2015年10月12日 熊倉一雄さん逝去 享年88歳
東京新聞2015年11月18日付
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小生は、一貫して「芸能マスコミ」業界で仕事をしてきた。
そして「物書き業」の端緒になったのは放送作家だった。民間放送といってもまだテレビは開局しておらず、ラジオのみだった。
当時、東京有楽町にあったニッポン放送で、筆名本庄一郎でさまざまな番組の作・構成に関わった。「有楽町通い」の時代だった。
なにしろ昭和34(1959)年頃から、開局まだ間もない現場で手当たり次第に仕事を引き受けた。ギャラが安かった。でも、仕事があることそのものが救いだった。
ラジオドラマ・コント番組、DJ番組構成など、種類は問わず……だった。
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熊倉一雄さんとの出会いは、その「有楽町通い」の時だった。
あれはたしか、若き日(30代前半?)の熊倉さんと久里千春さんのコント番組が手初めだった。
とにかく熊さんはパワフルで、個性的で、下品にならないユーモアがあって――好評だった。
その後、民間放送連盟の「防災キャンペーン」のPR素材制作担当がニッポン放送なので、「イザという時に〜いつものラジオの確かな情報」といったスポット素材などを企画制作した。
来年たしか、創立60周年になるテアトル・エコーには、当時すでに達者な俳優がそろっていた。思えば、故人になられた納谷悟朗さん、山田康雄さん、平井道子さんなど多士済々で、やたらなつかしい!
その他、とにかく熊倉さんにお願いしたモノはワンサとあるが――歌のうまい熊倉さんにはこんなモノもお願いした。
週刊少年漫画雑誌「週刊少年ジャンプ創刊2周年/100万部突破記念の歌」
「ジャンプソング」
作詞 本庄一郎(現・本庄慧一郎)
作曲 玉野良雄
歌 熊倉一雄・こども合唱隊
「ジャンプソング」
作詞 本庄一郎(現・本庄慧一郎)
作曲 玉野良雄
歌 熊倉一雄・こども合唱隊
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さまざまな芸能人と仕事で関わったが、小生は折にふれて「畏敬するお3方」として、桂小金治さん、小沢昭一さん、そして熊倉一雄さんをあげてきた。
いまやそのお3方も鬼籍にはいられて――。
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熊倉さんが代表を務められていたテアトル・エコーとのおつきあいも長い。
現在の恵比寿・エコー劇場以前の公演もこまかく観ていた。
矢島正明さんや故牟田悌三さんも団員として舞台に立っていた。
そして、エコー劇場での2006年131回公演「大都映画撮影所物語」の脚本を書かせてもらった。
演出の永井寛孝さんの配慮で「エコー・テイスト」になった脚本は、熊倉さんとベテラン沖恂一郎さんのコンビを中心に「なるほど!」というコメディに仕上がった。
テアトル・エコー131回公演『大都映画撮影所物語』より
作:本庄慧一郎 演出:永井寛孝 撮影:石川純
社長・河合徳三郎役:熊倉一雄さん
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ときどき熊倉さんのご自宅に電話したりFAXしたり、あるいはお手紙を差し上げたりした。夏前にお電話した時、奥様はいつもの快活な応対だったが……熊倉さんご本人の「お声」の調子が、正直、気になった。
そして、残暑のさなかの8月に、テアトル・エコーから公演案内のDMが届いた。
さっそく「熊倉さんが出演なさる舞台が見られる! ウレシイ!」というFAXをさしあげた。
そして、そのあと「熊倉さん降板」の新聞記事。
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その後、ついつい当方からご連絡することをさし控えた。
そして、10月17日付けの新聞各紙の訃報の記事――。
毎朝、4時〜5時に起きて、複数紙を読む。
ハラの立つコトの多い昨今である。
社会面を開いて思わず「うわぁ!」と叫んでいた。
東京新聞2015年11月17日付
東京新聞2015年11月17日付
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『文藝春秋』(昭和40年代)合同酒精の広告ページ
木山みづほミニライブにて(2003年)/ゲストとして挨拶する熊倉さんと本庄(横浜高島屋にて)
第18回読売演劇大賞/選考委員特別賞「おめでとう!」と熊倉さんに寄り添う本庄(帝国ホテル授賞式にて)
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そういえば――
あの当時(ムカシ!)、熊倉さんとたびたび酒席を共にしたが。
小生が関わっていた東芝レコードの宣伝担当Oさんなどと、新宿歌舞伎町のバーだかクラブで、これから発売という「帰ってきたヨッパライ」(ザ・フォーク・クルセダーズ)の歌を、熊倉さんを交えた仲良しグループで傍若無人の大合唱したり――。
ワキで野坂昭如さんたちが軍歌を合唱していたが「ヘンな歌をうたってやがる」なんて、帰っていったコトもあった。
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たまたま、熊倉さんがよく通ったらしい新宿3丁目の「酒場どん底」を素材にした舞台脚本をまとめた。
創業者の矢野智さんにも話を通じての企画だ。
それで矢野さんに熊倉さんのことも話したりしていたのに。(急に、だらしなく……泣けてきた)
熊倉一雄さんのご冥福を心からお祈りいたします。