お三方の訃報に接して。
(東京新聞2014年5月31日付朝刊より)
粕谷一希さんのこと。
もともと一面識もない粕谷一希さんには、創刊されて間もない『東京人』編集部に参上して、編集長だった粕谷さんに企画のプレゼンテーションをしたのです。
その企画書にさらりと目を通されて、すぐさま編集チーフの望月重威さんに「この企画を具体化して」とおっしゃった!
その即決即断にビックリ! そして感激。
それが「フォトと575と短文」で東京の街歩きを――という内容でした。
1冊で3ヶ所。そして読者からも、五七五を募るというコーナーを入れて、計四つとコラムを書かせてもらいました。
これが、うれしくて、楽しくて……5年間も続いて、そのあと、冬青社の高橋国博社長が一冊の本にまとめてくれたのです。
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モノクロ写真の処理や活字の書体やレイアウトも行き届いていて、いい本になりました。
ブックデザイン&イラストは親友の高氏雅昭さん。
その後、粕谷さんは出版なさったご自分の著作本は必ずご恵贈下さり、時には新宿の文壇バー『風紋』などに招いて下さって(その後も何回か)ごちそうして下さった。
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そして、小生がテアトル・エコーに書いた脚本『大都映画撮影所物語』公演には周囲の親しい皆さんを誘って観にきてくださり、「いいねぇ。よかった」とほめて下さり、その後にお祝いの宴まで催して下さったのです。
『東京人』の企画で「東京――江戸」にあらためてこだわり、やがて時代小説を手がけました。
「とにかく書く――書き続けている望田さんがエライ」とほめて下さって――。
粕谷さん。やさしく導いて下さってありがとうございました。
心からご冥福をお祈りしております。
(東京新聞2014年6月23日付朝刊より)
深町幸男さんのこと。
あれは、西武新宿駅に近い歌舞伎町の『花』という店でした。
ジャーナリストや俳優や、芸能関係者の多い店でした。
たまたまカウンターで並んで座っていて、元ゲーノー人だったママが紹介して下さって。
「あの有名な演出家のフカマチさん!」と大感激。
その後、何度もお目にかかり、「そのうち本庄さんのホンで何かやりましょう」とまじめにおっしゃって下さった。
そして、あれは俳優座劇場で上演した向田邦子さんの「父の詫び状」(出演杉浦直樹・名古屋章)だったか。
でもその時(だったかなぁ?)深町さんは健康を崩しておられて、酸素ボンベをかたわらに置いて演出をしておられた――。
優れたお仕事をいくつも遺された深町さんのお人柄は忘れません。
そういえば、杉浦直樹さんも名古屋章さんも亡くなられて……。
近頃のシバイは……とグチっぽくなります。
そう、鶴田浩二さんの『シャツの店』(脚本山田太一)も忘れていません。
また、あちらへ行ったら、いろいろお話させて下さい。
(東京新聞2014年6月24日付朝刊より)
横山(青空)あきおさんのこと。
昭和40年(1965)代は、ニッポン放送、TBSラジオなどでせっせと番組の構成台本を書いていた。
青空はるお・あきおのご両人に十勝花子さんを加えてのお正月特番ワイド(TBSラジオ)などもやりました。
スクラップブックを引っぱり出してみたら……放送批評のコラム記事がありましたよ。このトリオも達者でしたけど、(若い)ボクもまじめにホンを書いていました。
そのコラム(読売新聞昭和44年1月6日付)を読みました。
「台本がしっかりしているから……」なんて書いてありました。
(読売新聞昭和44年1月6日月曜日付(7)面より)
そういえば、たしかSL――汽車ポッポをネタにしているコントなどがあって、はるお・あきおのご両人が機関士のチーフと助手でしてね。
「出発進行!」と叫んでヒモを引くと「ポーッ!」と汽笛が鳴る。
なぜかなぜだか「水洗トイレの水がジャー!」というコトになって……。
いまでもおぼえてるんですよ。
あきおさんが「トイレに行きた〜い!」と叫ぶとはるおさんが「機関士助手、失格ぅ!」と応じる……そんなオチでした。
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それにしても、その後、あきおさん、あなたは役者として活躍していましたね。
「まじめな高勢実乗のようで」やたらおもしろかったなぁ。
いずれ、あの世にいったら、また一緒にコントやりましょうね、あきおさん!
ケイちゃんの目 ↓
1万歩ウォーク/勝どき橋・月島橋あたり