あるいは、「他人(ひと)の苦しみや哀しみがわかる」などと言われます。もちろん、「そうありたい!」とずっと思ってきました。
でも、でも、他人の痛みや苦しみをとことん実感することなど、しょせんは無理だと思っているのです。そう、たとえば、ナマ爪一枚はがした人の痛みさえ、「実感」することはムリだと思っているのです。
ましてや、福島の人たちのように、家族を失い、生まれ育った家屋や故郷そのものを失い、なおかつ残留放射能のためにいつ戻れるかわからないといった状況下に打ちひしがれている人々の気持をそっくり「実感」することなどは……。
現在の為政者たち(政治的・道義的責任を負うはずの者たち)にも、そんな想像力のカケラもないようだと思わざるを得ない昨今です。
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現在、「おのれのこれから」を模索してきて、なんとかずっと舞台の脚本を書きたいと努めています。
そのための1企画のバックデータとして、あの「第2次世界大戦」の戦争で「玉砕を強いられた兵隊たち」のことをしつこく調べています。
「サイパン玉砕の記録」関係のモノはもちろん、実際に実体験した方にもじかにインタビューしました。(その方は先年、故人になられた)
インターネットで「多賀基良さん」という「サイパン玉砕生き残り」の方の手記も心して拝読しました。
『サイパン島の怒号』多賀基良――と題する文章から、一部ご紹介します。
この手記は、石川県輪島市・真宗大谷派 高淵山 正覚寺のホームページ内に、檀家である多賀基良さんの手記を門徒文集として掲載されています。
今回、御住職さまの了承を得て引用させていただきます。
『サイパン島の怒号』全文は正覚寺HPでぜひ、お読みください。→正覚寺HP
(以下、引用)
当時の軍隊では、捕虜となって敵国まで連れていかれた者は、スパイと同罪で銃殺刑にされると教えられていたのです。
振り返ってみると、「お国の為にお役に立とう」と勇んで村を発ったのですが、何かお役に立ったことがあったでしょうか。
怯えながらジャングルの山中をさまよい、側に戦死した友の遺体をそのまま放置して、逃げ惑うことが殆どで、何とお詫びの言葉もありません。
私自身が死と直面した毎日でした。
人生の基礎を築く大事な年代に、4年間も死と対峙〔タイジ〕し、恐怖の逃避生活を余儀なくされ、九死に一生を得て生還しても人目を憚って〔ハバカッテ〕、外出も控え目な生活をしなければなりませんでした。
捕虜となったことで、こんな引け目を感じたり、罪悪感に悩まされることを、戦後の教育を受けた人には理解できないでしょうが、戦前の教育では最大の不名誉で、家門の恥、男子の恥ということをたたき込まれていたのです。
振り返ってみると、「お国の為にお役に立とう」と勇んで村を発ったのですが、何かお役に立ったことがあったでしょうか。
怯えながらジャングルの山中をさまよい、側に戦死した友の遺体をそのまま放置して、逃げ惑うことが殆どで、何とお詫びの言葉もありません。
私自身が死と直面した毎日でした。
人生の基礎を築く大事な年代に、4年間も死と対峙〔タイジ〕し、恐怖の逃避生活を余儀なくされ、九死に一生を得て生還しても人目を憚って〔ハバカッテ〕、外出も控え目な生活をしなければなりませんでした。
捕虜となったことで、こんな引け目を感じたり、罪悪感に悩まされることを、戦後の教育を受けた人には理解できないでしょうが、戦前の教育では最大の不名誉で、家門の恥、男子の恥ということをたたき込まれていたのです。
高淵山 正覚寺のHP内「サイパン島の怒号」より(2012年10月5日)
***
戦後67年。日本はとにかく平和を維持してきました。
戦争は、どう理屈をつけても「殺し合い」という本質は変わりません。
すでに「戦争の理不尽と容赦のない残酷さ」は忘れられつつあります。
いえ、あの「フクシマ」で生活を、運命を根こそぎくつがえされた多くの人々の哀しみや痛みさえも、すでに忘れられているのでは、という気配は濃厚だと思っています。
「他人(ひと)の苦しみや哀しみがわかる」?
それにしても――まっとうな人間らしい想像力を失った者に、ほんとうに「他人の痛み」なんて実感できるのかなぁ。
ケイちゃんの目 ↓
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