江戸時代のざっと270年間のうち、中期から後期にかけての政治・社会を背景に時代小説を書いている。
当時、長屋住まいの男たちのほとんどが「飲む・打つ・買う」を「男の三大道楽」と言ってはばからなかった。
ただし、現在の宝クジにあたる「富くじ」なるものはおおっぴらに存在したが「丁半バクチ」などはご法度だった。
「買う」は説明するまでもなく「女郎買い」のことで、かの吉原が幕府公認の色里だった。が、この吉原は総じて遊び代が高く、金のない好き者は、安く手軽に遊べる非公認の色里「岡場所」」にもぐり込んで隠れ女郎を相手に遊んだ。
江戸はなにしろ、大ざっぱにいえば男が3分の2、女が3分の1という特殊な構成だった。
参勤交替で江戸詰めになるさむらいは単身赴任。関西から江戸に出店する商家の雇われ人たちも同様。さらに、地方からひと稼ぎをめざして出てくる連中も当然のことながら単身であった――となれば、江戸の〔女ひでり〕はエスカレートするばかりだった。
これまた当然のことながら、吉原をはじめ、女遊びで商売する隠れ色里が大繁盛した。が、遊ぶ金のない奴らが、夜隠にまぎれて女たちを襲うというのが続発していたようだ。
痴漢といえば、ずばり「性的犯罪行為」をさす。
最近、やたらこの「性的犯罪行為」が頻発している。
大学のセンセイから、警察官などの公務員、そして浅はかなゲーノー人など……あらゆる職業の男たちが、このハレンチ罪で逮捕されている。
痴漢という言葉はほんらい、「おろか男・ばかもの・しれ者」というのが第一の意味である。
たいてい、酒を飲んでおのれを麻痺させて、若い女性を標的にするといったのが多いが、中には酒などは飲まず、シラフで行為に及ぶというヤカラも多いらしい。
あの「手鏡教授」のケースがそれで、これはもう、哀れだし、その結末はただミジメとしか、言いようがない。
「飲む」といえば例によっていま、飲酒してのクルマの運転が大問題になっているが、「飲むなら乗るな」という単純明快なルールが守れない野郎たちもレッキとした「大痴漢」なのである。
もっとも、酒などに関係なく、金欲一筋の欲かきジジイも利権がらみの政治・行政のフィールドにウロチョロしている。
この種の人間にとって汚職やワイロで裏金をかき集めることは、人間としての矜持を捨てての「打つ――バクチ」なのだろう。
言ってみれば、昔むかしの江戸時代の男どもの「飲む・打つ・買う」はやたら醜くデフォルメされて現代にのさばっているということだ。
痴漢したくてしょうがないヤカラ男の性向の中には、「手におえないケモノが棲んでいる」と思う。でもそのケモノを放し飼いにしては絶対いけない。
つねに、手なずけておくべきだ。
つねづね思うのだ。男のあれこれの小面倒な欲望も、寛容なパートナー(たとえば恋人とかワイフとか)に許容してもらってこそ、男は息がつけるのだ、と。
浅はかで軽はずみな痴漢行為で警察に逮捕される男は、つまりは「丸ごとの自分を受け入れてくれる人や場所を得ることが出来なかった」という、それはそれは不幸な人種なのだ。
「男にとっては女に言い寄る時までが春で、結婚して夫婦になってしまうととたんに冬だ」(シェークスピア「お気に召すまま」より)
こんなケースの男たちは痴漢に変身するのでアル!