浅草の「サンバ・カーニバル」、原宿の「表参道元気祭/スーパーよさこい」、そして高円寺「阿波おどり」は、いまや「夏のTOKYO三大祭り」というのだとか。
2012年8月25日(土)は、この3つのフェスタが同日実施される日だ。
それで突然、写真撮影に出かけると宣言し、ワイフに「え?」と言わせる。
なにしろ、炎暑・猛暑・熱暑の昨今、ぶっ倒れたらドースルの?である。
もちろん、ココロとカラダの準備と配慮は万端。AM8:30に家を出る。
それで、まず原宿に到着して――オレって、雑踏やワサワサとした場所が大のニガ手(になった)だったと気付いた。
だから恒例の「1万歩ウォーク」も郊外の川沿いのコースや寺のある里山に好んで出かけていたのダ。
でも、しかし、それはそれとして、とジリジリ照り付ける街に足を踏み入れたネ。
それぞれの街のもう1つの意味
「夏のTOKYOの三大祭り」はともかく、実はそれぞれの街に格別の思いがあった。
浅草は、芸能好き(芝居・寄席など)の親父に連れられて幼い折から慣れ親しんだ。
師であった叔父の劇作家小沢不二夫が水の江滝子の劇団たんぽぽや森川信劇団や女ケンゲキと言われた不二洋子の劇団などに脚本を書いていたので、それらの舞台を見ていた。
しかも、あの国際劇場が健在たった頃には、SKD/松竹歌劇団の演出部に入らないかという話などもあって「浅草はもう1つの故郷」とも称していたくらいである。
あの「神谷バー」の先代社長神谷信弥さんとはとりわけ親しくしていて、お店の広告制作なども引き受けていたし。
そして、原宿・高円寺
原宿表参道は、コピーライター時代、オフィスがあった。
CMディレクターの内田健太郎氏とずっとコンビで仕事をしていて、望田市郎(本庄慧一郎の本名)のイニシャルMと、健太郎のイニシャルのKの2字で「MK」というクリエイティブオフィスを持っていた。
同じビル内に、ジャズピアニストの八木正生氏をメインにした音楽制作プロもあり、表参道も毎日のように通った。
そういえば、すぐ近くに高倉健さんのオフィスがあった。アサヒビールのCF制作で親しくご一緒したなぁ。作詞望田市郎/作曲八木正生/制作ARA/歌デュークエイセスも好評だった。
歌詞の『おまえがいてオレがいて、人生にがいかショッパイか』を健さんに「いい詞ですね。網走番外地という映画(新網走番外地 嵐呼ぶダンプ仁義-1972年)の野天ぶろのシーンで田中邦衛サンと唄わせてもらいます」と言われた。
八木正生さんの作曲で「きょうも地球はきげんがいい」というサクラカラーフィルム(当時)のCMソングを作り、CFでは若くてピチピチしていたアン・ルイスが出演、くっきり印象にある。
そしてこのCFのプロデューサーが21プロダクションのプロデューサーだった稲見一良さん――このひとは50代はじめにガンにかかる。それから小説を書きはじめて、「ダックコール」でなんと「第4回山本周五郎賞」を受賞した!この稲見さんの進言もあって、本庄慧一郎として小説を書き始めたのだった。
原宿表参道には「良き仕事仲間たち」の思い出が刻まれている。
そして、高円寺――それまでのラジオ・テレビの放送作家、平行してのTVCF制作の仕事から、スッパリとチェンジして時代小説に挑んだ忘れられない仕事場があった。
そのせいもあって、いまもって高円寺の街が大好きだ。
結局、TOKYO3大祭りは「ほっとけ」になった。
原宿では明治通りの竹下通り口に近い東郷神社に詣り、地を圧するように鳴く油ぜみの声にシビレた。朝早くからゾロゾロ歩く竹下通りの若い女の子たちとはまるで異なる大樹の生い茂る神社の境内で、戦時の「魚雷」のリアル模型とその記述にしばし、足をとめた。
折しも、朝日新聞のコラム「天声人語」の「いまの若者は東郷平八郎と東条英機という人物の違いも分からない」といった意味の一文があった。
その差異は竹下通りと東郷神社という背中合わせの異風景に象徴されている。
若者たちよ! 謙虚に勉強しろよ。これからの自分のために!
これからの自分の将来のために。
ケイちゃんの目 ↓
原宿 よさこい祭りのオープニング
原宿 東郷神社の「魚雷」の模型
竹下通り ショップの店頭
浅草 サンバのダンサーは見えず