「ニッポンの芸能人」シリーズ47


コトバは時代とともに変わるというが。
 ざっと50年ほど、日本語を使って生業(なりわい)をたててきた。
 最初にめざしたのは演劇だったし、ギャラをもらっての最初の仕事はラジオの台本などを書くことだった。そして、テレビ番組の時代、さらにラジオ・テレビ、CMソングの大量生産時代――現在は時代小説、加えて舞台脚本への挑戦と、すべて「日本語」とトコトンかかわってきた。
 よく、「コトバは時代とともに変わる」といわれる。それは「結果として」はあり得る。しかし、現在のテレビや一部の文学作品などでは、出演者や執筆者らの不勉強やデタラメさで、やみくもにねじ曲げたり変質させているものがある。
 社会には、変えるべきものがある。そして変えてはならないものがあるのだ。
 その時どきの人間のアサハカさや勝手な都合で、慎重に定めた法やルールを強引に変更するのならそれは法治国家とはいえない――。

いいオトナが「……みたいな」を連発するが。
 あいかわらず、ゲーノー人の離婚・結婚がテレビ視聴率の目玉になっている。
 それこそいいトシをした者がレポーターなる者に愚にもつかないことを喋る場面を見せつけられる。すでに子どももあるはずの彼らが、なにかというと「……みたいな」を連発する。たとえば「お互いの仕事の都合で、すれ違ったままみたいなコトで……」「彼は彼の夢があるからヤッパそれぞれの夢を大事にするみたいな……」ETC……。
 いや、ニュースワイド番組のコメンテーターなるオジサンもオバサンもエラソーな顔で「……みたいな」とのたまう。
 このコトバをあいまい語というが、つまりは、自分の思考や意志決定が出来ないことの表れである。また、自分の発言に責任を持ちたくない人間の常套句だ。
 たぶん、このあいまい語を乱発する者は、しっかり物事を考える力がないか、その努力を怠っているか、でなければきっとある種のウソをついていると考えている。

それにしても、CMも番組の出演者も……。
 テレビ番組にフリー・トークが跳りょうするようになって、とにかく不快で、不謹慎で、不作法な「不良品」がやけに目立つになった。
 とりわけ、うす汚いタレントばかりの仲間うち番組では「ソージャネーヨ!」「ウルセーンだよ!」と、町のチンピラそのままのコトバが日常化している。
 それと、あのアニメ声のキンキラ声。食い物番組はもちろん、ほんらい真面目であるべきニュース番組のレポートにも「さかりのついた猫」のようなうわずった奇声が登場する。
 CMもやたら15秒スッポットが増えているせいか、浅はかで拙い目立ちたがり演出にともなうCMがふえ、どれもこれもカンに障る。
 「なるほどなあ」と納得することのない番組もCMも、そして出演者も……いや、政治家らも、さっさと消えてほしい。(……みたいな気になるなあ?)

— posted by 本庄慧一郎 at 05:06 pm  

「ニッポンの芸能人」シリーズ46


元祖鬼平・松本白鸚。
 池波正太郎原作「鬼平犯科帳」といえば、もっぱら現中村吉右衛門のシリーズがおなじみである。
 この人気のシリーズは、初代が松本白鸚(当時幸四郎)。つまり、現在の松本幸四郎、中村吉右衛門の父上。そして市川染五郎、松たか子のおじいさまだ。
(この「鬼平」シリーズのゼネラルプロデューサー市川久夫さんは先年亡くなられたが、とことんジェントルで優しい先輩であった)
 もともと「鬼平」はこの松本白鸚(先代中村吉右衛門)の主演でスタートしたのだ。
 ぼくはせっせとTVコマーシャルを制作していた頃、カティサークというスコッチウィスキーのCMをそっくり請け負った(プロデュース・企画・コピー・作詞等の全般)。
 スタンダードものに真野響子。12年ものには白鸚……というキャスティングで、楽しい仕事をした。
 お二人とも文句なしに魅力的、素敵なお人柄で、CMも品位のある、それでいてエンターテインメント性の濃いものに仕上がった。
 当時、鎌倉鶴が岡八幡宮前にあったご自宅に参上していろいろ親しくおはなしをした。奥様が経営なさっていたレストランでおいしいワインをごちそうにもなった。(ご自宅でチラチラお見かけした若者お二人は、現幸四郎・吉右衛門ご両人だった)
 白鸚さんはすでに「人間国宝」というエライ方だったっが、この方にはエラソーな気配はみじんもなかった。

「図にのるということ」の醜悪さ。
 ニュース・ワイド番組にはなぜか「芸能コーナー」が必ずある。そして、やたら結婚したの離婚したの、はたまたゴタゴタともめているのなどなど、連日のように登場する。
 芸能レポーターと称する「あさましいマスコミ・ハイエナ」が群がり寄って画面を騒がせる。しかも、取材されるご本人たちがまた、ズルズルと牛のヨダレのようにだらしなくよくしゃべる。それはもう「露出狂」としかいえない醜悪そのものだ。
 「品性」とか「矜持」とか「自制」といった文字や意味とはまるで無関係な欠陥人間が デカイ顔をして恥をさらす。
 とにかく、皆さんやたら「図にのる」のである。黙って顔を下げて引き退るということはない。
 たとえば、いいトシをした松居一代とうヒトが、船越英一郎と再婚したらしいが、現在、いかに幸せかペラペラとしゃべる場面を(たまたま)何回も観た。よくも臆面もなく……とただ呆れ返りウンザリした。
 とにかくいまのテレビには「分相応」ということを忘れ果てた連中ばかりがのさばっている。
 ぼくはいまの生業(なりわい)としている時代小説の仕事で、元禄時代の紀伊国屋文左衛門とか奈良屋茂左衛門のことを書いているが、彼ら「元祖バブル金持ち」のバカさかげんも「図にのる」ことでトコトン終始していて笑ってしまう。
 図にのるといえば、演劇畑の中尾彬、江守徹などのオジサンもバラエティ番組(?)などでガキ・タレントと一緒にまじって愚にもつかないコトをまことしやかな顔でしゃべっているのもただミットモナイ。
 自宅に戻ってふとんに入ってから「自己嫌悪」なんてことに苛まれることはないんだろうなあ。ウラヤマシイというかエライというか……。
 そう、みのもんた、島田紳介、愛川欽也などなど……あの正義漢ぶりも分相応を忘れたいかがわしさがつきまとう。

松本白鸚のエピソード。
 カティサーク12年もののCM撮影のとき、弟子たちに「とんぼを切る所作」のけい古後のひととき、ゆっくりくつろぐ白鸚さんがロックグラスでカティサークを楽しむシーンがあった。アルコールはたしまなない白鸚さんがグラスを持ち、「ヨーイ、スタート!」でアクションということになるのだが、そこで彼は唇をとがらせてグラスに近付けた。「それは、なみなみとついだ一升マスの酒を呑む時の仕草です。グラスの手を口に持っていって下さい」と注文した。その時のこの「人間国宝」は頭をかきながら破顔一笑した。
 その笑顔の屈託のなさ人なつっこさは、いまでも忘れない。
 そういえば、現吉右衛門がこの父上についてこんなエピソードを記している。
 「若いころのおやじはもう大変なプレイボーイで、ある日の劇場の一階二階三階にそれぞれ彼女を招いていておやじは三つの階をかけめぐって、一度に三人とデートしたそうですよ」(「歌舞伎事典」講談社)
 ま、いろいろあってもいいけど、つまり、下品にならずにやってもらいたいということですよ。「図に乗ってる」皆さん!

— posted by 本庄慧一郎 at 05:08 pm  

「ニッポンの芸能人」シリーズ45


「芸能界人脈地図`95」という本のこと。
 本屋めぐりは商売柄欠かせない。新刊本はもちろんだが、古本屋の拾い歩きがなによりも性に合っている。
 とりわけ、100円均一本の山をひっくり返して、掘り出し物を見つけるのが楽しい。
 表題の本もその1冊だ。サブタイトルに「日本初900名以上」とある。主役とされているタレントが200名、その交友関係と取り巻き連中のざっと700名の紹介で構成されている。
 いわゆるあの「バブル期」の「大量生産・大量消費」の無意味なまでの愚かしい現象が、この芸能本にもハッキリ示されていて興味ぶかい。この本の発行からざっと10年余前――それは「格差のある社会」の縮図になっているのだ。
 たとえば、麻薬で自滅した者。暴力暴行で逮捕された者。酒気おび運転などでの事故を起こした者。スキャンダルまみれで失速した者。もともと無能なのになぜか人気者になり、すぐに消えていった者。そして過度のストレスが原因と思われる疾病であっという間に逝った人たち……などなど、いまさらのようにその「大量消費」現象にタメ息をついた。
 いや、前出の理由とは無関係に、なんとなく姿を消していった者も大勢いる。

使い捨て「人的資源」というコトバ。
 かつて、人間をモノとしか扱わなかった時代があった。つまり、日本が「アジアの平和」とか「八紘一宇」(はっこういちう――大平洋戦争の時代に世界を一つの家にまとめて統轄するという意味で使われた侵略標語)を押し立てて日本が戦争に突入していったその時代、兵士たちはさまざまな兵器や武器弾薬と同様の、たんなる「資源」とみなされた。つまり、人間もまた消費されることが当然の物質だったのだ。
 いま、テレビを中心とするゲーノーのフィールドに右往左往する者たちが、結果として「使い捨てにされる人間たち」であるとは否も応もなく実証されていることだ。
 それでも、身分不相応のカネを得て、悪賢くエスケープした者もいるだろう。だが、大部分の者たちは、マスコミというドロ船に未練たらしくしがみついていて、一回こっきりの人生をドロドロに汚してしまう。
 そういえば今日(2月28日)の新聞に、警察手帳のニセモノを製造販売して2000万円売り上げたという元俳優3人が逮捕されたとあった。なんともみじめだね。哀れだね。警察手帳のニセモノというのがユニークで、どうしようもなくアサハカで皮肉だねぇ。でも同種同病のゲーノー人って大勢いるんです。心配ですよ、ほんとに。

転進するということの決断と勇気。
 みずから望んで乗り込んだ船がドロ船だと思ったら、その時点で水に飛び込んで、是が非でも早々にやり直す手段を講じねばならない。「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあり」である。
 ぼくは、演劇・ラジオ・テレビ、そして広告・コマーシャル、さらにいま小説・脚本書きなどの仕事を通じて、それは大勢の人たちの生き方をじかに見てきた。
 愚かしい人の例はいくらも挙げられるが、「なるほどなあ」という例はそう多くない。
 たとえば俳優牟田悌三さん。あの方はいま、地域と密着しての若者たちの問題などの、地道な活動をしておられる。もう30年になる。
 もともとジェントルでユーモアのある牟田さんのお人柄が好きで、ラジオのDJ番組などをずいぶんご一緒した。
 いっとき、ご一緒に広告制作などの事業をと思ったこともあるが、ぼくの未熟さゆえにとん座したが――。
 テレビなどで荒稼ぎした連中が、ボランティアうんぬんなどとそれらしいコトをエラソーにひけらかすことがあるが、牟田さんにはそれがない。
 ゲーノー界の毒に染まることなく、自分らしい道を歩くには、きわだった決断と勇気が要る。
 浅慮と軽卒とゴーマンさゆえに、みずからを「人的資源」におとしめる人間がウヨウヨいるのはゲーノー界ばかりではない。政治・経済・産業……などの分野にもゴソゴソとうごめいているなあ。

— posted by 本庄慧一郎 at 05:09 pm  

「ニッポンの芸能人」シリーズ44


テレビ局という名のタコツボ。
 民放ラジオに深夜放送黄金時代があったように、テレビにも深夜番組がチヤホヤされた時代があった。
 具体的にはどんな内容のモノだったのか?
 若いオンナノコをかき集めて、ハダカを見せるためのゲームのようなことを性懲りもなくやっていた。
 二重(台)の上に椅子を並べ、そこにミニスカートのオンナノコをすわらせる。愚にもつかないクイズを出して気をひいておいて、つい開いてしまう両ひざの間を、ローアングルのカメラがせっせと狙い撮りしていた。
 一流大学(?)を出て志望のテレビ局に入社、技術部に配属された男が、オンナノコの股ぐらばかり撮っている仕事に厭気がさして、敢然と退社した。
 彼は「異常のタコツボ」の住人になることを拒否したのである。

尊大でゴーマンで鼻持ちならない人種
 例によって「全部が全部ではないけれど」という前置詞が必要かもしれないが、テレビ局とか広告代理店などには、例外なく尊大でゴーマンで鼻持ちならない人間が、必ず堂々と棲息していた(いる)。
 06年3月3日号「週刊ポスト」を買った。
 スクープ徹底取材「テレビの腐敗と醜聞/公共の電波で私欲を満たす呆れた行状告発続々」の記事は現場にいた者にとってはすべて「いまさら!」といった内容だった。
 ぼくが「文筆業」を生業としてなんとか生活費を稼げるようになったのは民放ラジオであり民放テレビ局であった。
 さらにDやHをはじめとする広告代理店の仕事をしたが、ポストの記事に登場する醜悪な事例や俗悪な人物は枚挙にいとまがない――というのが現実だった。
 あのホリエという男がニッポン放送に仕掛けた事件で、ホリエを挟んで和解協力を確認しあう握手をしている写真のカメブチ、ヒエエダ、ムラカミといったお歴々の顔を見たとき、「このヒトたち、大丈夫かね」と思わず呟いたものだ。
 あの四人が全員、まぎれもない「タコツボ人種」の臭気を放っていたからである。
 ぼくはラジオ・テレビ、そしてCM業界を出身母胎と思ってきた人間だが、いまはもうひたすら嫌悪している。(精神の健康のためにも!)

思慮・品性・抑制・創造性。
 ひと昔前には「テレビ文化」「CM文化」などという言葉がちゃんと存在した。いまはこのフレーズは完全消滅した。
 いま、ニュースワイド番組にさえ、キンキラキンのアニメ声が跳りょうし、粗雑な再現ドラマがまことしやかに罷りとおる。この種の出演者は例外なくマイナー劇団の素人っぽい「俳優もどき」ばかりだ。
 一回の出演料ン百万円というタレントとは対極にいる者たちで、コイズミおじさんのいう「格差」の底辺を象徴しているかのような人種だ。
 いまや、まっとうな思慮や品性や抑制や創造力を喪失したテレビ界にしがみついている人種の気がしれないね。

 蛇足――やたら怒鳴る、やたら喚く、そんなCM群が不快だ。CM制作者たち(企業の担当者や決裁権をもつ者もふくめて)の感覚の狂いにただウンザリする。
 それと、「CMばっかり!」「CMタレ流し」のような現象にも肚が立つ。CM放送規定はもう全廃されたのかね?
 蛇足B――現在の放送事業は「公共」から「虚業」に変質しつつあるぞ。要、構造改革。

— posted by 本庄慧一郎 at 05:09 pm  

「ニッポンの芸能人」シリーズ43


元禄時代の大金持の異常世界。
 ぼくはとりあえず時代小説家だから(文庫オリジナル書き下ろしだけでもう30冊を越えた)、江戸時代の資料本は古本屋ほどある。
 いま元禄時代(1688〜1704)を素材に小説を書いているが、例によって紀伊国屋文左衛門とか奈良屋茂左衛門といった「談合」の元祖みたいな男たちが出てくる。彼らは材木商で、幕府御用の建築や、当時、火事になれば黙っていても莫大な利益をふところに出来たという、それこそ「火事場ドロボー」のような商売で、バカバカ暴利をむさぽった。そう、現在の悪徳役人と悪徳業者の「管制談合」の元祖のような男たちだ。
 そのアブク銭で彼らは幕府公認の遊廓の女郎たちを好き勝手にもて遊んだ。なにしろ女郎ン百人という吉原そっくり買い切って、ついでに周辺のそば屋も買い切って、惚れている女郎のために一人前のそばを作らせたとか……とにかく阿呆なことをやって競って金を遣っている。
 でも、吉原あたりの一流の女郎たちはなかなかの教養人であったといくつもの資料にある。

ホスト・クラブという異常世界。
 ずっと昔は、ぼくが新宿歌舞伎町を歩くと、フツーの人たちがわきによけてくれた。ちょっとコワイおニイさんに見えたのだろう。だからあの町はよーく知っているし、よく呑み歩いた。が、いまは行かない。大嫌いな街だ。
 近頃あの街にはホスト・クラブとやらいう店が賑わっていて、ゲーノー人まがいの若い男が女性客を相手に商売をしているようだ。つまり、若い男が女客をチヤホヤする店である。テレビでそのドキュメンタリーを観た。
 一本ン十万円のウィスキーやシャンパンの栓を次々と抜く。女客をおだて煽り立ててイッキ呑みをする。
 ホストたちが売り上げを競って女客に土下座して高価なボトルを注文してくれと直訴する。見得も外聞もなく哀願し、口説き、強引に承諾させる。
 その図々しくあざとい強制に、女客たちはニタニタしながら承諾する。
 そして一晩の請求額が100万、200万、いや300万を越えることもあるという。
 しかも、売り上げコンペでトップを切るホストの1ヵ月のギャランティは600万円……いや1千万という者もいるとか。
 江戸時代の〔吉原〕が男客相手の場所なら現在のホスト・クラブは〔女客相手の今様吉原〕だね。
 この異常な商売が堂々とまかり通っている不思議さ。
 あのホスト・クラブの俗悪としかいえない若い男たちと、喜々として通う女客たち――その病的な商売はいつまで続くのか。そしてその結末はどうなるのか。
 ぜひ知りたい。

ホスト・クラブの喧噪とテレビのバラエティ番組の喧噪と。
 いわゆるテレビのバラエティ番組とかクイズ番組などの乱痴気騒ぎはもうアタリマエになった。
 そのわざとらしさ、仰々しさ、コケおどかしのセット。そして、叫ぶ、わめく、がなる!
 異常を日常にしてしまって、平然としている人間ばかりだ。
 いや、テレビのCMも同様に、やたら叫ぶ、わめく、がなる!
 ただもう俗悪としかいえないCM群の向こうに、まっとうな「Corporate Mind」を喪失した企業経営者や担当者たちの顔が見える。さらにこれでいいとしているメディアや広告代理店などの関係者の脂ぎった顔が見える。
 たとえば、みのもんた、明石家さんま、タモリ、たけし、それに島田紳介……なんていう連中に1年間お休みしてもらったら、現在のテレビ番組はどう変わるんだろうか――?

— posted by 本庄慧一郎 at 05:10 pm  


*** お知らせ ***
自主CDを制作
21.1:130:128:0:0::center:0:1::
平和を願う歌
「鳥になれたらいいね」
総合プロデュース:本庄慧一郎
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