「桂小金治独演会」のこと
07年3月21日(水)春分の日。
「異才!麻生芳伸さんをしのぶ会・一周〔季〕記念イベント/桂小金治独演会」が、中野区沼袋の山田屋さんの大広間で開催された。
麻生芳伸さんは芸能プロデューサーとして、津軽三味線の高橋竹山さんを東京に紹介(コンサートをプロデュース)し、現在の津軽三味線のブームのきっかけを作った人だ。
そして芸能プロデューサーとしては、落語の林正蔵(先代)、古今亭志ん生、同じく馬生、そして志ん朝さんのご一家と親しみ、ちくま文庫の「落語百選全6冊」の編著はロングセラーとして売れている。
ぼくは麻生さんとは数年前に出会い、おつきあいの歳月はさして長くはないが、そのわりにはヒンパンにお会いしていた。
ある時、ぼくが「いま、講演などで引っ張りだこの桂小金治さんをなんとか高座に戻ってほしいとアピールしている……」と話したところ、麻生さんは「ぜひ、小金治さんの独演会を実現したい」とたちまち目を輝かせて意気込まれた。
05年11月22日に横浜のにぎわい座に小金治さんが出演するというので(団体の貸し切りだったが、麻生さん、ぼく、そしてワイフの三人で)入場させてもらった。
同じ年の7月〜8月に、ぼくはギラン・バレー症候群亜型ミラー・フィッシャー症候群というややこしい大病をして、治療・リハビリで4ヶ月は――と診断されていたが、主治医に「自主リハビリ」の嘆願書を提出、許可をもらって退院した。しかし、歩行もままならない状態だった。
が、にぎわい座にはワイフのサポートで強引に出かけた。
実はその直前、麻生さんの要請で、退院後初の外出(電車に乗るとか)をしていた。
「ぜひ、一日も早く、中野沼袋の山田屋の西村重博さんに紹介したい」ということで、「退院後、初外出」をしたのである。
そんなヨチヨチ歩きのぼくは、にぎわい座のその日、偉丈夫の麻生さんの足運びにまるでパワーがないことを見て取ったのだ。
大病直後の亭主をサポートしているワイフはゆっくりと歩を運ぶ麻生さんから「この3ヶ月、食欲がなくて10キロほどやせた」という言葉を訊き出し「病院にいらっしゃった方が……」と勧めている。
病院嫌いを自称していた麻生さんは、それでも親しい友人の皆さんに相談して阿佐谷川北病院へ出向いた。その折の診断書と検査スケジュール表をFAXで送ってきて「なあに、医者はすぐオーバーなことを言う」と元気そうに電話口で語ったが。
それから1ヶ月と9日後の05年12月31日に急逝した。享年67歳。
06年3月19日の中野サンプラザのでの「しのぶ会」開催
親しい友人・お仲間が「しのぶ会」を開催。130余名の参集でぼくは献杯のごあいさつを承った。
ぼくの時代小説の初期の短篇に「まさかの坂」がある。
人生は上り坂・下り坂、そして「まさか」という坂もあって……という江戸人情物である。
麻生さんの急逝は、「まさか」であった。
そのしのぶ会をきっかけに有志の皆さんが「桂小金治独演会」を具体化しようということになり、いったんはあきらめていたぼくもお手伝いをすることになった。
そして、木村聖哉・青木英明・田島正夫・志田盛弘さんを中心として作業は進められる。
当日は70〜80名というお客を予定していたが、前回のしのぶ会の皆さんだけでたちまち満員ということになり、ぼくのお客さんにご案内することも出来ずのありがたい現象になった。
しかし――。
この企画に積極的だった山田屋さんの西村重博さんはこの3月2日に急逝されたのである。
前日の3月1日(木)に「能管春の集い」があり、ぼくは3月1日の午前9時電話で「席ありますか」と西村社長と話している。
「弥生3月の1日、いちばんのお電話が本庄さんからのもの。うれしいことです」といういかにも江戸の商人(あきんど)さんらしいごあいさつだった。
その方が翌日、お亡くなりになったのである。
能管の力強く主張する音色も印象に鮮やかだったが、西村社長の彼岸への旅立ちもまた強烈な印象を遺した。
ここでも「まさか」と呟やかずにはいられなかった。
桂小金治さんの熱演・満員・大好評!
ぎゅう詰めの大広間での開催のごあいさつを承った。
小金治さんは講演のハードスケジュールのせいか、はたまた気候不順のせいか、空気の汚れのせいか、のどを痛めていた。
でも、なんとか随談「親父の背中」と題して約1時間の(木の葉を鳴らしての演奏もあって)ホットなトークでかっさいをあびた。
そして翁家喜楽さんの太神楽(曲芸)がこれまた大好評。
トリは小金治さんの「禁酒番屋」で爆笑のウズ。
声の不調をおしての熱演は文句なしの名演となった。
第2部「しのぶ会」も満員で――
山田屋さんの地下ホールでの第2部も、立錐の余地もないほどの賑わいになった。
西村重博さんにとっては三七日を迎える日が初めての春分の日ということで、ご仏前に、尽力を頂いた「桂小金治独演会」の大成功のご報告のご焼香をさせて頂いた。
奥さまやご家族の皆さんもよろこんで下さった。会が終了して、ぼくはワイフと二人で、居酒屋で呑んだ。麻生さん、西村社長との思い出を語り合った。
思えば、沼袋はかつて(四十数年前)住んでいたことがある。演劇や作家への思いを抱きながら悶々としていた。
さまざまな意味で、忘れられない地でもあるのだ。
今回のイベントにはいくつものえにしの糸が交錯していた。感無量の思いがある。
P.S.
ぼくはいま、時代小説家としてたくさんの注文を頂いている。
文庫書き下ろしという長編もすでに三十数冊。この長編を書くきっかけになったのは日本文芸家クラブの企画で、報知新聞に1ヶ月連載の小説を書いた(都合3チャンスを担当させてもらった)ことだ。その折の報知のご担当は秋保洋征さんだったが、この日、麻生氏の親友、志田盛弘さんが「ぼくの親しい友人――」とご紹介して下さったのが、なんとこの秋保さんであった。えにしというのは不思議なものです!
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