「ニッポンの芸能人」シリーズ75

飲む・打つ・買う
 江戸時代のざっと270年間のうち、中期から後期にかけての政治・社会を背景に時代小説を書いている。
 当時、長屋住まいの男たちのほとんどが「飲む・打つ・買う」を「男の三大道楽」と言ってはばからなかった。
 ただし、現在の宝クジにあたる「富くじ」なるものはおおっぴらに存在したが「丁半バクチ」などはご法度だった。
 「買う」は説明するまでもなく「女郎買い」のことで、かの吉原が幕府公認の色里だった。が、この吉原は総じて遊び代が高く、金のない好き者は、安く手軽に遊べる非公認の色里「岡場所」」にもぐり込んで隠れ女郎を相手に遊んだ。
 江戸はなにしろ、大ざっぱにいえば男が3分の2、女が3分の1という特殊な構成だった。
 参勤交替で江戸詰めになるさむらいは単身赴任。関西から江戸に出店する商家の雇われ人たちも同様。さらに、地方からひと稼ぎをめざして出てくる連中も当然のことながら単身であった――となれば、江戸の〔女ひでり〕はエスカレートするばかりだった。

 これまた当然のことながら、吉原をはじめ、女遊びで商売する隠れ色里が大繁盛した。が、遊ぶ金のない奴らが、夜隠にまぎれて女たちを襲うというのが続発していたようだ。

痴漢・ちかん・チカン
   痴漢といえば、ずばり「性的犯罪行為」をさす。
 最近、やたらこの「性的犯罪行為」が頻発している。
 大学のセンセイから、警察官などの公務員、そして浅はかなゲーノー人など……あらゆる職業の男たちが、このハレンチ罪で逮捕されている。
 痴漢という言葉はほんらい、「おろか男・ばかもの・しれ者」というのが第一の意味である。
 たいてい、酒を飲んでおのれを麻痺させて、若い女性を標的にするといったのが多いが、中には酒などは飲まず、シラフで行為に及ぶというヤカラも多いらしい。
 あの「手鏡教授」のケースがそれで、これはもう、哀れだし、その結末はただミジメとしか、言いようがない。
 「飲む」といえば例によっていま、飲酒してのクルマの運転が大問題になっているが、「飲むなら乗るな」という単純明快なルールが守れない野郎たちもレッキとした「大痴漢」なのである。
 もっとも、酒などに関係なく、金欲一筋の欲かきジジイも利権がらみの政治・行政のフィールドにウロチョロしている。
 この種の人間にとって汚職やワイロで裏金をかき集めることは、人間としての矜持を捨てての「打つ――バクチ」なのだろう。

 言ってみれば、昔むかしの江戸時代の男どもの「飲む・打つ・買う」はやたら醜くデフォルメされて現代にのさばっているということだ。

痴漢したくてしょうがないヤカラ
 男の性向の中には、「手におえないケモノが棲んでいる」と思う。でもそのケモノを放し飼いにしては絶対いけない。
 つねに、手なずけておくべきだ。
 つねづね思うのだ。男のあれこれの小面倒な欲望も、寛容なパートナー(たとえば恋人とかワイフとか)に許容してもらってこそ、男は息がつけるのだ、と。
 浅はかで軽はずみな痴漢行為で警察に逮捕される男は、つまりは「丸ごとの自分を受け入れてくれる人や場所を得ることが出来なかった」という、それはそれは不幸な人種なのだ。
 「男にとっては女に言い寄る時までが春で、結婚して夫婦になってしまうととたんに冬だ」(シェークスピア「お気に召すまま」より)
 こんなケースの男たちは痴漢に変身するのでアル!

— posted by 本庄慧一郎 at 09:20 am  

「ニッポンの芸能人」シリーズ74


前進座創立75周年記念公演のこと
 現在、中村梅之助さん率いる前進座との縁には、格別の思い出がある。吉祥寺の前進座劇場が出来る以前(劇場完成は1982年)、木枠の大火鉢のある質素な造りのけい古場におじゃましている。
 ぼくの演劇の師である劇作家三好十郎氏の指示で、演出の勉強に行ったのだ。
 今回の三越劇場及び前進座劇場での公演は「劇団創立75周年」とある。
 ぼくの資料の中に「グラフ前進座/創立55周年記念」があり、その歴史をじっくりと再見した。
 その舞台作品歴もすばらしいが、映画「戦国群盗伝」(原作三好十郎)「人情紙風船」「阿部一族」などの骨太の名作がズラリと並ぶ。
 故人となった河原崎長十郎、中村翫右衛門、先代河原崎国太郎。そして先代嵐芳三郎、瀬川菊之丞、また名脇役故坂東調右衛門。さらに藤川八蔵。そのお孫さんにあたる藤川矢之輔は今回の演目でも4役をこなしているベテラン……というツブ揃いの役者(!)のさまざまな舞台のダイナミズムは、さわやかな魅力にあふれていた。
 75年という歳月を考える。おのれの人生と重ね合わせて、その時の流れを考える。
 現在の演劇のあれこれを考える。

三越劇場「たいこどんどん」の舞台の華
 井上ひさし作、高瀬精一郎演出「たいこどんどん」。
 パンフレットに演出の高瀬精一郎さんの「たいこどんどん春秋二十年」の一文があり「この秋の公演で四百数十回になる……」とある。
 高瀬精一郎さんは、坂東調右衛門さんの御曹司で、前進座の名作舞台といわれる数々の演目の演出を手がけてきた方だ。
 「近松からの出発」(演劇出版社)という重厚なご著書があり、近松作品にとりわけ造詣が深い。「近松原文読みの会」といったユニークな研究会を主催されていて、高瀬さんの「語りの名調子」は特筆に価する。
 その高瀬精一郎さんの演出になる「たいこどんどん」の舞台は以前にも観ているが、近松ものなどの本格歌舞伎舞台の演出とはガラリと趣きを変えていて、文句なしに楽しい。もちろん「ミュージカル」と銘打っている演目だから、「和服で下駄タップ」などのポップした趣向が随所にあって、ワクワクする。
 主役のたいこもち桃八の松山政治、放蕩三昧の若旦那清之助の河原崎国太郎コンビの、自業自得と受難の珍道中物語には、上質のエンターテインメントが横溢している。
 この種の舞台は、出演俳優の所作やせりふ術が未熟だと魅力は台なしになる。さらに「ミュージカル」としてのリズムやキレや軽快さがアピールできなければ、当然、みじめでダサイ舞台に変質する。
 その点、出演俳優の皆さんの演技術の確かさは思い切った高瀬精一郎演出に応えて、華やかで艶っぽくて、そしてユーモラスな舞台に結実させていた。
 この種の作品は、いま巷にバッコする若い(?) 劇団ではとうてい上演できないだろう。所作・立ち居振舞いはもちろん、やたら一本調子でやたら駆けずり回り、やたら喚く、どなるといったぶっきらぼうのせりふ回しの生硬な俳優たちには手におえない。

色里吉原と幇間(たいこもち)と
 かく申す本庄慧一郎も、現在「文庫書き下ろし時代小説」では色里吉原やたいこもちはせっせと(好んで)書いている。
 といっても「たいこどんどん」の桃八のように哀れをさそうお人好しではなく、女郎の股くぐりや、珍妙なタコ踊りを得意としながらも、実は「法で裁けぬ悪党を裏で始末する」という男……というデンで、目下せっせとチャンバラと悪党退治を書いている。
 それにしても現在の政治や社会には、まったくどうしようもない悪党がウヨウヨしているでしょ?
 しかも、政治というフィールドには、口から出まかせの屁理屈を並べて、時の権力者にシッポを振るハレンチ極まる政治屋たいこもちがワラワラとのさばっていますよね。口八丁・手八丁。裏工作と欲かきばっかりのクソみたいなたいこもち野郎を野放しにしている社会なんて、まったく許せないですね。
 せめて、時代もの小説でそのリューインを下げるということで、拙作もそれなりに売れておりますよ。

これからの前進座さんへの希望
 いまの世の中、文化国家をなんていうのはウワベだけ。
 ほとんどの劇団はあいかわらずの経営に四苦八苦です。
 でもやはり、楽しくコクのある舞台(ライブ)を創り出さないといけません。
  良心も歴史もある前進座さんあたりが、今後も伝統を継承する演目はもちろん、「俗悪な現代を撃つテーマや物語」をガンガン舞台化してほしいですね。
 前進座でしか出来ないモノがあると思います。前進座だからこそ出来るモノがあるはずです。その水脈は、きっと集客パワーにつながります。
 心から期待しています、前進座さん!

— posted by 本庄慧一郎 at 11:41 am  

「ニッポンの芸能人」シリーズ73


「チャンバリストクラブ」のこと
 時代劇映画をこよなく(熱烈に!)愛する人たちが集う「チャンバリストクラブ」なるものがある。
 文芸評論家の縄田一男さん、そして出版ビジネスの仕事をしながら、時代劇とその殺陣(たて)についての研究史家、永田哲朗さんがリーダーとなるこのクラブは、平成3年のスタート。
 毎月、時代物映画を何作品もじっくり観て楽しむという、正に「チャンバラ・マニア」の会である。
 代表お二人の時代物映画に対するたゆまざる愛情と、悠々せまらぬお人柄で、記録的な開催数をかさねている。
 かく申す本庄慧一郎も当初より参加していたが、このところ「チャンバラ小説」の執筆に忙殺されて参加できずにいるのだが。

縄田一男さんと永田哲朗さん
 縄田一男さんの文芸評論家としてのお仕事は、とうに皆さんご存じのはず。時代物小説についての評論では「この人あり」という存在である。
 いっぽう、「武蔵」(講談社)など、ヘビイ級の著作も多いし「縄田一男コレクション」と題したアンソロジーも数えきれないほどある。
 加えて、時代劇映画の「縄田一男コレクション」もぼう大である。
 しかも各作品の詳細について精通なさっていることには、ただ「舌を巻く」ばかりだ。
 縄田さんと名コンビともいえる永田哲朗さんの「チャンバリストぶり」はこれまたテッテイしている。
 まずは、「殺陣・チャンバラ映画史」(三一書房・社会思想社現代教養文庫)は時代劇映画ファンなら知らぬはずのない名著だ。
 最近では「日本映画人・改名別称事典」(図書刊行会)というユニークで手重のする労作をまとめられている。
 縄田さんとの共著「時代小説のヒーローたち」などもコクがあってじつに面白い。さらに縄田さんをはじめ、逢坂剛・川本三郎・菊地秀行・宮本昌孝という諸氏との共著「時代劇への招待」(PHPエル新書)も楽しい。
 そう、チャンバリストクラブのメンバーにはもちろん一家言をもった皆さんがおいでだが、出版社ベネッセでかずかずの文芸誌のお仕事の実積をあげてきた寺田博さんの「ちゃんばらの回想」(朝日新聞社)も読みごたえ十分の有効資料である。時代物ファンを任ずる方にはぜひおすすめしたい。

チャンバラ映画の大都映画のこと
 かつて大都映画というチャンバラ映画づくりに情熱を傾けた映画会社があった。松竹や日活や当時の帝キネといった会社と比較されて、「B級・三流」とさげすまれながら、年間制作本数では最盛期には100本以上、松竹・日活等の会社を押えてトップの勢いを有していた。
 その大都映画に、大伴竜三という監督がいた。モーレツな早撮りのこの監督はぼくの叔父で、その他にカメラマンと助監督の叔父もいたのである。
 幼い頃から撮影スタジオに侵入して現場の空気になじんでいたぼくは、やはり売れっこの石山稔監督に「子役になりな」と言われたことがある。
 その大都映画の巣鴨撮影所を素材に、念願の舞台の脚本を書いた。


 題して「大都映画撮影所物語」――
 2006年11月22日(水)〜12月16日(水)に、再建50周年を迎えた
 テアトルエコーで上演される


 畏友熊倉一雄さんとは、テアトルエコー創立当初から親しくさせて頂いている。エコーといえば、井上ひさしさんが劇作家としてスタートした由緒ある劇団。「周回遅れ」を自称するぼくとしては、この「大都映画撮影所物語」の恵比寿エコー劇場での公演は、飛び上がるほどに嬉しいイベントである。
 大好きなチャンバラ映画、そして現在の仕事の「チャンバラ小説」の執筆――さらにテアトルエコー公演「大都映画撮影所物語」と、まじめにやっているとほんとうに楽しいコトに出会えるのだなあと、しみじみ思っているのデス。感謝。

— posted by 本庄慧一郎 at 11:42 am  

「ニッポンの芸能人」シリーズ72


ネコもシャクシもバラエティだと
 いささか旧聞に属するが――8月末の新聞の芸能欄に「夏の民放ドラマ、視聴率低空飛行」という見出しの記事があった。
 時代劇、深夜枠を除くという但し書きがあるが、12作品の視聴率が出ている。
 春秋の番組編成替えの時期、自局の前宣伝には各局ともにナリフリカマワズとPRする。たとえばニュースワイド番組などに主役のタレントをしつこく登場させるなどして、ガン首並べたメンバーらもせっせとタイコモチ役を演ずる。
 今回リストにあがった「サプリ」、「ダンドリ」、「結婚出来ない男」「CAとお呼び!」……などなど、すべての作品の初回の視聴率が2回目からガタンと落ちている。
 その12作品中、平均15%以上というのは1作品のみだという。
 男女二人の評者いわく「配役固定(ツマラナイ)」「“つかみ”悪い脚本」、そして「バラエティ風量産のつけ」ときめつけているが。
 元放送作家であるぼくは、この12作品のうちの1本も見ていない。
 とても、その時間を待って、じっとブラウン管を見つめる忍耐力も関心もない。
 もっとも局も作り手たちもぼくのような者は眼中にないのだろう。いまのテレビのエンターテインメントはすべて「おとな」を相手にしていないのダ。
 だいたい、現行のテレビドラマは、ほんらいの「劇」ではなくて、うんざりするほどのさばっている安直なバラエティ番組の変形にすぎない。
 Varietyとはほんらい「変化に富むこと」などという意味だが、そのバラエティがキンタロー飴みたいなありさまで、その延長線にあるテレビドラマが変わりばえせずに飽きられるのはアタリマエである。

向田邦子原作「びっくり箱」の舞台について
 向田邦子さんがラジオの脚本を書いていた頃、同じようなエリアでぼくも同じような仕事をしていた。
 向田作品のテレビドラマ化では、先日逝去した久世光彦氏の作品が印象にのこる。(CFの仕事のこと、また企画のミーティングなどで何度かご一緒したし、同席のスナップ写真もあるが、なんとしても早々に逝かれたのは残念!)
 たまたまこれも8月末、NHK3チャンネルで、4月に紀伊国屋ホールで上演された向田邦子原作、中島淳彦脚色、福島三郎演出「びっくり箱――姉妹編」というVTRを見た。
 沢口靖子・余貴美子・永島敏行といった俳優たちが演ずる「向田ワールド」はまるで(?)だった。
 まず、出演俳優たちの「もの言う術」が無味乾燥で、舞台全体が賞味期限切れの味けなさだった。
 そのせりふはまるで、駅のアナウンス「コンピュータ・ボイス」そのものだ。
 演出意図なのかどうか知る由もないが、当の余貴美子・永島敏行クンたちはどう思って演じたのかね。
 そういえば、テレビのドラマの主役たち――とりわけ、見た目だけの容姿を買われてのタレントたちの演技や、とりわけ「もの言う術」の拙劣なこと。
 いや、テレビドラマに限らず、若い出演者が中心の舞台などでは、ひたすら叫ぶ、怒鳴る、喚くといったテイタラクで、とてもとても共感や感動の境地にたどり着けない。
 彼らがもし、電車やクルマの運転手だったら、例外なく事故になる――そんな未熟な者がバッコする業界がダメになってもしょうがないのでアル。

— posted by 本庄慧一郎 at 11:43 am  

「ニッポンの芸能人」シリーズ71


「伝説のCMディレクター杉山登志」のドラマ
 8月28日は、「テレビCMの日」だとか。そう言っているのは日本民間放送連盟らしい。
 かく申すぼくも、放送作家・コピーライター時代、日本民間放送連盟賞(全国民間放送局の番組・CM作品のコンテスト)の審査員などでずいぶんお手伝いしたが。
 さて、過ぐる8月28日、TBSテレビのドラマ「メーッセージ/伝説のCMディレクター・杉山登志」が放送された。
 いまからざっと40年前、ぼくも広告代理店第一企画(のちのアサツー・DK)で、それまでの放送作家と併行して広告のコピーライターとしてスタートした頃で、資生堂のラジオCMなどを担当した。
(そういえばCMの受賞作品リストを見たら「資生堂スーパーポアン」が1965年度ACCラジオ部門秀作賞/「資生堂歯みがきエコー」が1969年ACC賞金賞&ACCラジオ部門コピー個人賞受賞とあった)
 当時すでに「この人あり」といわれた杉山氏はのべつ背中合わせだったり、たびたび顔を合わせてもした。
 ぼくは第一企画で異才を放つディレクター内田建太郎氏とほとんどの仕事でバッテリーを組んでやたら仕事をこなしたものだ。
 結局、杉山氏のテレビCM作品集はじっくり拝見したものの、ご本人とゆっくり話す機会はなかった。
 そして間もなくして、その杉山氏が自殺したという知らせを聞いて衝撃をうける。
 遺書と言われる文章がある。「ハッピーでないのにハッピーな世界など描けません」「嘘をついても、ばれるものです」などのメモ書きの言葉である。
 ぼくは、放送作家から広告のコピーライター、そして現在の小説家&脚本家と職業は推移したが、やはりコピーライターの仕事にかかわり過ぎたようだ。

あの遺言といわれる言葉について
 これからという広告業界だったからぼくは意欲マンマンだった。が、話題のクリエイター杉山登志さんの「自殺」にはほんとうに戸惑った。しかも「ハッピーでないのにハッピーな世界など描けません」「嘘をついても、ばれるものです」が遺言どというのだ。
 ぼくはこの言葉は広告――テレビCM全体に対する彼の痛罵と、当時は理解していた。広告業界とはつまるところ「虚」の世界だと思うようになった。
 だから、可能な限り、余計な飾りを省き、とにかくウソをつかないCMをと肝に銘じて仕事をしてきた。そして結局は離脱して、小説家になった。
 ドラマでは杉山登志さんの自殺原因は、「映像制作者としての映像作りそのものの悩み」のように描かれていたが、はっきり言ってクビをひねった。
 人間として、男としてコレと選択した職業がしょせん「虚業」である――ということに彼はガマンがならなかったのでは、とぼくは思うのだ。

企業や商品のいい加減さについて
 最近、企業ぐるみ、組織ぐるみの金銭がらみの犯罪が多発している。
 また、有名ブランドである商品における欠陥問題も枚挙にいとまがないほどに続発している。(詳細に具体例を挙げれば1冊の本になる!)
 ぼくはいま、「とても真面目にテレビコマーシャルなどを作ってはいられないのでは」と強く思っている。現場の制作者たちはどう思っているのか。
 いや、百歩ゆずって、たとえ企業や商品がまっとうだとしても、現在放送されているコマーシャル群の質の劣悪なことといったら……ほんとにヒドイ。
 やっぱりもう、ぼくは広告作りははっきりご免こうむるね。

ドラマのオープンニングの日本民間放送連盟のCM
 このドラマのオープニングで日本民間放送連盟というクレジットの長尺CMが流れた。愚劣としか言いようがない内容だった。
 「いったい、何を考えているの?」と質問したくなるコマーシャルは多いが、この民放連のモノはまったく……何と言っていいか、だ。
 あれやこれやで、「元広告人として」は、ひどくゲンナリした……。
 実はこの放送の前日8月27日の朝日新聞の書評欄に「テレビCM崩壊/マス広告の終焉と動き始めたマーケティング2.0」(翔泳社刊)の紹介記事を読んでいた。書評の引用文に「質、信ぴょう性、効果のどれをとっても最低」とか「それはまるでショーン・コネリーだ。つまりセクシーだが、これからの展望はあまりない」とある。
 最近のテレビの番組もCMも、なんだかカメダ・コーキのように下品だと思う。
 さて「テレビCM崩壊」という本を買おうか、どうしようか?

— posted by 本庄慧一郎 at 11:45 am  


*** お知らせ ***
自主CDを制作
21.1:130:128:0:0::center:0:1::
平和を願う歌
「鳥になれたらいいね」
総合プロデュース:本庄慧一郎
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