「社会&芸能・つれづれ愚差」第154回(通算266回)

 俳人石田波郷(大正2年〜昭和44年/1913〜1968)。
 東京調布市と武蔵野市の中間にある古刹深大寺に墓がある。


 深大寺には、それこそヒマがあると出かける。
 自宅(練馬石神井)からバスで吉祥寺へ。そしてさらにバスに乗り継ぎ深大寺へ。
 タラタラと乗る通算1時間余りのバス……そのプロセスが好きだ。
 まだ桜のつぼみも固い強風で肌寒の一日、深大寺の墓所に石田波郷さんの墓を訪ねた。



 波郷は愛媛県出身。練馬区谷原に住んでいた。(昭和33年〜)
 結核で清瀬の療養所に入所していたが、(昭和23年の入院当時は東京都下清瀬村)長い闘病生活のすえ、その清瀬で亡くなった。
 私事になるが、小生の母親も昭和19年に清瀬の療養所で逝ったこともあり、〔清瀬〕の地名と、畑と雑木林ばかりだったその頃の風景はくっきりと印象にきざまれている。



 作家修業の師でもあった劇作家の小沢不二夫(母の実弟/明治45年〜昭和41年/1912年〜1966年)も戦後は練馬石神井住まいだったので波郷さんとはこまやかな交流があったと聞いている。
 戦前のムーランルージュ新宿座で脚本を書いていた小沢不二夫は「寒椿」というタイトルのホンを書いていて好評を博したが、モチーフは波郷の「寒椿ついに一日のふところ手」である。



 「俳句を作るということはとりも直さず、生きるといふことと同じなのである――波郷」



 石田波郷の戒名「風鶴院波郷居士」(墓所/浮岳山昌楽院・深大寺)



 (以下、朝日文庫「現代俳句の世界/石田波郷集」より)

 綿蟲やそこは屍(かばね)の出でゆく門

 乙女の声して寒林を屍行く

 妻恋へり裸木に星咲き出でて

 遠く病めば銀河は長し清瀬村

 いつも来る綿蟲のころ深大寺

 わが死後へわが飲む梅酒遺したり



 おのれの人生も、そして言葉もひたすらないがしろにし、貶めて恥じることのない現今の人間たちよ……。

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         ケイちゃんの目 ↓

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           風強き日の石田波郷の墓所

— posted by 本庄慧一郎 at 12:01 pm  

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