はとぶが、11月の新国立劇場の三好十郎作「胎内」(栗山民也演出)などには、舞台ならではの濃密な熱気と説得力が横溢してたが――。(先行の三好十郎作「浮標――ブイ」(栗山民也演出)にも同質の魅力があった。
現在のテレビドラマが喪失してしまった、あるいはとうに流れ去ってしまったモノが、いい舞台にはある――。
「笑いの大学」にも、それはあった。
アドリブ厳禁のあの時代
当時、演劇の舞台では一切のアドリブは厳禁されていた。当然だろう。一言一句が検閲されているのだから。それでも公演当日の演技者のアドリブを検閲するために、客席後部に「臨検席」があり警官が常駐した。
現在のテレビのバラエティ番組のガキ・タレントが自分たちだけで図にのって喋るといったアドリブは、本来のアドリブとはまるで異質のもので(たとえばジャズでいうアドリブには楽典的ルールをふまえての表現の手段である)彼らのものはたんなる「口から出まかせ」である。
アメリカの「エド・サリバン・ショー」をはじめとするフリー・トーク風のショー番組では一切アドリブはなかったという。
それとエノケンこと榎本健一の舞台でも、原則としてアドリブはなかったと聞いた。
舞台上の、または演技上のアドリブがたんなる勝手放題、行き当たりバッタリに堕落したのは、テレビのバカタレントと阿呆な制作者たちのせいだ。
その点「笑いの大学」の演技者たちもまた、まじめに、真摯に、心をこめた演技をしていた。
新宿ムーラン・ルージュのこと
「笑いの大学」のプログラムの原健太郎氏の文章に「エノケン・ロッパとムーラン・ルージュの三国志」がある。先にも書いたがぼくの叔父の劇作家小沢不二夫はムーラン・ルージュ出身である。
そしてぼくが生まれて初めて書いた小説が「赤い風車劇場の人々」(影書房刊1992年)で、題名の通りモデルは、新宿ムーラン・ルージュだ。
劇団ピープルシアターの森井睦氏脚本で二度舞台化された。戦争もムーラン・ルージュもまるで知らない若い人たちに熱い拍手をもらった。
ムーラン・ルージュは10日間替わりで演じ物が変わったが、「笑いの大学」のようにけい古に10日間なんてゆとりはなかった。(昭和15年のムーラン・ルージュのパンフレットもあるノダ)
舞台の終演後の4〜5日の深夜、そそくさとけい古らしきことをして、幕を開けた。粗製乱造のそしりをまぬがれないが、「東京喜劇黄金時代」を担う名作のかずかずを遺したことに違いはない。
現在、新宿郷土資料館のムーラン・ルージュのコーナーに、検閲判の捺してある台本脚本が陳列されている。
ぼくはいま、戦前「B級映画のエース」といわれた大都映画と、さらに浅草の女劇団を素材に舞台のホンをかく予定だ。
新宿ムーラン・ルージュとの3作を「昭和3部作」としてまとめる。(文庫書き下ろし時代小説でキリキリ舞いをしていてはイケナイなあ)
「ニッポンの芸能人」シリーズ6
2004/11/22
— posted by 本庄慧一郎 at 10:20 am
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