ぼくの先祖はお金持ちだった?
ぼくは下町生まれ(だという)。親父は武州埼玉は本庄の産だったが、終生「江戸っ子」を気取っていた。
旧中山道の往還に面したかつての望田(ぼくの本名)家が経営していた繭の仲介商という大きな店を見た記憶がある(もう他人の所有になっていた)。
かなり派手に商売をしていたという。親父は「袴を着けて人力車にのせられて学校を往復した」といった。
しかし、若主人であった父親が30代の初めに早逝して、たちまち商運は傾き、一族は東京に出てきたらしい。
というイキサツからいえば、ぼくが他人様の品性についてトヤカクいうような立派な資格はないのだが、ゲーノー界にはそんなぼくがうんざりするような輩がうようよしている。
が、今回はそういった「品性下劣な輩」ではない人たちのことを書きたい。
城達也と高倉健(以下、本文中敬称を略させていただきます)
ここでは、ラジオ・テレビ番組、またラジオ・テレビCM等での企画や制作でぼくが直接かかわった人たちの記憶をたどることにする。
そういえば、人格を現わす言葉には、人品とか品格とか品性とか、「品」という字がしきりに使われる。したがってこの業界内ではよく「あの人、シナが悪いね」という表現をする。シナの悪い人については別項で書くことにするが、このタグイのゲーノー人は枚挙にいとまがない。
そう、今回は「いいなあ」と感じた人のみを書くつもりなのだ!
まず城達也(ラジオ番組「セイコー・プラムナードS」他、TVCF「ソニーのスカイセンサー」などあれこれのナレーション)は、紳士そのものであった。
そして高倉健(TVCF「アサヒビール」(歌はデュークエイセスだった)や三菱レイヨンのCFの歌など)。この人と話をしていると、男でもシビレる。
ベテランの宇野重吉(ヤマギワ電器「日本のあかり」のナレーション)。そして大滝秀治(ソニー・トリニトロンカラーの「ハタおじさんとベラ坊や」のナレーション)。ちなみにこの先輩はその時、「CMなんて! 舞台で2時間かけて満足に一つのことさえも言えないのに」と固辞なさったのを強引にくどいた。現在はCMで売れっこ。
劇団民芸のかかわりでもう一人黄門さまでおなじみの佐野浅夫(TVCF「日金工のステンレス」のナレーション)。
そしてもう一方のトップは、先代幸四郎丈(のちに白鸚――「カティーサーク12年もの」の出演)。ほんものの品性は、付け焼刃では生まれないと実感した。
そして音楽関係となると、北村英治(ラジオ番組「文明堂ハニーサウンド」の司会進行とCM。TVCF「キャノンワイン」の出演など)。友竹正則(CF「生命保険協会の歌」)。
さらに立川清澄(ラジオ番組「JAL世界の町から」やラジオCM「ヤマサ正油」での国の内外の賞5作品連続受賞など)。
まだ「いいなあ」といえる方はいらっしゃるがおいおい記憶の糸をたぐりたい。
デュークエイセスの谷道夫
つい一週間ばかり前、ぼくの方からのアプローチで、デュークエイセスの谷道夫と再会した。
もともと音楽の好きなぼくは、コピーライター時代、本名の望田市郎でCM音楽制作もやっていた。(インストゥールメンタルをふくむとン百曲もある)
もう亡くなられたが「天才的な」とアタマに付くジャズピアニストで作曲家の八木正生とのコンビの仕事が多かった。
八木正生はデュークエイセスが大好きで、ぼくもファンだったから「高倉健のアサヒビール」をはじめ、あれこれ作詞させてもらい、歌ってもらった。
八木正生が急逝してのち、なんとなくごぶさたしていたデュークエイセスだが、今回、ぼくのアプローチで谷道夫と再会した。
そのキッカケは、NHKTVの番組だった。
ダークダックス(「日本生命」の歌の作詞をしている)とボニージャックスが出演していたのだ。
その時、ダークが「ぼくらは慶応で」といい、ボニーは「ぼくらは早稲田」といった。デュークの谷道夫はすかさず「ぼくらはそういうのありません」と返していた。ぼくはオカシクて大笑いした。なぜって、40年も50年も経ってもまだ出身校のことと、先輩後輩を口にする輩が大嫌いだからだ。
十数年ぶりの谷道夫は、あいかわらずだった。「あいかわらず」ということは、この「成り上がり者」のバッコするゲーノー界では珍しい。たいていは毒素のあるアブク銭を稼いで「人品卑しくなり下がる」のである。
聞けば、来年2005年は「デュークエイセス結成50年」だとか。ということはぼくは、もう50年もデュークのファンであるということだ。
この酷暑の夏、時代小説を書くすき間で、ぼくは「平和を願う歌シリーズ5篇」を作詞した。
そのことで谷道夫にプレゼンをしたのだ。
ということでこの項、来週につづく――。
(敬称は略させて頂きました。)
「芸能人の品性について」
2004/12/20
— posted by 本庄慧一郎 at 10:26 am
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