「ニッポンの芸能人」シリーズ44


テレビ局という名のタコツボ。
 民放ラジオに深夜放送黄金時代があったように、テレビにも深夜番組がチヤホヤされた時代があった。
 具体的にはどんな内容のモノだったのか?
 若いオンナノコをかき集めて、ハダカを見せるためのゲームのようなことを性懲りもなくやっていた。
 二重(台)の上に椅子を並べ、そこにミニスカートのオンナノコをすわらせる。愚にもつかないクイズを出して気をひいておいて、つい開いてしまう両ひざの間を、ローアングルのカメラがせっせと狙い撮りしていた。
 一流大学(?)を出て志望のテレビ局に入社、技術部に配属された男が、オンナノコの股ぐらばかり撮っている仕事に厭気がさして、敢然と退社した。
 彼は「異常のタコツボ」の住人になることを拒否したのである。

尊大でゴーマンで鼻持ちならない人種
 例によって「全部が全部ではないけれど」という前置詞が必要かもしれないが、テレビ局とか広告代理店などには、例外なく尊大でゴーマンで鼻持ちならない人間が、必ず堂々と棲息していた(いる)。
 06年3月3日号「週刊ポスト」を買った。
 スクープ徹底取材「テレビの腐敗と醜聞/公共の電波で私欲を満たす呆れた行状告発続々」の記事は現場にいた者にとってはすべて「いまさら!」といった内容だった。
 ぼくが「文筆業」を生業としてなんとか生活費を稼げるようになったのは民放ラジオであり民放テレビ局であった。
 さらにDやHをはじめとする広告代理店の仕事をしたが、ポストの記事に登場する醜悪な事例や俗悪な人物は枚挙にいとまがない――というのが現実だった。
 あのホリエという男がニッポン放送に仕掛けた事件で、ホリエを挟んで和解協力を確認しあう握手をしている写真のカメブチ、ヒエエダ、ムラカミといったお歴々の顔を見たとき、「このヒトたち、大丈夫かね」と思わず呟いたものだ。
 あの四人が全員、まぎれもない「タコツボ人種」の臭気を放っていたからである。
 ぼくはラジオ・テレビ、そしてCM業界を出身母胎と思ってきた人間だが、いまはもうひたすら嫌悪している。(精神の健康のためにも!)

思慮・品性・抑制・創造性。
 ひと昔前には「テレビ文化」「CM文化」などという言葉がちゃんと存在した。いまはこのフレーズは完全消滅した。
 いま、ニュースワイド番組にさえ、キンキラキンのアニメ声が跳りょうし、粗雑な再現ドラマがまことしやかに罷りとおる。この種の出演者は例外なくマイナー劇団の素人っぽい「俳優もどき」ばかりだ。
 一回の出演料ン百万円というタレントとは対極にいる者たちで、コイズミおじさんのいう「格差」の底辺を象徴しているかのような人種だ。
 いまや、まっとうな思慮や品性や抑制や創造力を喪失したテレビ界にしがみついている人種の気がしれないね。

 蛇足――やたら怒鳴る、やたら喚く、そんなCM群が不快だ。CM制作者たち(企業の担当者や決裁権をもつ者もふくめて)の感覚の狂いにただウンザリする。
 それと、「CMばっかり!」「CMタレ流し」のような現象にも肚が立つ。CM放送規定はもう全廃されたのかね?
 蛇足B――現在の放送事業は「公共」から「虚業」に変質しつつあるぞ。要、構造改革。

— posted by 本庄慧一郎 at 05:09 pm  

「ニッポンの芸能人」シリーズ43


元禄時代の大金持の異常世界。
 ぼくはとりあえず時代小説家だから(文庫オリジナル書き下ろしだけでもう30冊を越えた)、江戸時代の資料本は古本屋ほどある。
 いま元禄時代(1688〜1704)を素材に小説を書いているが、例によって紀伊国屋文左衛門とか奈良屋茂左衛門といった「談合」の元祖みたいな男たちが出てくる。彼らは材木商で、幕府御用の建築や、当時、火事になれば黙っていても莫大な利益をふところに出来たという、それこそ「火事場ドロボー」のような商売で、バカバカ暴利をむさぽった。そう、現在の悪徳役人と悪徳業者の「管制談合」の元祖のような男たちだ。
 そのアブク銭で彼らは幕府公認の遊廓の女郎たちを好き勝手にもて遊んだ。なにしろ女郎ン百人という吉原そっくり買い切って、ついでに周辺のそば屋も買い切って、惚れている女郎のために一人前のそばを作らせたとか……とにかく阿呆なことをやって競って金を遣っている。
 でも、吉原あたりの一流の女郎たちはなかなかの教養人であったといくつもの資料にある。

ホスト・クラブという異常世界。
 ずっと昔は、ぼくが新宿歌舞伎町を歩くと、フツーの人たちがわきによけてくれた。ちょっとコワイおニイさんに見えたのだろう。だからあの町はよーく知っているし、よく呑み歩いた。が、いまは行かない。大嫌いな街だ。
 近頃あの街にはホスト・クラブとやらいう店が賑わっていて、ゲーノー人まがいの若い男が女性客を相手に商売をしているようだ。つまり、若い男が女客をチヤホヤする店である。テレビでそのドキュメンタリーを観た。
 一本ン十万円のウィスキーやシャンパンの栓を次々と抜く。女客をおだて煽り立ててイッキ呑みをする。
 ホストたちが売り上げを競って女客に土下座して高価なボトルを注文してくれと直訴する。見得も外聞もなく哀願し、口説き、強引に承諾させる。
 その図々しくあざとい強制に、女客たちはニタニタしながら承諾する。
 そして一晩の請求額が100万、200万、いや300万を越えることもあるという。
 しかも、売り上げコンペでトップを切るホストの1ヵ月のギャランティは600万円……いや1千万という者もいるとか。
 江戸時代の〔吉原〕が男客相手の場所なら現在のホスト・クラブは〔女客相手の今様吉原〕だね。
 この異常な商売が堂々とまかり通っている不思議さ。
 あのホスト・クラブの俗悪としかいえない若い男たちと、喜々として通う女客たち――その病的な商売はいつまで続くのか。そしてその結末はどうなるのか。
 ぜひ知りたい。

ホスト・クラブの喧噪とテレビのバラエティ番組の喧噪と。
 いわゆるテレビのバラエティ番組とかクイズ番組などの乱痴気騒ぎはもうアタリマエになった。
 そのわざとらしさ、仰々しさ、コケおどかしのセット。そして、叫ぶ、わめく、がなる!
 異常を日常にしてしまって、平然としている人間ばかりだ。
 いや、テレビのCMも同様に、やたら叫ぶ、わめく、がなる!
 ただもう俗悪としかいえないCM群の向こうに、まっとうな「Corporate Mind」を喪失した企業経営者や担当者たちの顔が見える。さらにこれでいいとしているメディアや広告代理店などの関係者の脂ぎった顔が見える。
 たとえば、みのもんた、明石家さんま、タモリ、たけし、それに島田紳介……なんていう連中に1年間お休みしてもらったら、現在のテレビ番組はどう変わるんだろうか――?

— posted by 本庄慧一郎 at 05:10 pm  

「ニッポンの芸能人」シリーズ42


〔未熟な者のエセ個性〕と〔魅力ある個性〕
 いまここで正確な年月日は思い出せないが、たしか日本テレビの浜町スタジオでのお笑い番組の公開録画の日だった。(それは「笑点」か、その前身になる演芸番組だった)
 ぼくは演劇塾の研修生たちを引率してそのスタジオにいた。現場見学を兼ねてのワンサ(ギャラリーとして)出演であるが、タタミの控室にはほかにもさまざまな人がいたが、開始まで90分ほど待たされた。
 すぐ隣りにチッコイ目の四角い顔の男が退屈そうにしていたので、雑談をはじめた。
 その男は浅草に詳しかった。それもそのはずである。すでにぼくは、浅草のストリップ劇場の舞台でその男がコントを演じているのを観ていたからだ。
 ぼくも浅草はなじみだった。父親も母親も浅草に縁のふかい人間だった。
 むすりと黙りこくっていた男は、いったん喋り出すとむしろ饒舌だった。
 その独特のエロキューション(声の質・言葉の抑揚・表現のニュアンスなど)がユーモラスでチャーミングである。そしてこまやかな心配りのエンターテナーぶり。
 その男は、のちの寅さんこと渥美清サンである。

 寅さんといえばあの印刷屋のタコこと太宰久雄サンとも(同じ練馬石神井の住人だったこともあり)テレビドラマを書いていた時に出演してもらったりして親しかった。
 そのドラマには、(美少年がお好みという噂のあった)若宮忠三郎サンなども出演なさっていた。また西村晃サン(「待ッテマシタ!」というテレビのコント番組)もなるほど!というそのフェイスで光っていたなあ。
 皆さんそれぞれに個性的でユーモラスでチャーミングだった。
 かつての仕事(ラジオ・テレビ・CM制作等)で出演を依頼した方々は、例外なく個性的魅力にあふれていいた。
 寺尾聡サンのお父上宇野重吉サン(TVCFヤマギワ電器のナレーション・CM初出演!)、同じ劇団の大滝秀治サン(SONYのトリニトロンカラーTVのナレーション「ハタおじさんとベラ坊や」もTV初出演!)、そして佐野浅夫サン(日金工のステンレスのTVCFのナレーション――水戸黄門サマだ!)。それに垂水悟郎サン(化粧品イオナのTVCFのナレーション)も印象ぶかい。
 皆さん、根っこのある個性派だ。
 たまたま以上の方たちは劇団民芸のおレキレキだったが、もうお一人、真野響子サンにもお声をかけた。(カティサークのTVCFは何本も制作・企画・作詞などした)この方も当時は劇団民芸の女優サンだった。
 絶対忘れられない方々には高倉健サン(アサヒビールのTVCFの作詞などを担当)も文句なしの個性派。となると菅原文太サン(兄ィが唄う歌の作詞「望郷」)で、じかにお目にかかってうっとりした。
 そうそうもう亡くなられた小松方正サン(SONYのトリニトロンカラーTVの「タツノオトシゴのお父さん」のナレーション)も存在感があった。
 となるとやっぱり(この欄にもすでに書いているが)、仕事上でたっぷりおつきあいいただいた(現在も)桂小金治・熊倉一雄・小沢昭一先輩はそれこそ「ホンモノ」の個性ここにあり!です。

ブラウン管にのさばるエセ個性よ。
 「テレビはタレントを使い捨てる!」とよく不満げに言われる。
 それは「ほんとうの価値のないもの、見せかけだけのエセ商品は廃棄される」ということですよ。(ファンヒーターだの、牛肉だの、マンションだの、ホテルだの――表れ方の違いはあるけれどね。あ、お米のニセラベルとか)
 もし、自分の才能や未来にまっとうな確信があるのなら、テレビ業界から離れなさいと進言しますね、ぼくは。
 バラエティ番組などという形式の、ヒナ壇にガン首そろえて、三つか四つ、愚にもつかない駄ジャレを口走ってそれでイイと思い込んでいる連中のうすっぺらさ。使い捨てになっても文句言えないモノばかりでしょうが。
 たまにはおのれを、自分を対象化してみる、客観化してみるというアタリマエの冷静さをお持ちなさい。
 でもそのテレビに出演することで、ギャラを得て、それでせっかくの個性を台なしにしている有名俳優もずいぶんいますね。
 いまのテレビの(とくにゴールデンタイムとやらの)ほとんどの番組はひたすら俗悪です。
 あのホリエ・ナニガシといった拝金オタクに揺さぶられてオロオロしたいいトシしたラジオ・テレビ関係者もお笑いですけど、俳優にかぎらず、根っこのある個性をもった人たちは、そんな愚かしいコトにかかわりません。念のため。
 ぼくの、自作のキイワード「自分の明日は、自分の〔過去〕が予言している」。

— posted by 本庄慧一郎 at 05:11 pm  

「H・P再開のごあいさつ」


05年7月末から06年の1月末までのざっと6カ月間は〔作家業〕を生業としてきたぼくにとっては、四文字熟語でいえば「晴天霹靂」であり「驚天動地」「五里霧中」でした。
 いったい何が、どうしたのか?
 その経緯を簡略にまとめましたので、ここに掲載させていただいて、H・P再開のごあいさつといたします。

「2005年夏の初体験」
 このトシになると〔初体験〕という言葉やその実体験とは、まるで無縁になる。
 しかしぼくは、この夏(05年)、掛け値なしの、そして鮮烈で刺激的な〔初体験〕に遭遇した。
 7月28日、来客があり、暮れてからバス亭までお送りした。5分ほどの往路の道すがら軽い目まいを自覚した。帰り道、道路サイドの白の安全ラインが、V字型に変形して見えることに気づいた。つまり、先にゆくほど1本のラインが広がって見えるのだ。
 しっかり目をこらすと、遠方の夜景が二つにダブって見えた――そして、足がふらつく。
 あきらかに平衡感覚がマヒしはじめていた。
 翌朝、ふとんから起き上がれない〔異常事態〕にうろたえた。
 すでに高血圧の治療で通院していた近くの大泉生協病院に、女房に取りすがってタクシーでたどり着く。
 初診のA先生が、即座に神経内科のS先生にリレーして下さり「即入院」となる。「たぶん……」という冠詞付きだったのだが、病名は「ギラン・バレー症候群の亜型のミラー・フィシャー症候群では……」という診断。(ちなみにこのカタカナのつながった奇妙な病名は転院後に記憶したものだ)
 さらに「最低治療1カ月くらい後のリハビリは……ひょっとすると3カ月ほど……」というコメントに、すでにかなりクタリとぶちのめされていたぼくは、ただ絶句。
 すでにまぶたは垂れていて、視野はあいまいもこ、頭の中は混乱の極に達していた。
 まぶたや顔面に弛緩現象があり、両手足は完全マヒ、実感は「ぼろ屑になった」である。
「筋無力症的な病気ですか」
「関係ありません」
「高血圧とか血管の故障とか……」
「関係ありません」
 その日の午後から(当の本人は五里霧中!)迅速な治療が開始された(らしい)。
 このややこしい疾病の特効薬の点滴、連続24時間を6日間。そしてさらに1日置いて3日間――。
 その後もぼくは「痛い、苦しい」と闇の底を這いずり回っていたが、そのあとすぐ、リハビリのS先生の「ベットからできるだけ離れるように」という指示。
 「げ!」とまた絶句。なにしろ、ひとりで起き上がることも出来ない〔重病人〕である。
 食事もワイフや娘の世話になる状態。
 とにかくリハビリは開始されていた。
 ベットから車椅子への30センチの距離が恐くて……という無惨なありさまなのだ。
 だが、1カ月後の8月30日、大泉生協病院と姉妹病院の東京健生病院へ転院させられた。
 こちらにはリハビリ専門病棟があるのだ。
 さいわい、リハビリの先生が同じくして転勤になって、そのままぼくの担当になった。
 この病院は基本的な理学療法部門と、生活行動に対応した作業療法部門がある。
 ぼくは全員の集団リハビリ体操とさらに個人の目標に対応したリハビリ特訓を受けた。
 明るくてチャーミングな女性療法士さんたち(作業療法士はS先生)の容赦のない指導で体調はみるみる改善されていった。
 車椅子の人たちの日常やリハビリという治療行為を第三者としてかい間眺めていたぼくは、その〔実体験者〕になった。
 ぼくの病気について、娘や息子がインターネットで調べてくれたところでは、「10万人に1人の確率」とか「出合い頭に遭遇した交通事故のようなもの」とかいう解釈があった。
 テレビや新聞を一切遮断しての「治療とリハビリ専心生活」は、ぼくを謙虚にした。
 治療に携わる医師、看護師、そしてケースワーカー、理学療法士、作業療法士さんたちの献身的な対応ぶりに、ぼくはあらためて脱帽した。
 ぼくは、税務署の届けでは「文筆業」として、ざっと50年暮らしてきた。医療や介護のことにはかなりの関心をもってきたつもりだが、その知識や理解が半端だったことを思い知らされた。
 診断書のややこしい病名の「原因」の欄には「不詳」とある。「理由判らず」ということだ。が、あっというまに1カ月が過ぎ、当初、ひょっとすると治療とリハビリで3カ月〜4カ月は、という〔宣告〕があった。しかしぼくは、リハビリにたいしてきっと優等生になる!と決意して専心努力した。
 そして、主治医の先生に請願し、自主トレーニングを前提にきっちり2カ月で退院した。
 自分でも信じられないほどに〔失地回復〕を果たしたぼくは、ついお世話になった方々につぶやいたものだ。
「皆さんにお世話になった者は、自分に対して、また社会に対して、一つでも賢くなることでお応えしなければ……」と。
 この「ひと夏の経験」の感想は「健康がいかに大事なものかは、それを失った時に真の価値を思い知らされる」である。
 そしてどんな疾病にも効く「もうひとつの特効薬は家族の愛」であるつけ加えたい。

P・S
 今回のぼくのこの体験について、ある出版社の方が「ぜひ体験記として本になさったら」と進言してくれました。
 となるとまずは「小説」とか「戯曲」で、などとスグ考えてしまいました。(物書きとしての哀しい性(さが)か、はたまたこれもどん欲な作家ダマシイのせいか?)  ちなみに仮タイトルは「愛しのギラン・バレー症候群――いざ、生きめやも」デス。
 作品のトーン・ニュアンスとしてはやはり「面白うてやがて哀しき……」になるでしょうなあ。 

— posted by 本庄慧一郎 at 05:12 pm  


*** お知らせ ***
自主CDを制作
21.1:130:128:0:0::center:0:1::
平和を願う歌
「鳥になれたらいいね」
総合プロデュース:本庄慧一郎
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