●考えてみると、ずっと「マスコミ」にかかわる仕事で(なんとか)暮らしてきた。
当初は「演劇」を志して頑張ったが、生活が苦しく、民放のラジオの仕事を得て息をついた。
●そして民放テレビの開局で、フジTVの「試験放送」の段階から脚本を書いた。いわば日本のテレビが録画など不可能の時代(つまりすべてナマ放送!)からホン書きを業とした。
●そして、平行してTVCFの制作にのめり込んだ。
現在のTVCFの質には心ときめくモノは見当たらないが、発展途上にあったその時代には、「番組そのものよりオモシロイCMが多い」ともいわれた。
●やがて、「電波というメディアを介しての仕事」にイライラ感をおぼえるようになった。もともと「演劇」が原点だったので、止むを得なかった――と自分に言い聞かせた。
●それで、それまで手をつけたことがなかった「小説」に挑戦した。
同業者に稲見一良(いなみいつら)という人がいた。
彼は肝臓ガンになり「余命6ヶ月」と宣告され、手術を3回した。
その余後のベットで小説を書き始めて、小説4作目。「ダックコール」で第4回山本周五郎賞を受賞。快挙を果たした。
●築地のガン研に彼を見舞いにゆくと「望田(小生の本名)さんのコピーの文章の平易さの中の含蓄(がんちく)といったものにボクは刺激されて、とにかく小説を書きはじめた。だから当のご本人も小説を書いて下さいよ!」
反対に叱咤ゲキレイされて帰ってきたのだ。
●稲見一良氏はそれから闘病10年――何冊もの傑作を遺して旅立った。
忘れることができない友人である。
●以来、小生も小説を書き出し、時代物の短篇長編をムキになって書いてきた。
そして、あの「3・11」の以前から、「出来るなら原点である演劇――舞台のホンを書きたい」との思いを強くしてきた。
●そして、お互いに20歳代で劇団戯曲座(劇作家三好十郎主宰)で出会った睦五朗氏の依頼もあって舞台脚本を書き始めた。
●いや、いまから8年前にテアトル・エコーの御大・熊倉一雄氏に声をかけて頂き、「大都映画撮影所物語」を書いて、永井寛孝氏の演出で上演。
好評を得たのは、大きな導火線になっている。
●やはり、ナマでお客さんと向き合うこと――舞台の魅力はソレだ。
先日の自主公演 狛江 泉の森会館【読み語りドラマ「雪になる」 】でも、その「実感」を得た。
●現在、巷にはスマホとやらに関わる「ながら族」がマンエンしている。
じっとうつむいたままの男女がバスに、電車に、駅のホームに、街に……あふれている。
●生身(なまみ)の人とじかに向き合うことをにが手とする人たちはゲームとか情報とかのバーチャルな世界に押し流されている――。
●これからは――ライブという表現形態にこだわって書いていく!
●演劇の舞台――
10月30日〜11月2日 テアトルアカデミー睦組公演
『守るも攻めるも/B級火の玉映画物語』
●イキのいいナマ――がおいしいのはマグロの刺身だけではアリマセン!
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ケイちゃんの目 ↓
ひさびさの1万歩ウォーク
秋の日の深大寺寸景
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