「ニッポンの芸能人」シリーズ49


ビートルズを聴いたあとでチャンバラ小説を書く。
 ぼくは「放送作家」としてスタートしたので、ラジオ最盛期は、歌謡曲・ロック・ジャズ・フォークなどなどを音源とした番組をゲンナリするほど担当した。
 ぜったい忘れられないのは東芝EMIの番組の構成の仕事で、ビートルズの曲を片っ端から紹介したこと。
 彼らが訪日しての武道館ライブを取材目的で観て、聴いていること(昭和41(1966)年6月)。
 2階正面の席(1階は、円型ステージだけだった)の近辺には三島由起夫など有名人の顔がずらりと並んでいた。
 いまでも、ビートルズのレコードやCDを折りにふれて聴く。(時代小説作家でいまどきビートルズを愛聴する者がいるか?)
 そういえば、あの当時、仲の良かった東芝EMI宣伝部の大谷信夫さんとのかかわりでビートルズに深入りもしたし、ユニークな「帰ってきたヨッパライ」「イムジン川」などのPRも手伝った。(同じく東芝EMI提供の「ポップ&ポップス」という番組があり、構成を担当していたが、のちに大谷さんはこの番組のスタッフだった庄司邦子さんと結婚することになり仲人をつとめた)

ビートルズ&美空ひばり。
 この06年3月、歌手美空ひばりの追悼特集や、彼女をメーンにしたテレビ番組をいくつか観た。
 ぼくのサウンド・コレクションは、ビートルズと美空ひばりが同居している。
 さらに、コピーライター時代、CMソングの企画・作詞・制作などでご一緒したデューク・エイセスはいろいろあり、ダーク・ダックスや、フランク永井、尾崎紀代彦……、そして小林幸子、北原ミレイ、上条恒彦……、そう!菅原文太兄ィのぼくの作詞のせりふ入りの名唱「望郷」など、万華鏡のようなバラエティにとんだコレクションだ。
 まあ、それはそれとしても、これとは別に美空ひばりには格別の思い入れがある。
 というのも、ぼくの師であり叔父である劇作家小沢不二夫がかの「リンゴ追分」を作詞しているからだ。
 以下、「朝日新聞学芸部編・戦後芸能史物語」(朝日選書)から引用する。
「美空ひばり、昭和23年10月デビュー。(略)スタートはあまり幸運ではなかったが東京の日劇小劇場出演を機に、芸名を美空ひばりと変え、24年、東横映画に初出演、その年3本目の松竹映画「踊る竜宮城」で初のオリジナル曲「河童のブギウギ」を歌い(略)、以後「悲しき口笛」(昭和24年)を経て「リンゴ追分」(昭和27年)がひばりを大歌手・大スターにのし上げる。」
 早逝した叔父小沢不二夫の七回忌には、「リンゴ追分」同様、名曲とうたわれる「津軽のふるさと」の作曲家米山正夫氏が来て下さり、ご一緒に撮った記念写真がある。この時、美空ひばりさんの乗ったクルマが交通渋滞で大きく遅延しなければ、ご一緒のシャシンが撮れたのだが。
 「美空ひばりアルバム」そして最近の「リンゴ追分コレクション」のCDともども、これまた折にふれて楽しむ。
 ぼくのサウンド・コレクションの〔ミス・マッチ〕は、ぼくの人生の経歴を物語っているのである。

— posted by 本庄慧一郎 at 05:03 pm  

「ニッポンの芸能人」シリーズ48


芸能プロデューサー麻生芳伸さんの訃報。
 06年3月19日(日)、中野サンプラザの13Fスカイルームで「麻生芳伸さんを偲ぶ会」あった。
 麻生さんは芸能プロデューサーで、現在、書店に並んでいる「落語百選」(4巻)、「落語特選」(2巻)をはじめ、さまざまなが芸能関係の著書がある。
 プロデューサーとしてのあれこれの仕事の中でも、津軽三味線の高橋竹山さんをメジャーにしたことは特記すべきだろう。
 05年夏、ぼくは落語の「寿限無」のようにやたら長ったらしい名の疾病に取り憑かれた。「ギラン・パレー症候群亜型ミラー・フィシャー症候群」という。
 地獄の底を這いずり回るような体験を強いられたが、担当医師の好判断、リハビリ療法士の皆さんの指導、そして家族のフォローとで現在は〔完全復活〕したが、麻生さんはぼくの「外出OK」を急がせるようにして、中野沼袋の呉服商、山田屋社長・西村重博さんに紹介してくれた。山田屋さんのお宅には100人も収容できる日本座敷と本格的な桧舞台があった。(別にこれも立派な音楽ホールもある)
 ぼくはさっそく桂小金治師匠をご紹介した。師匠は本年80歳を迎えたが、「噺家としての高座に再挑戦!」に情熱を燃やしている。
 さっそく麻生さんプロデュースで、山田屋さんのお座敷で小金治師匠の独演会を――という企画が具体化されることになった。
 そしてぼくの念願である「時代ものの新作落語を」も実現に一歩近づいた。
 05年11月22日、横浜にぎわい座に出演した小金治師匠を麻生さん、そしてワイフの3人で聴きにいった。
 が、それから1ヶ月と9日後に、麻生さんはガンで急逝したのだ。

岡部伊都子さんへの麻生さんの思い。
 随筆家岡部伊都子さん(83)へ、麻生さんはずっと思いをつないできた。05年3月には大沼洸著「岡部伊都子へのめぐる想ひ・櫻レクイエム」を麻生さんみずからの手で出版している。
 ぼくが放送作家として仕事を始めたころ(1956――昭和31年)、ラジオ番組で「400字の言葉」というのがあり、よく耳を傾けていた。岡部さんが書かれていたのだ。当時のエッセイ集「おむすびの味」なども買い求めていた。書庫のどこかにあるはずだ。
 その岡部さんは、戦時中、フィアンセの木村邦夫さんに「この戦争は間違いやと思うてる。僕は天皇陛下ために死にたくない」と言われ、岡部さんはそのとき「わたしだったら喜んで死ぬけど」と答えたということを書きしるしている。その後、木村さんは沖縄で砲弾で両足を失い、自決した。
 岡部さんは以来、自分を「加害の女」と称して自責の念を背負って生きてきた。その岡部さんははっきりと「戦争と差別が憎い」「(憲法)九条が危ういな。九条を守ることが憲法やがな」とおっしゃる。

人と人の縁(えにし)のこと。
 現在ご活躍中の「辛口評論家」、佐高信さんがおられる。ずっと以前ぼくが制作担当したラジオ番組にゲスト出演していただいたことがある。
 この佐高さんが、岡部さんと親交があることを知った。
 佐高さんには沢山の著書があるが、政治・経済から文芸・テレビ・芸能にいたるまで対象とする分野は広い。その視点、論旨、判断、そして結論に共感し、拍手する。(ちなみに最近再読した本「佐高信の言語道断」「佐高信・喜怒哀楽のうた」(以上徳間文庫)「佐高信・タレント文化人・筆刀両断」(ちくま文庫)「田原総一郎よ驕るなかれ」(毎日新聞社)をしるす。ぜひ、お読み下さい)
 それにしても、麻生芳伸さん、岡部伊都子さん、佐高信さんとのえにしをあらためて思う。
 そう、「偲ぶ会」には、小沢昭一さん、伊東四郎さんのお花が飾られていた。そして、いまミュージカルの舞台等で大活躍の俳優・歌手上条恒彦さんと久しぶりに再会した。上条さんとはTBSラジオで「上条恒彦、そして歌」(だったと思う)という資生堂提供の番組をご一緒した。
 ぼくは「献盃」のごあいさつをとのいきなりのご指名についオロオロしたが、しめくくりは「再見!」(チャイチェン)という言葉でしめくくった。

— posted by 本庄慧一郎 at 05:04 pm  

「ニッポンの芸能人」シリーズ47


コトバは時代とともに変わるというが。
 ざっと50年ほど、日本語を使って生業(なりわい)をたててきた。
 最初にめざしたのは演劇だったし、ギャラをもらっての最初の仕事はラジオの台本などを書くことだった。そして、テレビ番組の時代、さらにラジオ・テレビ、CMソングの大量生産時代――現在は時代小説、加えて舞台脚本への挑戦と、すべて「日本語」とトコトンかかわってきた。
 よく、「コトバは時代とともに変わる」といわれる。それは「結果として」はあり得る。しかし、現在のテレビや一部の文学作品などでは、出演者や執筆者らの不勉強やデタラメさで、やみくもにねじ曲げたり変質させているものがある。
 社会には、変えるべきものがある。そして変えてはならないものがあるのだ。
 その時どきの人間のアサハカさや勝手な都合で、慎重に定めた法やルールを強引に変更するのならそれは法治国家とはいえない――。

いいオトナが「……みたいな」を連発するが。
 あいかわらず、ゲーノー人の離婚・結婚がテレビ視聴率の目玉になっている。
 それこそいいトシをした者がレポーターなる者に愚にもつかないことを喋る場面を見せつけられる。すでに子どももあるはずの彼らが、なにかというと「……みたいな」を連発する。たとえば「お互いの仕事の都合で、すれ違ったままみたいなコトで……」「彼は彼の夢があるからヤッパそれぞれの夢を大事にするみたいな……」ETC……。
 いや、ニュースワイド番組のコメンテーターなるオジサンもオバサンもエラソーな顔で「……みたいな」とのたまう。
 このコトバをあいまい語というが、つまりは、自分の思考や意志決定が出来ないことの表れである。また、自分の発言に責任を持ちたくない人間の常套句だ。
 たぶん、このあいまい語を乱発する者は、しっかり物事を考える力がないか、その努力を怠っているか、でなければきっとある種のウソをついていると考えている。

それにしても、CMも番組の出演者も……。
 テレビ番組にフリー・トークが跳りょうするようになって、とにかく不快で、不謹慎で、不作法な「不良品」がやけに目立つになった。
 とりわけ、うす汚いタレントばかりの仲間うち番組では「ソージャネーヨ!」「ウルセーンだよ!」と、町のチンピラそのままのコトバが日常化している。
 それと、あのアニメ声のキンキラ声。食い物番組はもちろん、ほんらい真面目であるべきニュース番組のレポートにも「さかりのついた猫」のようなうわずった奇声が登場する。
 CMもやたら15秒スッポットが増えているせいか、浅はかで拙い目立ちたがり演出にともなうCMがふえ、どれもこれもカンに障る。
 「なるほどなあ」と納得することのない番組もCMも、そして出演者も……いや、政治家らも、さっさと消えてほしい。(……みたいな気になるなあ?)

— posted by 本庄慧一郎 at 05:06 pm  

「ニッポンの芸能人」シリーズ46


元祖鬼平・松本白鸚。
 池波正太郎原作「鬼平犯科帳」といえば、もっぱら現中村吉右衛門のシリーズがおなじみである。
 この人気のシリーズは、初代が松本白鸚(当時幸四郎)。つまり、現在の松本幸四郎、中村吉右衛門の父上。そして市川染五郎、松たか子のおじいさまだ。
(この「鬼平」シリーズのゼネラルプロデューサー市川久夫さんは先年亡くなられたが、とことんジェントルで優しい先輩であった)
 もともと「鬼平」はこの松本白鸚(先代中村吉右衛門)の主演でスタートしたのだ。
 ぼくはせっせとTVコマーシャルを制作していた頃、カティサークというスコッチウィスキーのCMをそっくり請け負った(プロデュース・企画・コピー・作詞等の全般)。
 スタンダードものに真野響子。12年ものには白鸚……というキャスティングで、楽しい仕事をした。
 お二人とも文句なしに魅力的、素敵なお人柄で、CMも品位のある、それでいてエンターテインメント性の濃いものに仕上がった。
 当時、鎌倉鶴が岡八幡宮前にあったご自宅に参上していろいろ親しくおはなしをした。奥様が経営なさっていたレストランでおいしいワインをごちそうにもなった。(ご自宅でチラチラお見かけした若者お二人は、現幸四郎・吉右衛門ご両人だった)
 白鸚さんはすでに「人間国宝」というエライ方だったっが、この方にはエラソーな気配はみじんもなかった。

「図にのるということ」の醜悪さ。
 ニュース・ワイド番組にはなぜか「芸能コーナー」が必ずある。そして、やたら結婚したの離婚したの、はたまたゴタゴタともめているのなどなど、連日のように登場する。
 芸能レポーターと称する「あさましいマスコミ・ハイエナ」が群がり寄って画面を騒がせる。しかも、取材されるご本人たちがまた、ズルズルと牛のヨダレのようにだらしなくよくしゃべる。それはもう「露出狂」としかいえない醜悪そのものだ。
 「品性」とか「矜持」とか「自制」といった文字や意味とはまるで無関係な欠陥人間が デカイ顔をして恥をさらす。
 とにかく、皆さんやたら「図にのる」のである。黙って顔を下げて引き退るということはない。
 たとえば、いいトシをした松居一代とうヒトが、船越英一郎と再婚したらしいが、現在、いかに幸せかペラペラとしゃべる場面を(たまたま)何回も観た。よくも臆面もなく……とただ呆れ返りウンザリした。
 とにかくいまのテレビには「分相応」ということを忘れ果てた連中ばかりがのさばっている。
 ぼくはいまの生業(なりわい)としている時代小説の仕事で、元禄時代の紀伊国屋文左衛門とか奈良屋茂左衛門のことを書いているが、彼ら「元祖バブル金持ち」のバカさかげんも「図にのる」ことでトコトン終始していて笑ってしまう。
 図にのるといえば、演劇畑の中尾彬、江守徹などのオジサンもバラエティ番組(?)などでガキ・タレントと一緒にまじって愚にもつかないコトをまことしやかな顔でしゃべっているのもただミットモナイ。
 自宅に戻ってふとんに入ってから「自己嫌悪」なんてことに苛まれることはないんだろうなあ。ウラヤマシイというかエライというか……。
 そう、みのもんた、島田紳介、愛川欽也などなど……あの正義漢ぶりも分相応を忘れたいかがわしさがつきまとう。

松本白鸚のエピソード。
 カティサーク12年もののCM撮影のとき、弟子たちに「とんぼを切る所作」のけい古後のひととき、ゆっくりくつろぐ白鸚さんがロックグラスでカティサークを楽しむシーンがあった。アルコールはたしまなない白鸚さんがグラスを持ち、「ヨーイ、スタート!」でアクションということになるのだが、そこで彼は唇をとがらせてグラスに近付けた。「それは、なみなみとついだ一升マスの酒を呑む時の仕草です。グラスの手を口に持っていって下さい」と注文した。その時のこの「人間国宝」は頭をかきながら破顔一笑した。
 その笑顔の屈託のなさ人なつっこさは、いまでも忘れない。
 そういえば、現吉右衛門がこの父上についてこんなエピソードを記している。
 「若いころのおやじはもう大変なプレイボーイで、ある日の劇場の一階二階三階にそれぞれ彼女を招いていておやじは三つの階をかけめぐって、一度に三人とデートしたそうですよ」(「歌舞伎事典」講談社)
 ま、いろいろあってもいいけど、つまり、下品にならずにやってもらいたいということですよ。「図に乗ってる」皆さん!

— posted by 本庄慧一郎 at 05:08 pm  

「ニッポンの芸能人」シリーズ45


「芸能界人脈地図`95」という本のこと。
 本屋めぐりは商売柄欠かせない。新刊本はもちろんだが、古本屋の拾い歩きがなによりも性に合っている。
 とりわけ、100円均一本の山をひっくり返して、掘り出し物を見つけるのが楽しい。
 表題の本もその1冊だ。サブタイトルに「日本初900名以上」とある。主役とされているタレントが200名、その交友関係と取り巻き連中のざっと700名の紹介で構成されている。
 いわゆるあの「バブル期」の「大量生産・大量消費」の無意味なまでの愚かしい現象が、この芸能本にもハッキリ示されていて興味ぶかい。この本の発行からざっと10年余前――それは「格差のある社会」の縮図になっているのだ。
 たとえば、麻薬で自滅した者。暴力暴行で逮捕された者。酒気おび運転などでの事故を起こした者。スキャンダルまみれで失速した者。もともと無能なのになぜか人気者になり、すぐに消えていった者。そして過度のストレスが原因と思われる疾病であっという間に逝った人たち……などなど、いまさらのようにその「大量消費」現象にタメ息をついた。
 いや、前出の理由とは無関係に、なんとなく姿を消していった者も大勢いる。

使い捨て「人的資源」というコトバ。
 かつて、人間をモノとしか扱わなかった時代があった。つまり、日本が「アジアの平和」とか「八紘一宇」(はっこういちう――大平洋戦争の時代に世界を一つの家にまとめて統轄するという意味で使われた侵略標語)を押し立てて日本が戦争に突入していったその時代、兵士たちはさまざまな兵器や武器弾薬と同様の、たんなる「資源」とみなされた。つまり、人間もまた消費されることが当然の物質だったのだ。
 いま、テレビを中心とするゲーノーのフィールドに右往左往する者たちが、結果として「使い捨てにされる人間たち」であるとは否も応もなく実証されていることだ。
 それでも、身分不相応のカネを得て、悪賢くエスケープした者もいるだろう。だが、大部分の者たちは、マスコミというドロ船に未練たらしくしがみついていて、一回こっきりの人生をドロドロに汚してしまう。
 そういえば今日(2月28日)の新聞に、警察手帳のニセモノを製造販売して2000万円売り上げたという元俳優3人が逮捕されたとあった。なんともみじめだね。哀れだね。警察手帳のニセモノというのがユニークで、どうしようもなくアサハカで皮肉だねぇ。でも同種同病のゲーノー人って大勢いるんです。心配ですよ、ほんとに。

転進するということの決断と勇気。
 みずから望んで乗り込んだ船がドロ船だと思ったら、その時点で水に飛び込んで、是が非でも早々にやり直す手段を講じねばならない。「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあり」である。
 ぼくは、演劇・ラジオ・テレビ、そして広告・コマーシャル、さらにいま小説・脚本書きなどの仕事を通じて、それは大勢の人たちの生き方をじかに見てきた。
 愚かしい人の例はいくらも挙げられるが、「なるほどなあ」という例はそう多くない。
 たとえば俳優牟田悌三さん。あの方はいま、地域と密着しての若者たちの問題などの、地道な活動をしておられる。もう30年になる。
 もともとジェントルでユーモアのある牟田さんのお人柄が好きで、ラジオのDJ番組などをずいぶんご一緒した。
 いっとき、ご一緒に広告制作などの事業をと思ったこともあるが、ぼくの未熟さゆえにとん座したが――。
 テレビなどで荒稼ぎした連中が、ボランティアうんぬんなどとそれらしいコトをエラソーにひけらかすことがあるが、牟田さんにはそれがない。
 ゲーノー界の毒に染まることなく、自分らしい道を歩くには、きわだった決断と勇気が要る。
 浅慮と軽卒とゴーマンさゆえに、みずからを「人的資源」におとしめる人間がウヨウヨいるのはゲーノー界ばかりではない。政治・経済・産業……などの分野にもゴソゴソとうごめいているなあ。

— posted by 本庄慧一郎 at 05:09 pm  


*** お知らせ ***
自主CDを制作
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平和を願う歌
「鳥になれたらいいね」
総合プロデュース:本庄慧一郎
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