「H・P再開のごあいさつ」
2006/2/3
05年7月末から06年の1月末までのざっと6カ月間は〔作家業〕を生業としてきたぼくにとっては、四文字熟語でいえば「晴天霹靂」であり「驚天動地」「五里霧中」でした。
いったい何が、どうしたのか?
その経緯を簡略にまとめましたので、ここに掲載させていただいて、H・P再開のごあいさつといたします。
「2005年夏の初体験」
このトシになると〔初体験〕という言葉やその実体験とは、まるで無縁になる。
しかしぼくは、この夏(05年)、掛け値なしの、そして鮮烈で刺激的な〔初体験〕に遭遇した。
7月28日、来客があり、暮れてからバス亭までお送りした。5分ほどの往路の道すがら軽い目まいを自覚した。帰り道、道路サイドの白の安全ラインが、V字型に変形して見えることに気づいた。つまり、先にゆくほど1本のラインが広がって見えるのだ。
しっかり目をこらすと、遠方の夜景が二つにダブって見えた――そして、足がふらつく。
あきらかに平衡感覚がマヒしはじめていた。
翌朝、ふとんから起き上がれない〔異常事態〕にうろたえた。
すでに高血圧の治療で通院していた近くの大泉生協病院に、女房に取りすがってタクシーでたどり着く。
初診のA先生が、即座に神経内科のS先生にリレーして下さり「即入院」となる。「たぶん……」という冠詞付きだったのだが、病名は「ギラン・バレー症候群の亜型のミラー・フィシャー症候群では……」という診断。(ちなみにこのカタカナのつながった奇妙な病名は転院後に記憶したものだ)
さらに「最低治療1カ月くらい後のリハビリは……ひょっとすると3カ月ほど……」というコメントに、すでにかなりクタリとぶちのめされていたぼくは、ただ絶句。
すでにまぶたは垂れていて、視野はあいまいもこ、頭の中は混乱の極に達していた。
まぶたや顔面に弛緩現象があり、両手足は完全マヒ、実感は「ぼろ屑になった」である。
「筋無力症的な病気ですか」
「関係ありません」
「高血圧とか血管の故障とか……」
「関係ありません」
その日の午後から(当の本人は五里霧中!)迅速な治療が開始された(らしい)。
このややこしい疾病の特効薬の点滴、連続24時間を6日間。そしてさらに1日置いて3日間――。
その後もぼくは「痛い、苦しい」と闇の底を這いずり回っていたが、そのあとすぐ、リハビリのS先生の「ベットからできるだけ離れるように」という指示。
「げ!」とまた絶句。なにしろ、ひとりで起き上がることも出来ない〔重病人〕である。
食事もワイフや娘の世話になる状態。
とにかくリハビリは開始されていた。
ベットから車椅子への30センチの距離が恐くて……という無惨なありさまなのだ。
だが、1カ月後の8月30日、大泉生協病院と姉妹病院の東京健生病院へ転院させられた。
こちらにはリハビリ専門病棟があるのだ。
さいわい、リハビリの先生が同じくして転勤になって、そのままぼくの担当になった。
この病院は基本的な理学療法部門と、生活行動に対応した作業療法部門がある。
ぼくは全員の集団リハビリ体操とさらに個人の目標に対応したリハビリ特訓を受けた。
明るくてチャーミングな女性療法士さんたち(作業療法士はS先生)の容赦のない指導で体調はみるみる改善されていった。
車椅子の人たちの日常やリハビリという治療行為を第三者としてかい間眺めていたぼくは、その〔実体験者〕になった。
ぼくの病気について、娘や息子がインターネットで調べてくれたところでは、「10万人に1人の確率」とか「出合い頭に遭遇した交通事故のようなもの」とかいう解釈があった。
テレビや新聞を一切遮断しての「治療とリハビリ専心生活」は、ぼくを謙虚にした。
治療に携わる医師、看護師、そしてケースワーカー、理学療法士、作業療法士さんたちの献身的な対応ぶりに、ぼくはあらためて脱帽した。
ぼくは、税務署の届けでは「文筆業」として、ざっと50年暮らしてきた。医療や介護のことにはかなりの関心をもってきたつもりだが、その知識や理解が半端だったことを思い知らされた。
診断書のややこしい病名の「原因」の欄には「不詳」とある。「理由判らず」ということだ。が、あっというまに1カ月が過ぎ、当初、ひょっとすると治療とリハビリで3カ月〜4カ月は、という〔宣告〕があった。しかしぼくは、リハビリにたいしてきっと優等生になる!と決意して専心努力した。
そして、主治医の先生に請願し、自主トレーニングを前提にきっちり2カ月で退院した。
自分でも信じられないほどに〔失地回復〕を果たしたぼくは、ついお世話になった方々につぶやいたものだ。
「皆さんにお世話になった者は、自分に対して、また社会に対して、一つでも賢くなることでお応えしなければ……」と。
この「ひと夏の経験」の感想は「健康がいかに大事なものかは、それを失った時に真の価値を思い知らされる」である。
そしてどんな疾病にも効く「もうひとつの特効薬は家族の愛」であるつけ加えたい。
P・S
今回のぼくのこの体験について、ある出版社の方が「ぜひ体験記として本になさったら」と進言してくれました。
となるとまずは「小説」とか「戯曲」で、などとスグ考えてしまいました。(物書きとしての哀しい性(さが)か、はたまたこれもどん欲な作家ダマシイのせいか?) ちなみに仮タイトルは「愛しのギラン・バレー症候群――いざ、生きめやも」デス。
作品のトーン・ニュアンスとしてはやはり「面白うてやがて哀しき……」になるでしょうなあ。
— posted by 本庄慧一郎 at 05:12 pm
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