「ニッポンの芸能人」シリーズ67
2006/8/4
二つのターニング・ポイントのこと
日本テレビの「いつ見ても波瀾万丈・萩本欽一篇」を見た。
浅草出身という芸能人には文句なしに関心をもつ。好意をもつ。
ちょっとさかのぼるが、幼い日の美空ひばりの映画で共演もした清水金一が、そして映画「寅さん」シリーズのおいちゃん森川信が好きだった。また故人になった東八郎も大好きだった。(とくにアズハチさんとはじかにお会いして、そのお人柄にぞっこんだった)
いまからン十年前、新宿御苑前に近い通りに面して、王貞治さんのお父さんのビルがあった。
たぶんそのビルだったと思うが、タレントプロダクションF企画があり、同じフロアにコント55号が所属する浅井企画があった。
当時、本庄一郎名で放送作家だったぼくに,F企画の社長が、コント55号の専属ライターにならないかという誘いがあった。時を前後してニッポン放送の専属ライターにというハナシもあったが、結局ぼくは諸般の事情でご辞退している。
のちの「パジャマ党」の起点となるはずのことだったと思うが正直、僕の気持ちは大いに揺れたのだが、結果としてかかわらなかった。
浅草にちなんでいえば、当時の松竹歌劇団の演出家原浩一さんのお誘いで演出部に入らないかというコトもあったが、師匠(劇作家で叔父の小沢不二夫)の意見でこれも見送りになった。
ぼくとしては、兄弟子の宮本京二さんが、頭角を現してきた脱線トリオ(由利徹ほか)、スリーポケッツ(関敬六ほか)にかかわっていて、ぜひ!とは思っていたのだが――。
その後のコント55号はもう快進撃でファンとして大声援を送った。
熊倉一雄さんとのめぐり逢い
本年2006年9月は、テアトルエコー再建50周年だとか。
このクルーの中心で活躍なさってきた熊倉一雄さんとは、その当時からの舞台を見ていて、ぼくが構成するラジオ番組には熊さんをはじめテアトルエコーの皆さんによく出演してもらっていた。
井上ひさしさんは(「軟派にっぽんの100人」山藤章二・文春文庫)でこう書かれいる。「熊倉一雄さんともし出会わなければ、わたしの戯曲を書き出す時期が数年遅くなっていただろうと思う」と。
井上さんと熊倉一雄さんとテアトルエコーのえにしは濃い。
その後、井上さんが忙しくなってきた頃、熊倉さんは「どう、ウチのホンを書かない?」と言って下さった。(と、何年か前に熊倉さんにそうお誘いをうけたコトがあると申し上げたら「そんなコト、ありました?」と言われたけど)
その時も身すぎ世すぎの仕事に追われていて結局はパスした。
でも、今年06年11月、ついに!ついに!ぼくのオリジナル脚本、コメディ「大都映画撮影所物語」がテアトルエコーで上演することになった。
もともと、演劇がスタートだったぼくは、放送作家・コピーライター・CM音楽の作詞制作、そして現在の時代小説の文庫書き下ろしという仕事を経由して、シバイに還ってきたのである。
しかも、ずっと大好きだった熊倉一雄さんとご一緒できるのである。
人生には、いくつかのターニング・ポイントがある。結局は「二者択一」を迫られるのだが、でも、しつこく思い続けると一度あきらめたコトも再び手にするコトができるようだ。
コント55号は萩本欽一さん、そして坂上二郎さん(家が近い!関係ないか)は、現在進行形でおられるのがほんとに嬉しい。
ジロさんの「憧れのハワイ航路」を拝聴したいなあ!
— posted by 本庄慧一郎 at 04:48 pm
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