「ニッポンの芸能人」シリーズ28
2005/4/25
「想像力ビンボー」という言葉。
広告評論を主業とするコラムニスト、天野祐吉氏のテレビCM評の文中に「想像力ビンボー」という言葉があった。
テレビでのグルメ番組や旅の食べ物番組などでの出演者や紹介者の「おいしいという表現」の貧困さやイージーさを評しての言葉だ。
だいたい、味覚に関する説明などというものは難しいものだが、だからこその「ユニークな表現」が必要なのである。
たとえば外国語を習得する場合、自国の言語(日本人なら日本語、フランス人ならフランス語)にたいする学習の量や知識の深さなどとイコールするといわれている。
「味覚に関する感想」もまた。食物の素材(野菜や魚や肉など)や、その料理にかかわるさまざまなことへの誠意ある探究心や知識が十分でなければ、他の人をして「なるほど」と言わせる表現は発見できない。
天野氏の言う「想像力ビンボー」が生む貧困さやイージーさは、なにも食べ物をモチーフにした番組にかぎらない。
現行のトーク番組や、いわゆるバラエティ番組、あるいはドラマやニュース・ショー的な番組のほとんどが、不用意で不勉強で雑ぱくである。
すでに何度も何回も、番組制作上の過失や失態を起こしてきているが、いっこうに改善されない。
卑近な一例が、大阪テレビとやらの局が制作している番組で、若いお笑いコンビが「初対面の女性に街角でキスを求める」といった企画が問題になり、放送倫理・番組向上機構のチェックでコーナー打ち切りになったという。
悪ハシャギと悪ノリばかり。
この種の問題は、局や制作スタッフや出演者の極度の「想像力ビンボー」に原因している。
目下、あの堀江クンという男の言動がきっかけで放送番組の公共性があらためてまことしやかに議論されているが、ゴールデンタイムにひしめく番組の悪ハシャギと悪ノリの馬鹿タレントたちの狂態はほんらいの公共性とは無縁である。
お花見と称して酒に悪酔いし、醜態醜悪のやり放題を押し通す連中と、その質において大差ない。
常識と良識ある一般市民(社会)にとっての公共性とは何か?
現在のテレビ局(もちろんNHKもふくめて)に、その大テーマをまっとうに考慮して具体化する能力や誠意はあるのか。
それにしても、「想像力ビンボー」というシンドロームに冒された輩が多すぎる。
「テレビ・メディアは存続するにしても、現在のテレビ局は消えるだろう」という判定に同意する。
痴漢行為で失墜していった国会議員・大学教授、そして警察官など。
あるいは、性懲りもなくくり返される医療事故。
さらに航空会社や自動車メーカーの責任管理体制の欠陥問題。
また一家一族を殺傷して家に放火するといったおぞましい事件の続発もまた、その〔犯人〕の「想像力ビンボー」に原因していると断言できる。
いや、巨大な豪華ホテルを終生の夢として完成させながら、おのれは刑事制裁を受けるみじめな身となり下がった事業家もまた「想像力ビンボー」のイケニエといえる。
地球は一つという平和認識の欠如。
民主主義という美名とタテマエのもとに、おのれのエゴと独断を押し通す国がいくつかある。
その誤謬(ごびゅう)の行く末も考えることのない者たちの、「憲法九条」改悪や無視の動向にも「想像力ビンボー」の恐ろしい病原菌が跳りょうしている。
わたしたちの未来は「地球は一つという平和認識」を捨てた時、必ず崩壊する。
— posted by 本庄慧一郎 at 11:11 am
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