「ニッポンの芸能人」シリーズ44
2006/2/24
テレビ局という名のタコツボ。
民放ラジオに深夜放送黄金時代があったように、テレビにも深夜番組がチヤホヤされた時代があった。
具体的にはどんな内容のモノだったのか?
若いオンナノコをかき集めて、ハダカを見せるためのゲームのようなことを性懲りもなくやっていた。
二重(台)の上に椅子を並べ、そこにミニスカートのオンナノコをすわらせる。愚にもつかないクイズを出して気をひいておいて、つい開いてしまう両ひざの間を、ローアングルのカメラがせっせと狙い撮りしていた。
一流大学(?)を出て志望のテレビ局に入社、技術部に配属された男が、オンナノコの股ぐらばかり撮っている仕事に厭気がさして、敢然と退社した。
彼は「異常のタコツボ」の住人になることを拒否したのである。
尊大でゴーマンで鼻持ちならない人種。
例によって「全部が全部ではないけれど」という前置詞が必要かもしれないが、テレビ局とか広告代理店などには、例外なく尊大でゴーマンで鼻持ちならない人間が、必ず堂々と棲息していた(いる)。
06年3月3日号「週刊ポスト」を買った。
スクープ徹底取材「テレビの腐敗と醜聞/公共の電波で私欲を満たす呆れた行状告発続々」の記事は現場にいた者にとってはすべて「いまさら!」といった内容だった。
ぼくが「文筆業」を生業としてなんとか生活費を稼げるようになったのは民放ラジオであり民放テレビ局であった。
さらにDやHをはじめとする広告代理店の仕事をしたが、ポストの記事に登場する醜悪な事例や俗悪な人物は枚挙にいとまがない――というのが現実だった。
あのホリエという男がニッポン放送に仕掛けた事件で、ホリエを挟んで和解協力を確認しあう握手をしている写真のカメブチ、ヒエエダ、ムラカミといったお歴々の顔を見たとき、「このヒトたち、大丈夫かね」と思わず呟いたものだ。
あの四人が全員、まぎれもない「タコツボ人種」の臭気を放っていたからである。
ぼくはラジオ・テレビ、そしてCM業界を出身母胎と思ってきた人間だが、いまはもうひたすら嫌悪している。(精神の健康のためにも!)
思慮・品性・抑制・創造性。
ひと昔前には「テレビ文化」「CM文化」などという言葉がちゃんと存在した。いまはこのフレーズは完全消滅した。
いま、ニュースワイド番組にさえ、キンキラキンのアニメ声が跳りょうし、粗雑な再現ドラマがまことしやかに罷りとおる。この種の出演者は例外なくマイナー劇団の素人っぽい「俳優もどき」ばかりだ。
一回の出演料ン百万円というタレントとは対極にいる者たちで、コイズミおじさんのいう「格差」の底辺を象徴しているかのような人種だ。
いまや、まっとうな思慮や品性や抑制や創造力を喪失したテレビ界にしがみついている人種の気がしれないね。
蛇足――やたら怒鳴る、やたら喚く、そんなCM群が不快だ。CM制作者たち(企業の担当者や決裁権をもつ者もふくめて)の感覚の狂いにただウンザリする。
それと、「CMばっかり!」「CMタレ流し」のような現象にも肚が立つ。CM放送規定はもう全廃されたのかね?
蛇足B――現在の放送事業は「公共」から「虚業」に変質しつつあるぞ。要、構造改革。
— posted by 本庄慧一郎 at 05:09 pm
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