「社会&芸能・つれづれ愚差」第342回(通算454回)

当HPを毎週ご訪問して下さっている皆様へ。
 
●このHPを通じて親しくおつきあい下さっている皆様、「週1更新」のパターンをハズして2回ほどお休みさせてもらいました。すみませんでした。

●去る10月30日(水)〜11月2日(土)までのテアトルアカデミー睦組公演『守るも攻めるも/B級火の玉映画物語』をフォローしていたことや、公演時においで下さるお客様をお迎えすることなどで、お休みしました。

【睦組公演「守るも攻めるも/B級火の玉映画物語」観劇感想のご紹介】
 (略)冒頭、子供たちが飛び出して行ったり来たりで、まず引き込まれ、笑えました。その後、出征する息子をめぐる母親と娘のやりとりが続き、時代背景が印象づけられるとともに、「女・子供」に共感を寄せる作者の視点がくっきりとしました。最後の場面で、乱入したやくざ者たちを撃退するのが元気な女性たちだった場面ともよく呼応していましたし、日野丸太郎のおめかけサンに子供がいたことを知りながらそれを許していた夫人に、丸太郎が詫びるという<笑える>エピソードとも相まって、女性たちが大らかに下支えして成り立っている世の中というもの、作者の人間観がよく描かれていました。
 丸太郎の家族が横軸、火の玉映画が縦軸という感じで舞台が進行していき、主人公の内面と人間関係がしだいに重層的に深まっていました。
 長男の死を知る場面、大事な息子の死を「犬死に」と言わなくてはならない親の気持には、思わずもらい泣きしました。遺品のハーモニカも切なかった。
 可憐に<ちり紙のようにひらひら>舞うかと思えば、<海をはるばると、世代を継いで渡る>力強さも持った蝶のイメージが、次男の繊細さと意志の強さに重なり、その次男が無理やりに検挙されてしまうという展開も鮮やかでした。
 このように二人の大切な息子をそれぞれに戦争で奪われてしまう主人公が、同じように戦争で苦しむ庶民のためにサイレント映画にこだわり続ける気概が、静かに淡々と伝わってきました。
 じっくりと人間を描いた、丁寧なお芝居だと思いました。
 私はサイレント映画を知らない世代ですが、舞台の佳境「実話・玉の井物語」の製作発表会見という形で、それを芝居上に<再現>する工夫は、演劇的で大変面白かったです。発想の勝利ですね。(略)
 ウィーン帰りの青年が、屈せずに、明るくちんどん屋の先頭に立っているラストもすがすがしかった。
 お芝居全体に、力強く大衆のたくましさが響き渡り、通奏低音のようでした。
 (略)全体を通じて「泣かせる」場面は、作者の台詞の力もあってそれなりの情感が出ていましたが、「笑わせる」や「拍手・手拍子をもらう」というのは、演技力がないとなかなか難しいと感じました。日頃、当たり前のように感じて観ている芝居も実際は厳しい稽古のたまもの、プロの業なのだと実感しました。(略)
教員・51歳 M・Yさん


●それと、もう一つは、来年(平成26年/2014年)に執筆することになった(初体験!)の新聞小説のための資料集めと、集中べんきょうに努めました。

●主題は「武州埼玉が生んだ全盲の賢人・塙保己一」――この思いもかけなかった企画は、わが祖先の地・埼玉本庄市(筆名の本庄はこの地名に由来する)の有志市民の皆さんのプロジェクトでのキャンペーンの一環として着手するのです。

●あのヘレン・ケラー女史が「日本にもこんな(全盲の)ハンディを克服して立派な仕事(書籍の編さん・出版業)をした人がいたんですね」と感嘆したという「塙保己一」の新物語づくりに挑戦します。

●メディアはあえて「埼玉新聞」ときめ、そのプレゼンに応諾を頂いた。
 新しい年に新しい仕事を!
 どうぞ皆さん、これからもこのHPをご愛読下さい。

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ケイちゃんの目 ↓

**新しい小説と脚本のための資料本いろいろ**

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**墓参の途次**

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— posted by 本庄慧一郎 at 03:10 pm  

「社会&芸能・つれづれ愚差」第341回(通算453回)

台風乱調の10月の訃報

●やなせたかしさん。10月13日逝去。享年94歳。
 放送作家協会の会員としてずっとご一緒していて、会合や会議でよくお目にかかった。
 訃報の記事には「遅咲きの人」とあったが、そんな言い方はマトはずれだ。「生涯現役だった人」と書くべきだ。
 40歳にもならぬうちに「現役」からはずれるスポーツ選手とは異なり、文化芸能の仕事に携わる人たち(といってもやはり個人差はレキゼンとある!)は「長命」である。「真に憎悪すべきは戦争です」とつねにメッセージしてきた硬骨の人でもあった。

●飯島耕一さん。10月14日逝去。享年83歳。
 現在のJR阿佐ヶ谷駅の高円寺駅寄りの線路沿い(現在は高架、以前は地上)に、「一番街」という飲み屋街がある。つねに酔った男たちでさんざめいていた。
 かつては、チマチマした店が軒を連ねるようにして賑わっていたが、いまはがらりと様変わりしてフツーの商店街の風景になってしまった。
 「阿佐ヶ谷文士村」といわれていて、有名作家や詩人や画家や演劇人が集まった一角だった。(太宰治が立ち小便した電柱……なんて「名所」があった!)
 10人ほどの酔客で埋まるカウンターだけの小店Yがあって、俳句を詠む若いママが切り盛りしているせいで、角川書店の「短歌」「俳句」の関係スタッフや俳人・詩人といった人々。いや、角川春樹氏のお姉さんの辺見じゅんさん(故人)なども現れた。
 というのも、お父上である角川源義さんのお宅もすぐ近く、(現在は区の施設として一般の人にも利用されている)にある。
 そのお店に「詩人・飯島耕一」もよく顔を見せていて、お話をした。
 テレビや広告の世界の者たちと異なるもの静かでジェントルなお人だったと記憶している。2004年刊の「詩集アメリカ」では、世界同時多発テロと、終戦時の自らの記憶を重ね合わせてつづったもの――とか。(読売文学賞や詩歌文学館賞受賞)
 「日本語」を大事にていねいに紡いできた「詩人」という営みを大切にしてきた人――阿佐ヶ谷一番街の当時の賑わいと、飯島耕一さんの端正な横顔をあらためてしみじみと想う。

●天野祐吉さん。10月20日逝去。享年80歳。
 いっとき、小生も広告――とりわけTVCF制作に入れ込んでよく働いた。
 天野祐吉さんが雑誌「広告批評」を発刊したのが1979年。その頃、当方もムキになってTVCFづくりにどっぷりだった――いまはもう、ずっと昔のことになった。
 天野さんとのコンビで活躍した故島森路子さん(本年4月逝去)は「ヤマギワ/企業イメージCF」(博報堂・沼上満雄ディレクター担当)で、語り手にはあえて新劇界の重鎮・宇野重吉さんに頼み込んでコピーを「語ってもらった」ことを、「テレビから【人間の声】が聞こえてきた」と絶賛して下さった。
 天野祐吉さんの肝いりで続いていた「広告批評」も休刊になった。
 「批評する」ほどのCFはもうなくなったから――と言われる。
 TVCFだけではなく、現在のテレビをはじめその他の社会一般(もちろん政治家たちもふくめた)に飛び交うコトバはすべからく乱雑になり、無責任になり、「ウソ」が平然と……いや堂々とまかり通るようになった。
 「言葉」をないがしろにする社会は――やがてボロボロ。ガタガタになる。
 一流ホテルのレストランのレシピの素材も、大量の米の産地偽装も……そして原発事故にともなう「汚染」問題のアベ首相の答弁も、まったく「ウソ」ばっかりだ。
 「脱原発――正道貫く」(東京新聞10月21日付の記事の見出し)を唱導してきた、天野祐吉さんを忘れまい。



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ケイちゃんの目 ↓

ちいさな命 これもひとつの命

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目下、猛稽古中です。
どうぞ、ご期待ください。

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— posted by 本庄慧一郎 at 02:54 pm  

「社会&芸能・つれづれ愚差」第340回(通算452回)

人と向き合うということ
 
●考えてみると、ずっと「マスコミ」にかかわる仕事で(なんとか)暮らしてきた。
 当初は「演劇」を志して頑張ったが、生活が苦しく、民放のラジオの仕事を得て息をついた。

●そして民放テレビの開局で、フジTVの「試験放送」の段階から脚本を書いた。いわば日本のテレビが録画など不可能の時代(つまりすべてナマ放送!)からホン書きを業とした。

●そして、平行してTVCFの制作にのめり込んだ。
 現在のTVCFの質には心ときめくモノは見当たらないが、発展途上にあったその時代には、「番組そのものよりオモシロイCMが多い」ともいわれた。

●やがて、「電波というメディアを介しての仕事」にイライラ感をおぼえるようになった。もともと「演劇」が原点だったので、止むを得なかった――と自分に言い聞かせた。

●それで、それまで手をつけたことがなかった「小説」に挑戦した。
 同業者に稲見一良(いなみいつら)という人がいた。
 彼は肝臓ガンになり「余命6ヶ月」と宣告され、手術を3回した。
 その余後のベットで小説を書き始めて、小説4作目。「ダックコール」で第4回山本周五郎賞を受賞。快挙を果たした。

●築地のガン研に彼を見舞いにゆくと「望田(小生の本名)さんのコピーの文章の平易さの中の含蓄(がんちく)といったものにボクは刺激されて、とにかく小説を書きはじめた。だから当のご本人も小説を書いて下さいよ!」

 反対に叱咤ゲキレイされて帰ってきたのだ。

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●稲見一良氏はそれから闘病10年――何冊もの傑作を遺して旅立った。
 忘れることができない友人である。

●以来、小生も小説を書き出し、時代物の短篇長編をムキになって書いてきた。
 そして、あの「3・11」の以前から、「出来るなら原点である演劇――舞台のホンを書きたい」との思いを強くしてきた。

●そして、お互いに20歳代で劇団戯曲座(劇作家三好十郎主宰)で出会った睦五朗氏の依頼もあって舞台脚本を書き始めた。

●いや、いまから8年前にテアトル・エコーの御大・熊倉一雄氏に声をかけて頂き、「大都映画撮影所物語」を書いて、永井寛孝氏の演出で上演。
 好評を得たのは、大きな導火線になっている。

●やはり、ナマでお客さんと向き合うこと――舞台の魅力はソレだ。
 先日の自主公演 狛江 泉の森会館【読み語りドラマ「雪になる」 】でも、その「実感」を得た。

●現在、巷にはスマホとやらに関わる「ながら族」がマンエンしている。
 じっとうつむいたままの男女がバスに、電車に、駅のホームに、街に……あふれている。

●生身(なまみ)の人とじかに向き合うことをにが手とする人たちはゲームとか情報とかのバーチャルな世界に押し流されている――。

●これからは――ライブという表現形態にこだわって書いていく!

●演劇の舞台――
 10月30日〜11月2日 テアトルアカデミー睦組公演
 『守るも攻めるも/B級火の玉映画物語』

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 ぜひ、ご覧ください。

●イキのいいナマ――がおいしいのはマグロの刺身だけではアリマセン!


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ケイちゃんの目 ↓

ひさびさの1万歩ウォーク
秋の日の深大寺寸景

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— posted by 本庄慧一郎 at 03:20 pm  

「社会&芸能・つれづれ愚差」第339回(通算451回)

狛江 泉の森会館のライブに続いては舞台公演です。
 
 狛江 泉の森会館での「本庄慧一郎プロデュース/読み語りライブ+ミニコンサート」は、大勢の皆さんがご来場くださり、しかも、「よかったよ」というお言葉やアンケートを頂きました。感謝です。
 そしてまたあらためてこんなごあいさつ状を皆さんに発送いたしました。  このHPをいつもご訪問くださっている多くの皆さんへ――です。
 ご高覧のうえ、ぜひ、ご来場のほどを。



皆々様につつしんでのごあいさつ
 
天高く馬肥ゆる秋――とかの常套句も、ふくしまの人々やそして馬や牛をはじめ、さまざまないのちあるものにとっては「豊饒の秋」とはほど遠い状況が続いているようで気が晴れません。
愚生・本庄慧一郎も物書き業半世紀あまり。ずっと気弱で神経質で短気でそれで飽きっぽい……と自称してきましたが、(「ウソつけ!」という声もありました?)しかし、一方「コケの一念」でとにかくあいかわらずせっせと書いております。
あの「3・11」と機を同じくして、物書きの原点になった舞台――演劇の仕事をしたいと熱望してきて、おかげさまでその「思い」が、俳優で演出家の睦五朗氏との半世紀余りをへだてての再会で、「具体化進行中」と相成りました。

10月30日〜11月2日 テアトルアカデミー睦組公演
『守るも攻めるも/B級火の玉映画物語』

昨年九月の「炎と愛のフィナーレ/あるレビュー劇場の1945」に引き続いて上演するはこびになり、ここにご案内申し上げ、ぜひご高覧をお願いする次第です。

この脚本は2006年11月〜12月、テアトル・エコー第131回公演として上演されて好評頂いた「大都映画撮影所物語」の時代設定(昭和11年)に対して、それ以前の昭和初年代――日本映画が「サイレントからトーキー映画へ」の動乱期を設定しています。もちろん、物語の内容はガラッと変わりました。
昭和初年代の社会の様相が、本質的には現在と酷似している――と言われます。
アメリカの経済乱調の影響をモロにうけて、当時の日本も不況と生活不安と失業者の急増が庶民の暮らしを圧し、加えて「15年戦争」といわれた「時代の傾斜」が色濃くなってゆく――というキナ臭い時代に変ぼうしていきました。
しかし「B級映画」と蔑視されていた「火の玉映画」に関わる者たちは、おめず臆せずひたすら一途にわが道を行く――といった物語です。 なにしろ最近では珍しい総出演者四十名を越えるという、一生けんめいの舞台です。
ぜひ、ご高覧下さいますよう、心からお願い申し上げます。

2013年10月吉日
本庄慧一郎


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ケイちゃんの目 ↓

石神井の秋の空2景


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— posted by 本庄慧一郎 at 12:36 pm  

「社会&芸能・つれづれ愚差」第338回(通算450回)

サギ師はいくつもの「変名」を使うが――

●たしか税務署への届け用紙の職業欄には「文筆業」と記入している。

●ラジオ・テレビなどの仕事の初期は、筆名本庄一郎だった。
 その後、広告制作の仕事をするようになって本名の望田市郎を使った。

●その後、「時代小説」に着手して、そのまま本名で書いていた。
 しかし、先輩や編集者から「時代小説の作家としてふさわしいイメージのペンネームを」という助言をうけ「本庄一郎」に小めんどうな字画の「慧」の字を名前にくっつけて「本庄慧一郎」になった。

●本庄の二文字は、先祖の地・埼玉県本庄の地名を(親父の要望もいれてのもので)活用したものだが、現在も地元の人々とのプロジェクトで、そのつながりと縁は強く濃い。

●広告・TVCF制作はかなりムキになって取り組んだ時期があるが、企画・コピー・作詞等のクリエイティブ作業は望田市郎だった。

●時には諸般の事情(たとえば競合スポンサーのAとBを広告代理店等のたっての要請があって)でやむなくユニセックスふうの「みさきけい」なる筆名を使うこともあった。
 しかもその「みさきけい」が受賞することもあって授賞式を「雲がくれ」したこともあった。

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●しかし、先にも書いたように心機一転、「時代小説をぜひ!」と勢い込んでの当初は本名で挑戦した。

●雑誌「問題小説」(1991年5月号 徳間書店)にその第1作目が掲載された。 (現在は誌名を『問題小説』から『読楽』に変更)

 『火の女』望田市郎。

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●「時代物ハードボイルド」というキャッチフレーズで大量のヒット作を書かれた作家・峰隆一郎氏の名と(ベテラン梅本育子氏の名をはさんで)望田市郎の名がある。

●その時の担当者は岩渕徹氏で、現在は徳間書店の代表取締役社長になられた。

●その後、時代物短篇をいくつも書かせてもらい、とにかく勉強させてもらった。
 表紙のタイトルのように「時代官能物」をせっせと書いた。
 そして、その官能物にハードボイルド風のテイストを加味した――。

●その後、1993年9月号「問題小説」ではこのフィールドのヒットメーカー峰隆一郎氏の名と並べて望田市郎の活字があった。
 『炎の闇絵――志乃は蛇になる』のコピーがある。

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●あるパーティで峰隆一郎氏にごあいさつした。「強面(こわもて)で取っつきにくい先生」というウワサだったが、そんなことはなく、快く応対して下さった。具体的な助言もうれしかった。

●そして「問題小説」(1996年6月号)では大活字の峰隆一郎氏のナナメ下に望田市郎『狐火と生っ首』の活字が並んだ。

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●雑誌が出てすぐ、仕事場に峰隆一郎氏が電話を下さった。
 「狐火と生っ首。あれ、いいよ。あなた、時代物作家になれるよ。オレの仲間になってよ」
 ぶっきらぼうだったが、心のこもった声音(こわね)が胸をゆさぶった。

●ヒット作を量産したプロ――峰隆一郎氏は2000年5月9日肺炎で急逝した。
 小生の物書き業の師はいつも叔父の劇作家小沢不二夫(1912年〜1966年)。そして劇作家三好十郎(1902年〜1958年)と記す。
 しかし、時代小説というフィールドに導いてくれたのは峰隆一郎氏(1931年〜2000年)であった。

●その後、2000年6月号から筆名を本庄慧一郎に変えて、せっせと「文庫書き下ろし時代小説」なるものを書いた。
 ざっと50冊ほどになるか。最近は舞台の脚本などを書いている。

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●舞台脚本の最新作は――
 日本映画が「サイレント(弁士付き)からトーキー」の昭和初年代の物語。
 総勢40名あまりの出演者……一生けんめいに演じます。
 ぜひ、ご覧下さいますよう、お願い致します。


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— posted by 本庄慧一郎 at 01:49 pm  


*** お知らせ ***
自主CDを制作
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平和を願う歌
「鳥になれたらいいね」
総合プロデュース:本庄慧一郎
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