「社会&芸能・つれづれ愚差」第223回(通算335回)

あの時代のことと中村とうようさんのこと

 大学受験期を迎えた孫が、この春、志望校の武蔵野美大にさいわいにも入学した。
 脚力を鍛えるためにウォーキングを兼ねて、小平市にある校舎を訪ねたりした。
 かつて、かなり本気になっての〔広告制作業どっぷり〕の時期があったから、〔ムサビ〕出身のデザイナーやアートディレクターたちと親密な共同作業をした。
 その一方では、小生の物書き業の主要アイテムは当初、民放ラジオ局でのさまざまな番組を担当する放送作家だった。
 その中心にあった仕事は、「東芝EMI」(当時)を中心とする音楽番組で、あれこれと台本を書いた。
 たとえば、日本初上陸(!)のビートルズをはじめ、ベンチャーズやあまたのロックやポップスイロイロ。(たとえば、その一つ、当時、有楽町にあったニッポン放送での番組タイトルは「ポップ&ポップス」だった!)週1の放送で、とにかくさまざまなアーチストを(知ったかぶりで)紹介した。
 同時に、歌謡曲などのスポットCMなども制作したから、当時のスター歌手水原弘・黛ジュンの売れっこたち、それに「帰ってきたヨッパライ」のザ・フォーク・クルセダーズなどなどの販売促進に一役買った。
 音楽評論家の中村とうようさんがごく身近かにいた。
 音楽全般に対する博識と、そしてDJとしてのその語り口は、録音スタジオなどでこまかく接触していた。



 その中村とうようさんが武蔵野美大に、豊富で価値のある資料を一括して寄贈したという記事を先日新聞で読んでいた。
 そして、きょう(平成23年7月22日付け)新聞各紙で「中村とうよう氏、自殺」を知った。
 東京新聞には、武蔵野美大における「中村とうようコレクション展」会場での、にこやかなお顔の氏のスナップ写真があった――。



 耳に快い声と語り口。そして、決してエラぶらないそのジェントルなお人柄と……きわめてまっとうなキャラクターだった。
 なぜ、自殺という結末になったのか――。



 親しい関係者へは「投身します」「絶望したわけじゃない」「お世話になりました」と書かれた〔遺書〕が届けられたという。
 ただただ、心が痛む。



 最近、ン十年も前に接点のあった人と再会したケースがいくつかある。
 広告業時代の代理店オーナーだったH・S氏。同じく同僚だったY・Y氏。そして演劇をめざした当初、同じ劇団で出会った俳優のM・G氏。もうお一人、当時、小生の「あこがれのひと」だった元女優のS・Kさん。そして、同じく縁浅からぬ元女優O・Cさん……。
 ウソばっかり。醜悪な自己保身と我欲ばっかりの現在、ン10年もの時を経て再会した〔旧知〕とのエピソードの質は文句なしに上等である――。



 それにつけても、中村とうよう氏――噫々!
 そういえば、2011年――平成23年――7月22日は小生のバースデイで家族に早めのお祝いのセレモニーを催してもらいました。

 新しいハードルを設定して、何とかそれをクリアしたいと意欲している昨今です――。

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          ケイちゃんの目 ↓

友がみなわれよりえらく見ゆる日よ 花を買ひきて妻としたしむ/石川啄木

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— posted by 本庄慧一郎 at 01:32 pm  

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