●2014年6月2日――株式会社資生堂さんからイベントのご案内を頂いた。
『中村誠の資生堂/美人を創る』である。
●中村誠氏(1926〜2013)は、資生堂の社員として、広告のアートデザイナー、アートディレクター、そして役員として活躍した方だ。
「一業・一社・一生・一広告」をモットーとして輝かしい業績をのこした。
●小生は、民放ラジオ局をベースにむしろ「手当り次第」といった調子で、とりあえずは念願の「物書き業」で生活をしていたが、あの「東京オリンピック」を機にテレビのカラー化が進行し、広告界の活況に心をひかれた。
●さっそく、右も左もわからない広告業界へモーゼンとアタック――当時、銀座7丁目にあった広告代理店第一企画に入社。(第一企画はその後、旭通信社と合併、アサツーディ・ケイとなった)
●映像・ディレクター内田健太郎氏と出会い、これもまた「手当り次第」といった調子でテレビCF制作に入れ込んだ。仕事の内容は、テレビCFの企画・コピー・CMソングの作詞などである。
●そんな時に、社命で資生堂担当を命じられた。当時はあくまでも「電波メディア」をと希望していたので、まず、資生堂全枠提供のラジオプロ野球中継の各イニングスのオモテ・ウラに対応する男子用コスメ……のCM&コピー・ディレクションを担当。
●その後、歯磨エコーのラジオCMを制作して「1969年ACCラジオ部門金賞・コピー個人賞」を受賞する。
第一企画の自由な社風もあって、以後、せっせとよく働いて、内田健太郎氏とのコンビで、ブリヂストン・旭光学などビッククライアントのCFを量産した。
●そして図にのって、CM制作集団をつくり、テレビCF制作を手がけ、資生堂石鹸バスボンやリップアミュレット(女性のくちびる用商品)を、演出は電通映画社を離れてスグの川崎徹氏、音楽は桜井順氏で制作する。
●というワケで、資生堂さんのメーンの広告作業にかかわったわけではないが、その広告世界とはかなり密接な場所にいた。その体験はのちの小生のために文句なしに役に立っている。
●今回のイベント当日は、銀座の資生堂の3ヶ所の会場には外部スタッフが大勢詰めかけ、大盛況だったが、まず、当時の資生堂宣伝部のコピーライターで制作ディレクターだった中尾良宣氏と久々の再会。また、元電通の制作部門のエース小田桐昭氏ともお目にかかれた。さらに、CF制作プロデューサーだった小西亮志氏や二口善乃氏……などともうれしい再会をした。
●中国唐の時代の詩人・劉廷芝(りゅうていし)の言葉を思い出した。
『年年歳歳花相似たり・歳歳年年人同じからず』
このマスコミ・ゲーノー界は、実に多くの人が離合集散する。
でも――その雑で、理不尽で、不合理な流れの中にあっても、ペースをくずさず、しっかり仕事をしている者も……いるのデス。