テレビ・ラジオ、そしてCF制作、さらに時代小説などを生業として暮らして来た。そのせいで、きまってセカセカとスケジュールに追われる年末年始がキライである。
まず、ふだんからずっとオメデタイような奴らがはしゃぎ狂っておめでたがる風景が大キライで、どうしたってソッポを向く。
とは言え、年末年始には「忠臣蔵物」をはじめ、とくに「時代物」が並ぶので出来るかぎり腰を据えて観る。
「テレビ時代劇風前の灯」(2010・12・15東京新聞)
現在の「鬼平シリーズ」は良質の作品であることに異論はない。
ぼう大なシリーズ作品の当初からのプロデューサー故市川久夫氏とは親しくして頂いたし、「鬼平」に関するご著書もあれこれご恵贈頂いた。
そして現在の能村庸一氏も存じあげているし、大著「実録テレビ時代劇史」も精読している。
このところ劇場映画として「十三人の刺客」「桜田門外の変」「雷桜」「武士の家計簿」、そして 「最後の忠臣蔵」などの時代物も目立った。それなりに力の入ったモノに好感がもてた。
しかし、「テレビの――」となると、どうしても落胆がつきまとう。年末から年始にかけてのテレビ時代劇には、総じて不満が残った。
「見た目」はそれらしいが、「声」と「せりふ」が――
「制作費削減」の折から、時代劇としての「見た目――風格」ある場面を作ることは困難だろう。その点、どの作品もよく頑張っている。が、その仕上がりは、しかしどれもこれも脆弱で、不満が残る。
まず、俳優たちがすべからく「軽い」のである。
ずばり「せりふ」に「肚」がない。「声」に「根っこ」がない。
とりわけ戦国物などでは、モノモノしい衣装(ヨロイ・カブトなど)や武張った演技では、肝心のせりふがすべて上っ滑りっしていることが目立ち、ひたすら情けない。
「テレビ時代劇風前の灯」という実情には、「数年後には番組が枯渇する」という危機があると断じているが、主原因は制作者側の経済的危機が切迫しているからだ。
その問題はもちろん重大だが――それ以前に、新しく制作される時代劇(とりわけテレビ――)の大部分は、出演者や演出家たちの未熟さゆえの生煮え作品が、 ほんらいの時代物ファンを裏切っていると言えよう。言い方を変えるなら、現在の若い演技者たちのカタチだけの表現術(演出もふくめて)ではどうしようもないということだ。
カタチばかりがそれらしく見えても、ドラマとして、物語として胸にズンと響いてくるものがなければ――と、ファンとして切実に思う。
制作陣の努力や苦闘には敬意を表するが、時代劇にふさわしい「肚」のすわった、または「根っこ」のある「せりふ」や「声」の欠落した演技では、しょせん「画竜点睛を欠く」で――つまり欠陥商品だものネ。
追伸・映画「最後の忠臣蔵」について一言
映画「最後の忠臣蔵」(監督杉田成道)はよく出来た作品だった。
杉田成道氏はフジテレビの出身。かく申す本庄慧一郎の物書きはフジテレビ開局(と同系のラジオ局ニッポン放送)からの出発だったので、新宿区河田町にあったフジの制作スタジオで同じ現場の空気を呼吸していた。
杉田氏の代表作「北の国から」の脚本倉本聰氏とはニッポン放送時代から知己を得ていて、あるアニメーションの脚本を交互に書いた時代もあった。 ――で、「最後の忠臣蔵」だが、文句なしの出来だと言えた。
ただ、(隆慶一郎の原作にあるのだが)ラストの主人公の凄惨な自刃は(やっぱり)納得しかねた。
大石内蔵助の家臣、瀬尾孫左衛門は、可音(かね)という大石内蔵助の隠し子を密かに育てとことん尽くし、やっとその可音を嫁入りさせたにもかかわらず、なんと祝言のその夜に腹を切って死ぬとは――。(原作のママだけどね)
結局は、武士(さむらい)なんて自己完結型の、人のこころ知らずの朴念仁だと思った。
あれでは、つまるところ残された可音という娘の祝言も、その後の生活も人生そのものも、必ずボロボロになるものネ。
封建時代のさむらいなんて所詮は周囲に対しての真の気配り、目配りのない非社会的な欠陥人間――なんてコトかねぇ。
あのラストだけは、原作はともかく、主人公の孫左衛門が姿を消す――それを知った朋友の吉右衛門が「もしや、彼は自決するのでは?」と直感して後を追う。なんてコトにしてくれないと、としみじみと思ったネ。
これも「画竜天睛を欠く」になるのかなぁ。
ケイちゃんの目 ↓
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