「ニッポンの芸能人」シリーズ30


フリーターとニート。
 たとえば、ぼくの税務申告上の職種は「文筆業」である。別の分類では「自由業」というのもある。いま風にいうと「フリーター」となるのかね?
 近頃、ハヤリ言葉のように使われる「ニート」がある。これは造語である。
(英語の「Not in Education(学校教育)、Employment(雇用)、or Training(訓練)の頭文字「NEET」をつなげた造語)
 フリーターとニートの違いは、明確である。
 フリーターはパートやアルバイトで働いているが、ニートは一切労働をしない。ばかりか学校にもいかない。なにもしないのだ。
 生活はつまり親がかりなのである。
 いまぼくは時代小説を書いている。1日400字詰原稿用紙15枚が目標で、なんとなく売れっつ子小説家風(?)である。
 当初は演劇を志し戯曲・演出を学んだ。(師は劇作家三好十郎・小沢不二夫)その後、ラジオ・テレビの放送作家としてゲンナリするほど仕事をし、やがて飽きてCM界に転進。
 ラジオ・テレビのコマ−シャルの企画・コピー・制作、加えてCM音楽で作詞・プロデューサーでセコセコとずいぶんやった。
 が、それもイヤになって時代小説(エンターテインメント)にフィールド変更する。
 そして現在である。
 時代小説を書くかたわら、いませっせと舞台の脚本を書く気になっている。すでにもう来年2006年、オリジナル1本、原作提供1本の内定があり、企画としては5作品の舞台脚本の具体化の準備をしている。
 なんのことはない、この経歴は「文筆フリーター」なのである。

正常と異常ということ。
 物書きの仕事は座り仕事だ。山のような、というより古本屋のような資料の本に囲まれて、せっせと原稿用紙のマス目を埋める。
 そんなぼくが、たまに新宿や池袋のラッシュアワーに遭遇することがある。
 あの混雑の風景は異常だと痛感する。まるで無表情な群集が、「当然のようなカオで」黙々と動いている。
 そしてヒンパンな電車の発着と、押しあいへしあいの満員の車内――急病人やケガ人が出ることや、暴力や殺人にいたる事件の発生や、痴漢が日常的に跳りょうすることは「当然」と思えてくる。
 いちばん気になるのは、あの「異常」を「正常」としている群集(サラリ−マン・OLたち?)の人々である。
 その精神の慣れには、怖い副作用があるとしか思えない。平気でいるという「構え」の裏側に、自分を「ないがしろにする」という自虐性がある。その蓄積がいずれ……と、気にせずにはいられない。
 いや、最近の交通事業の責任者(航空・列車電車・バス・タクシー等をふくめて)たちの自覚の稀薄さ。さらに運転管理業務にじかに携わる者たちのプロ意識と技術の劣悪さ――設備や機器の性能低下と不備とあいまって、事故が発生しても止むを得ないと考えている。

働かない、学ばない。下積みはイヤ。
 ニートという名でくくられる若者たちが激増しているという。
 前回にもふれたが「ホリエ主義」とやらの若者たちはテンから下積みという経験を拒否している。これはまた異常としかいえない。
 そんな都合のいい人生があるわけないのだ。
 時代小説の資料のなかに、旗本や御家人(はたもと・ごけにん――幕府直属の武士)の家では、家門を継承する長男以外の子弟を「厄介」とか「冷や飯食い」といってないがしろにした。
 寝泊まりする場所や朝夕の飯は与えられるものの何もすることがない。彼らは「旗本奴」などと名乗り世の中を騒がせ、周囲から白眼視され、あげく彼ら自身の人生もめちゃくちゃにしたのである。
 要するに彼らはたんなる怠け者なのだ。
「猫は魚が大好きだが、自分が水に濡れるのは大嫌いである」とイギリスの劇作家であるヘイウッドが言っている。
 努力しないで楽したい? 「我輩はネコになりたい」なんて小説でも書くかな。

— posted by 本庄慧一郎 at 11:13 am  

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