カオの美醜をウンヌンするのではない。
たとえば、記者会見や、国会に呼ばれて尋問される男たちの顔についてである。
まずは、東京電力の経営者諸氏。
もう一人はAIJ投資顧問・代表取締役浅川和彦のカオである。
彼らのカオの造作もなにやら共通しているように見える。同時にご両者のカオには、やはり「鉄面皮」という三文字が表わす、「異物感」が漂っている。(と思わざるを得ない)
あのカオの皮膚は、普通の人間の皮膚に見えるが、実は「ハレンチ人間ご用達」の特別製に思えてならない。
この種の人間のカオはすでにいくつも見せつけられてきたが、きわめて巧妙に作られた「人造面」としか思えないのは、ボクだけですかね。
ここで「お金の雑学辞典/毎日新聞社編」(昭和54年・毎日新聞社刊)からマネーに関する短文を2つご紹介したい。(以下、引用)
『「空から降ってくる札束」
(略)札束が天から降ってくるのは必ずしもめでたい話ではないのである。
実際に、こういう突拍子もない手段を実行したのが、ベトナム戦争における米軍であった。
ベトナム戦争の末期、攻めあぐねた米軍が窮余の一策で考え出したのが、この紙幣爆弾攻撃作戦。もっとも、ホンモノの紙幣をばらまくわけではない。ファクシミリ印刷でつくったニセ札なのである。しかし、ニセ札といっても個人や、あるいはニセ札づくりの小グループがこそこそとつくるのと違って、国家権力が正面切って堂々とつくるのだからホンモノそっくりに出来上がる。使っても誰にもホンモノと区別はつかないのである。
もっとも、これはアンフェアな作戦で、おおっぴらになれば国際世論の非難を受けることは間違いないので、米軍は巧妙ないいわけの道をつくっていた。
ニセ札は大きい紙の一部に印刷されており、紙幣以外の部分には北ベトナム政府を非難する言葉が印刷されている。
「不幸な北ベトナム大衆を啓蒙するためのこれは宣伝ビラにすぎませんよ、紙幣を印刷したのは人目をひきつけるための効果をねらったにすぎない」
と米軍司令部のスポークスマンは公式声明を発表して、国際世論を煙にまいた。
だが、紙幣の部分は簡単に切りとられるようになっており、それはどこで使っても怪しまれないほど精巧にできていたのである。』(pp.112-113)
『「秀吉のばらまき金脈」
(略)秀吉は金脈=人脈という哲学の持ち主で、それを最大限に発揮した人間であった。まず天正十年(一五八二年)に織田信長の旧領であった但馬の生野銀山を直轄領としたのに始まり、上杉景勝を会津に転封して佐渡の金山をその直轄とさせたり、諸国の金銀鉱山を接収するかあるいは重税を課すなどして、支配権を手中に収め、全国の金銀を自由にコントロールしたのであった。また南蛮貿易の保護と統制を通して、海外からの金の輸入も積極的に進め、これまた自分の思いどおりに備蓄した。
秀吉が天下人になれたのも、こうして得た金銀を派手にばらまいたからといわれ、現代でもそれと同じことが残念ながら行われてもいるのだが、札束で頬を叩くという生ぬるいやり方ではなく、金銀を頭上から降らせた、ともいえるほどだった。
たとえば、天正十年六月、本能寺の変の報に接し、急きょ京都へ向けて出発する際のこと。姫路城の天守閣にあった金の大判八〇〇枚、銀七五〇貫をぜんぶ将士に分配した。
また天正十三年十二月、長曽我部元親父子が大坂へ出仕したときには、黄金一〇〇枚を与え、初めて大判を見た彼らをびっくりさせた、という話もある。
だが、そのビッグ・イベントとでもいえるのは天正十七年五月、聚楽第で行われた金賦(かねくば)りだろう。徳川家康に金三千両・銀一万両、前田利家には金千両・白銀一万両など総計三六万五千両の金銀を諸将に分配した、と『豊臣記』は伝えている。
こんなに金をまいておいても、ひとたび死ねば人間は離反するのだから、空しくなりそうなものなのだが……。』(pp.152-153)
――「お金の雑学事典/毎日新聞社編」昭和54年・毎日新聞社刊より
いずれにしても、金まみれ欲まみれの人間も、ヒストリーも、とことん汚く醜いよなぁ。
ケイちゃんの目 ↓
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