「社会&芸能・つれづれ愚差」第146回(通算258回)


 もともと神社仏閣が好きです。
 おまけに、江戸時代を舞台にした小説を書くとなると、古地図をたよりに、すでに移転してしまったり、消えてしまったりした寺院まで再現したりしなければなりません――と、得意げに不満げに言うのではありません。つまり、これも楽しいのデス。
 とりわけ、多くの人々の霊が眠る寺の墓地には親しみをもっています。したがって、先祖の墓は定期的に詣でていますけど、直接に関わる人がいない墓地もよく出かけます。



 かつて(1987年〜1991年)、雑誌「東京人」(当時の主宰・編集者粕谷一希氏)で連載して頂いた「とうきょうヒッチはいく」でも、林芙美子さんの墓がある功運寺、向田邦子さんの多摩霊園、太宰治氏の禅林寺……とまあ、イロイロあちこち取材しましたねぇ。



 いま、書棚から引っ張り出した関係本を列記してみます。
 「江戸大名旗本の墓」「東京都著名人墳墓略史」「江戸もつひとつの風景・大江戸寺社繁盛記」「江戸大名の墓を歩く」「江戸古寺70」「文学忌歳時記」「大江戸お寺繁盛記」(著者・出版社略――スミマセン)などなどに、お墓の知識や水葬、風葬、鳥葬や樹木葬のことなどの本……ン百冊もあるのです。



 いま書いている小説(廣済堂文庫新シリーズ)では、元禄時代の「赤穂四十七士」事件30年後を書くので、あれこれ取材しました。
 四十七士のうちの村松喜兵衛とその長男三太夫は切腹しましたが、しかしその家族(成人男子)も遠島という厳罰を課せられていました。(連座制!)
 その遠島組の1人である次男村松政右衛門(当時23歳)は、後に仏門に入る(つまり坊さんになる)ことで大赦になるという計らいによって、江戸に戻され、目白関口町の洞雲寺で得度しています。
 この洞雲寺は、大正3(1914)年に目白通り建設で立ち退き、現在池袋に在ります。現在の洞雲寺のご住職さんに取材して――と、まあ、取材の作業も楽しいのデス。



 それにしても――直接には関わりのない他人の墓地をそぞろ歩いていて気になるのは、雑草茫茫(ぼうぼう)に放置された墓ですね。
 家族たちはもう、お参りも手入れもしないんですねぇ。
 やたらフラフラ遊び歩くヒマがありながら、ご先祖さまの霊が眠る……そしていずれ自分が入る墓などは放ったらかしというワケです。バチ、当りません?


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望田市郎(本庄慧一郎本名)「東京ろまんちっ句」冬青社刊より。

強欲も 破廉恥・虚栄も 墓の下 ―― 一露

— posted by 本庄慧一郎 at 02:00 pm  

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