「社会&芸能・つれづれ愚差」第145回(通算257回)

 年末から年始にかけては(思いなしか)訃報が多い。
 政権交代がアピールされて、少しはマシになるかとかすかな期待をもったが、しょせんは「目クソ対鼻クソ」のステージに変化はない。



 臨終のコトバから――
 さようなら。じゃあまたね、と言っておこう。
 どうせまた、会えるのだから。
――アメリカの作家/マーク・トウェーン

 こんな〔最後のコトバ〕もある。
 (こん睡状態から覚めて)あの世はとても美しいよ。
――アメリカの発明家/エジソン



 2010年1月13日、声優田の中勇さん(77歳)逝去。
 肩書きは声優となっていたが、もともとは劇団テアトル・エコーの舞台俳優だった。一貫してライトコメディを上演してきたエコーには、ユニークで愉快なキャラの役者が揃っていた。
 彼は「ゲゲゲの鬼太郎」の「目玉おやじ」で人気を博したが、同じ演目の主題歌などでキョーレツにアピールしたエコーの御大の熊倉一雄さんは健在である。

 1月17日、歌手浅川マキさん(67歳)逝去。
 放送作家時代、新宿歌舞伎町のロシア料理店スンガリーの(加藤登紀子さんの兄上と母上が経営している店が、新宿コマ劇場のそばにあった。現在は、西武新宿駅前大久保寄りのビルのB1にある)地下のテーブルで同じボトルのズブロッカを飲んだことが何度かある。
 当時、彼女は東芝レコード所属で、ぼくはせっせとラジオCMや番組で彼女の「夜が明けたら」などをPRしていた。
 もう、浅川マキのような歌手には出会えないなぁと、大きなため息をついた。



 同年1月18日、DJ・司会などで活躍していたミッキー安川さん(76歳)が逝く。有楽町にあったニッポン放送でアレコレ仕事をしていたぼく(筆名本庄一郎だった)は、よく彼とも顔を合わせた。
 でも(人見知りをする?)ぼくは親しく話しをすることもなかった。
 いつも活力旺盛、自由闊達なヒトだった。



 野球選手の小林繁さん(57歳)が1月17日、急逝した。
 巨人から阪神に移籍した頃、某広告代理店の某氏からコピーライターだったぼくに、阪神の(新)応援歌の作詞をしてくれないかというオファーがあったが、スケジュールなどの条件が合わず実現しなかった。その後、小林繁さんが退団し、芸能タレントとして再出発するということでお会いしたこともあったが――。
 イイ男だったが、最近の彼の姿や容貌をテレビで観たが、そのヤツレ具合いには胸が痛んだ――こともあった。
 小林繁さんの歌「亜季子」というレコードがどこかにあるはずだ。



 死は再び還ることのない波浪である。
――ローマの詩人/ヴェルギリウス



 皆さん、またアチラでお会いしましょう。
――本庄慧一郎

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 阿佐ヶ谷にて

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    ケイちゃんの目→

— posted by 本庄慧一郎 at 02:44 pm  

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平和を願う歌
「鳥になれたらいいね」
総合プロデュース:本庄慧一郎
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