「ニッポンの芸能人」シリーズ66


畏友・作家稲見一良のこと
 稲見一良――いなみ・いつらと読む。
 ぼくがコピーライターとしてせっせと広告やTVコマーシャルの仕事をしていた頃の友人である。
 朝日新聞06年7月26日朝刊の光文社の広告で、久々に稲見一良著「セント・メリーのリボン」の活字を見た。
 「この文庫がすごい!――宝島社06年版、本読みの達人たちが、もっとも面白い文庫を選ぶ〔文庫オブ・ザ・イヤー〕第2位」という但し書きがあった。
 稲見一良とは親しくつきあっていた。
 TVコマーシャルのプロデューサーだった彼とは、仕事を通じての交流は当然だったが、お互い「本好き」としてきめこまかく語り合う仲だった。
 マスコミとか芸能とか演劇とか、はたまた広告業界などには「作家になりたくて作家になれない」といったタイプの人間がウヨウヨしている。
 つまり、「屁理屈ばっかりの人種」の跳りょうする特殊な場所だ。

3度の肝臓ガン手術を克服しての山本周五郎賞
 稲見一良は1984年に肝臓ガンで余命6ヶ月という宣告を受けた。
 勇猛果敢な彼は、以後3回にわたる大手術に耐え、手術1回に1冊の小説をまとめ、4冊目の「ダック・コール」で第4回山本周五郎賞受賞という快挙を実現する。
 余命6ヶ月を10年という歳月に拡充し、作家として10冊余の著書を遺して逝った。
 彼は「ダブル・オー・バック」で書いている。「若い時から人嫌いが激しかった。特に下司(げす)な人間を毛嫌いした。心の卑しい恥を知らない人間を蔑んだ」と。
 彼はストリート・ファイターを自認し、それを堂々と実行した。
 バス停で順列を無視する男をとがめ、暴力で立ち向かってくる男と大乱闘をして叩きのめす。電車内で無作法に行動する男を注意して、結局は暴力で挑んできた男の前歯をボロボロにするといった返礼をした。
 プロデューサーという仕事では、インチキ伝票を提出した部下に鉄拳を見舞って――と、果敢という二文字にふさわしい正義漢であった。

まだ小説を書かないのですか? という友情ある叱咤 
 病院へお見舞いにいくたびに、ぼくは彼に説教された。
 「言葉や文章の面白さを教えてくれたのは望田市郎という人です。なのにまだ望田さんは広告なんかの仕事をしているのですか」
 何本ものビニール管をからだにつけた稲見一良はぼくに作家になれと何度も直言してくれた。
 ぼくは広告の仕事に興味を失ったいた。だからオズオズと「時代小説なら」と書き始めた。現代物では稲見一良に太刀打ちできないのではという怯気もあったのかもしれない。
 稲見一良が逝って12年。本名望田市郎として短篇数十篇。そして筆名本庄慧一郎としての文庫書下ろしはざっと30冊。さらにいま、昭和という「近過去小説」を何篇か書き貯めている。
 「あなたはきっと小説家になれる」と達筆の年賀状を下さったのはベストセラ−作家として君臨した峰隆一郎氏だった。
 その峰さんのハガキと、稲見一良からもらった数十通のハガキと手紙は大切に保存している。
 いまは毎日15枚という原稿執筆に追われているが、またこのへんで「セントメリーのリボン」などの稲見ワールドを訪問してみよう。

— posted by 本庄慧一郎 at 04:49 pm  

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