「社会&芸能・つれづれ愚差」第149回(通算261回)

玉置宏さんのこと

 玉置さんとは、昭和40(1965)年にお会いしている。
 テレビの「ロッテ歌のアルバム」ですでに「1週間のごぶさたでした」の決まり文句でも、そして歌謡曲の司会ぶりでも人気を博していた。
 ぼくは放送作家(筆名本庄一郎)としてスタートを切ってはいたが、なんとなく飽きたらず、平行してコピーライター業をめざし広告代理店第一企画(現在は旭通と合併してアサツーデイケイ)に契約社員として広告の仕事を始めた――最初の仕事の1つが「ロッテ歌のアルバム」ラジオ版。毎週2時間のワイド番組で、ロッテ製品のCM作りであった。
 毎回、10〜15種類ほどのガムやチョコレートのCMを作り、差し替えてゆくハードなもので、鍛えられた。毎週、新大久保のロッテ工場内にあった宣伝部に通い、たっぷりロッテ製品になじんだ。
 その間、銀座8丁目にあった21スタジオで玉置さんと一緒の番組制作の時間を過ごした。
 その後、キングレコードからコミックソング「チンチン・ポンポン」というイタリア原曲の楽曲の歌詞を書いて、ニッポン放送の朝の玉置さんのワイド番組でせっせとPRしてもらい、キングレコードから「シングルヒット賞」を受けた。
 その時、同席したのは電通に在籍していた新井満さん(あの「千の風」の)で、彼も同じ賞をもらった。楽曲は「ワインカラーのときめき」でカッコよかった。
 そして平成17年(2005)年、11月畏敬する先輩のおひとり、桂小金治師匠の「落語独演会」を企画し、師匠が出演していた横浜にぎわい座に出向いた。
そこで館長の玉置さんと再会し、あれこれお喋りした。いずれ落語についてのこともゆっくり……なんて思いだけが残った。
 司会者としてのその語りくちに、ダンディズムがあった。ご冥福を祈ります。




藤田まことさんのこと

 2009年1月に集英社新書「幻のB級!大都映画がゆく」を出版した。昭和初期から昭和17年(1942)年の戦時企業統合(日活・新興と大都映画の三社合併で大映になる)時まで、いわゆるB級とよばれる大衆娯楽映画を量産した大都映画だが、この撮影現場にぼくの叔父が4人も働いていた。(監督・脚本・助監督・カメラマンである)
 日本映画史などではB級三流と軽視され、データも少ないこともあり、しっかり紹介されることがなかった。
 この会社のスターのひとりに藤間林太郎という現代劇スターが活躍していた。
 藤田まことさんのお父上で、そのことを書いた拙著をお送りした。
 京都の撮影所のご本人からお電話があり「父のことを書いて下さって感謝しております。ひと仕事おえて東京へ戻ったらゆっくりお話がしたいので……」と元気な声を聞かせて下さった。
 池波正太郎作品の映像化については、ベテラン・プロデューサーの故市川久夫さんと親しくさせて頂いてもいたので、藤田さんの主演作品はすべて、ていねいに拝見していた。
 そして今年の2月5日放送された久々の「剣客商売」は、ずっとファンとしてフォローしてきた中村梅雀さんのゲスト出演での「道場破り」で、うれしく拝見。藤田さんへ手紙をしたためるつもりでいた――。
 あらためて、お贈り頂いた映画「明日への遺言」(DVD)と藤田まこと著「最期」を再見・再読しよう。



 ワルはしゃぎするゲーノー人は山ほどいるが、品性・品格のある者はどんどん消えてゆく。2010年きさらぎ2月。涙――。

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新宿「四季の道」のかたつむり

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 ケイちゃんの目→












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— posted by 本庄慧一郎 at 12:06 pm  

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