「社会&芸能・つれづれ愚差」第279回(通算391回)

●西尾忠久さんのこと。

 2012年7月28日。食道ガンで逝去された。82歳。ご冥福を祈ります。
 日本の広告業界は、当初、そっくり理論やシステムやアメリカ流を模倣していた。
 西尾忠久さんは、早くからそれらのフォーマットを研究し、「日本流」にアレンジして紹介するホンを著わした人だった。
 その後、ン十年という時を経て池波正太郎の「鬼平犯科帳」などの時代小説に並々ならぬこだわりを見せ、関連の著作などをまとめられた。
 小生は、演劇をめざしながらも結局は(生活のためという理由で)放送作家として、ラジオ・テレビ番組の制作・構成の仕事にどっぷりつかり、同時に草創期のCM制作業界に飛び込んだ。
 当時(1965年〜)西尾さんのオフィスは麹町(日本テレビの近く)にあって、「仕事以外のことでゆっくり話がしたいなぁ」と何度か言い合ったりしたことがある。
 まさか当時は、彼が「時代小説」にのめり込むとはチラとも思わなかった。

 かく申す小生も、その後、書き下ろし時代小説文庫を書くことになり、ざっと50冊ほどにエネルギーを注いだが、その頃「書く」ことは念頭になかった。

 振り返ると、当時の業界(放送・広告界など)では、かの阿久悠氏、五木寛之氏、野坂昭如氏、青島幸男氏、伊集院静氏などさまざまな皆さんと背中合わせで仕事していた。(林真理子氏もまだコピーライターを名乗っていた)
 なにしろ(いつも言うように)小生は、仕事に関してはていねいにきちんとパートナーシップを発揮して、スムーズに仕事を完了するが、その他の場(ゴルフ、マージャン、旅行、はたまた競輪競馬などのギャンブル。そして同業者同士のサケなども)でのおつきあいは一切お断りのヘンクツ男だったので、それらの有名人たちとも、とりわけ親交がなかったのダ。

 一時、「テレビ文化」とか「コマーシャル文化」などと過大にチヤホヤされ、「広告作家」とか「コマーシャル・アーチスト」ともてはやされたこともあるが、最近はそんなコトバは耳にしない。

 そういえば、広告業界で「コピーライター」を名乗っていた者たちの中には、「作家」をめざした者は多い。
 コピーライター業といえば、文字を並べる。文章らしきものを操る……一見「作家業」に見える仕事だ。
 いや、現在の「放送作家」と称する人たちの中にも、「作家」という2文字にアコガレている人は少なくないはずだ。
 最近、たまたまおつきあいをすることになった広告業界の者の中にも、シャーシャーと「作家」と自称しているのがいる。まるでそれらしい実績も見当たらないのだが、社交の場などでも、まあ、ヌケヌケと「作家」と自称していた。
 「作家」そのものが、若い女の子をたぶらかしたり、はたまた「オレオレ詐欺」をやらかすわけではないから、「ま、いいか」なのだが、こちとら、「そのハシクレ」としては何だか、尻がムズムズするようなハズカシさを感じたりするね。
 要するにアレは、劣等意識のウラ返しなんだろうねぇ。(次回につづく)


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放送作家(筆名本庄一郎)時代の本庄慧一郎



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コピーライター時代(本名望田市郎)の頃の本庄慧一郎

— posted by 本庄慧一郎 at 11:14 am  

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