「社会&芸能・つれづれ愚差」第89回(通算199回)

吉祥寺はいまでも好きな街である。
 放送作家としてなんとかギャラをもらえるようになった1955年後半の頃、吉祥寺の〔ハモニカ横丁〕に通った。
 戦後のブラックマーケットそのままのバラック小屋がひしめく一角だった。
 アストリアという名のカウンター10人で満杯というバーがあった。
 マスターはいまでいうイケメンで、やたらジャズに詳しく、同時に街では肩肘張った若い男たちを従える兄貴分だった。
 店は彼の母親と奥さんと。そして高校生だった妹さんでやっていて。いつも賑わっていた。とくにアテのないぼくもときどき顔を出した。
 ママさんの話の中に、「エンちゃんという流しがいてね。いまは有名な作曲家になったけど……」という話があった。エンちゃんという流しは08年12月6日に逝った遠藤実さんのことだった。
 流しのエンちゃんは、吉祥寺、西荻あたりを毎晩きめこまかく歌って歩いていた頃に、ママさんはおにぎりをそえて水割りなどを「出世払いでいいよ」とせっせとご馳走してやったという。
 ――で、当時、放送ライターをしていたTBSラジオのナマ番組の歌謡曲ワイドで(タイトルは忘れた。司会は鈴木治彦アナウンサーか山本文郎アナウンサーだった)ご対面の企画をし、ゲストに遠藤実さんを招いた。そして頃合いを見計らっての〔ぶっつけ本番〕でアストリアのママさんとのご対面というコトになった。
 たしか10余年ぶりだったか、千昌夫の「星影のワルツ」が出てすぐの頃だった。
 そうでなくても遠藤実さんは感激屋だった。ご対面は、それはドラマチックに熱っぽく盛り上がった。
 かつて西荻の遠藤さんの祖末な下宿屋の小部屋には、センベイぶとんと故郷新潟から持って来た黒い大きなトランクひとつしかなかったが、朝起きるとふとんの裾に雪が積っていたこともあったとか。そのボール紙製のようなトランクは、お日さまに乾かすとそり返ってフタがしまらなくなって……と、彼の懐旧談にママさんも目に涙して聞いた。
 「その時のおにぎりと水割りの味は忘れていない」という彼は、新曲「星影のワルツ」をギターの弾き語りでしみじみ歌った。
 ママさんがポロポロ泣き、遠藤さんも泣きながら歌い、スタジオがしんみりと聴き惚れ、熱い拍手をした。
 直後、ボクトツな新人千昌夫クンが「千昌夫デス!『星影のワルツ』よろしくおねがいします!」とあいさつに現れた。
 その後、新宿南口、文化服装学院前のあたりにあったミノルフォン・レコードのスタジオに招かれたこともあったがあれから何年……。遠藤実さん、享年76歳。
 いまでも、ぼくはカラオケで「ぜひ!ぜひ!」と言われると、「星影のワルツ」と、叔父小沢不二夫作詞の「リンゴ追分」とそれからフランク永井の「君恋し」を(イヤイヤながら!)歌う。
 それでも許してもらえない時には藤山一郎の「三日月娘」を歌う。
 つい先日は、徳間書店の岩渕徹社長に銀座で久しぶりにお目にかかれた。
 岩渕社長とは、徳間書店「問題小説」に本名望田市郎で時代小説を何作品か載せてもらったいきさつがあるのデス。
 「いまの本庄慧一郎があるのは岩渕徹社長のおかげなのデス」と素直にアタマを下げます。
 岩渕徹サンが歌う「白い花の咲く頃」が好きです。
 話はソレましたが、歌がつなぐ思い出のアレコレを書かしてもらいました。

— posted by 本庄慧一郎 at 01:12 pm  

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平和を願う歌
「鳥になれたらいいね」
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