「社会&芸能・つれづれ愚差」第483回(通算595回)


8月15日(昭和20年/1945年)の記憶と記録

●71年前の8月15日は「ドピーカン」(映像作りのスタッフなどが使う業界用語で、パーフェクトというべき晴天のこと)だった。
 正午の「玉音放送」(天皇陛下ご自身のメッセージ)は、練馬区石神井町8丁目の叔父の家の前の道で、叔母と二人、直立の姿勢で聞いた――その放送を近くの隣組長の高橋氏がスピーカーを通して大音量で流したのだ。

●その年――昭和20年(1945年)の初頭から春先にかけて、アメリカ軍の大型爆撃機B29等による空襲は日常化していた。
 あの「3月9日〜10日」のいわゆる「下町大空襲」の猛爆撃で、すでに一般市民は恐怖と混乱のウズの中で右往左往していた。

●本庄慧一郎(望田市郎)は、北区滝野川第六小学校6年生。
 進学進路を考えるゆとりなどまるでない、ひたすら戦々恐々とした日々だった。
 しかも、ちっぽけな家も家財道具も、大事にしていた学校用具も、4月13日の夜間空襲で灰燼になった。
 しかし、唸りをあげて落下する大量の焼夷弾を、その業火の下をくぐりぬけて、九死に一生を得た。

●そして、文字通り「着の身着のまま」の父親と弟の3人(母親は前年に病死していた)は、母親の実家である石神井町の小沢家に頼み込んで避難させてもらっていたのだ。

●8月15日正午の「玉音放送」の天皇陛下のメッセージの意味は判別つかなかった
 ――しかし、すぐそれは「大東亜戦争は日本の敗戦によって終結した」ということを知った。

●もし、あと2、3年早く生まれていたら「特攻隊に志願して」戦死していたはずた。この空襲激化の数カ月間は「いつ爆死するか」という恐怖と「いつ餓死するか」という不安に翻弄され続けた日々だった。

●そして、戦後の生活は「綱渡り」のような不安定さに苛まれた。
 その辛苦と苦労は東京在住だった者でなければ、とうていわかるまい。
 いや、あの広島や長崎や、はたまた直接に空襲という名の業火と恐怖に翻弄された者でなければ、その地獄そのももの苦しみは「実感」できまい。

●いやいや、小生の「体験」よりも、もっと苛酷で残酷で悲惨な渦中で逝った方々も大勢いらっしゃる――
 その「地獄の時間」が、とにもかくにも昭和20年8月15日に断ち切られたことは間違いない。

近代史・昭和史等の本棚からの資料本

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●絶対忘れることのできない「8月15日」。
 そして「8月6日の広島」、「8月9日の長崎」。

●リオ・オリンピックのテレビ中継を見ていて――思う。
 「それも、これも、平和であればこそだろう!」と。

●オリンピックのコンセプトの「フェアプレー」には、殺戮や破壊や侵略や征服はない。

●世界中の人々がそれぞれの国状を超え、国境を超えて集まり、ひたすらエネルギーと技を競い合うオリンピック――その大前提になる「世界平和」の重要性を、ここであらためて認識する思慮と英知を再確認すべきだと、ひたすら強く強く思う。



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ケイちゃんの目 ↓

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戦時下のイチロー君


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「不幸中の幸(さいわい)」に救われての人生?

— posted by 本庄慧一郎 at 03:03 pm  

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