劇作家の故井上ひさしさんの著書「さまざまな自画像」(中央公論新社刊)というエッセイ集がある。
その中に「憎いあいつ――藤本義一」という頁がある。
昭和30年代の初め、井上さんは学費と生活費を稼ぐためにラジオやテレビの脚本の懸賞募集にフル回転していた。
全国民放各局の脚本コンテストで上位入賞を果たしての「賞金稼ぎ」に情熱を注いでいたという。しかし、どのコンテストでもたいてい井上さんを口惜しがらせる「凄いのがいた」とか。その人物が「大阪府立大の藤本義一」だったというハナシだ。
賞金金額で群を抜いていたのが「文部省主宰の芸術祭脚本募集」で昭和32年と33年に応募。32年度入選者が藤本義一。33年度が井上ひさしだったとある。
ご両人ともその後直木賞を受賞した実績をもつ。
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私本庄慧一郎が民放テレビの初期、ある局で「サラリーマンの世界を舞台にしたコメディを」という仕事がきた。(当時の小生の筆名は本庄一郎)。
週1の放送だから、もう一人ライターを――ということで関西から「フジモトギイチ」というお年寄りっぽい名のライターとコンビを組むことになった。
初めてのミィーティングで、そのライターと初見参した。お年寄りめいた名とは似つかわしくない白いジャケットの二枚目で、映画俳優のようなハンサム! こちとら、ポカンとしてしまった。
しかも、その男が、初回ミィーテイングが終わると「この種の企画は、ニガ手だからカンベンさせてもらいますワ」とていねいに頭を下げてさっさと帰っていったのダ。
「憎いあいつ――藤本義一」と、この本庄もつぶやいたなぁ。
藤本義一さんはダンディであった。それは、「見た目がカッコイイ」という表面的なことではなかったはずだ。人生観・社会観、いや、世界観をふくめての「ナミの芸能人」には及びもつかない上質のコンセプトを持っていたと思う。(どうも、芸能やマスコミに関わったヤカラには表面はともかく、その内実では手におえないような下司下品なのが多いもんねぇ!)
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放送作家協会のフルーイ名簿を探し出した。頁をくった。
「井上ひさし」の名がある。関西の欄には「藤本義一」の名も。
あの名簿が出てからもうン10年。お二人とも逝ったなぁ。
志賀信夫さん逝く 2012年10月29日/83歳
志賀信夫さんは「放送批評」というポジションを創造するためにコツコツと仕事をなさってきた方だった。
文学作品を対象とした文芸批評をはじめ、演劇批評、映画批評、はたまた美術批評などがあるが、「放送」というフィールドには腰をすえて「批評するモノ」などはあるのか?という気配がしつこくまつわりついていた。
志賀さんのリードで放送批評家懇談会が生まれ、「放送批評」という機関誌を発行された。
〈望田市郎=本庄慧一郎の本名〉
(「放送批評」放送批評懇談会・編集 行政通信社刊 1984年2月号より)
(「放送批評」放送批評懇談会・編集 行政通信社刊 1984年11月号より)
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かつて小生が放送や広告のビジネスにどっぷりだった頃には、この『放送批評』の誌上(1984年度)での公開パネルディスカッション【雑食が生んだクイズブーム】にパネラーとして出席。当時の小生(本名・望田市郎名で)は、「クイズ番組ブーム軽薄短小時代の落とし子」とナマイキなことをのたまわったり、CM特集では「近頃CM事情/奇笑の行く末」と題しては「成熟した大人に見放されたテレビ」などと突っぱねている。
最近の週刊誌でも「テレビ衰退論」はエスカレートするばかりだが、「お笑い」とか「バラエティ」とか、あいかわらずの「クイズ」のアダ花は、それでもシツコク生き永らえている。
そして、商品である番組をズタズタに寸断するエテガッテなコマ切れのCMの横行――。
志賀信夫さんがなんとか「批評」の対象にと願った「テレビ」というメディアは、さてどこへ行くのだろうか。
そういえば、「CM文化」というコトバも耳にすることもない。
もうひとつ、そういえば「広告批評」(マドラ出版)という専門誌も消えた。
ということは、テレビ番組もそしてCMももう、こと改めて「批評の対象にする」必要にはないということでしょうかねぇ。
かつては、テレビ受像機を中心とする家電マーケットシェアを席巻したパナソニックを筆頭とする各メーカーの赤字決算の実情は、ひたすら「おやまあ!」と慨嘆するような数字でアル。
(東京新聞2012年11月2日朝刊「核心」欄より)
エンターテインメントという名の「虚色のカラ騒ぎ」でギンギラに彩色されたテレビメディアはいま、「俗受け」という流れに押しやられ、「自覚と自省」のないままにさ迷いゆく捨て小舟だ。
志賀信夫先輩、これからのテレビはどうなるんですか?
新しいテレビ受像機が売れないという主因が現在の番組の愚劣さにある――と思いません?
ご教示ください。
ケイちゃんの目 ↓
領海侵犯の不安のない「池」の船たち