「ニッポンの芸能人」シリーズ62
2006/6/30
劇団テアトルエコーのけい古場でのお楽しみ勉強会
6月24日(土)PM1:00〜9:00まで、恵比寿のテアトルエコーのビルのけい古場で「大都映画とチャンバラを楽しむ講座」に出席。
今秋(11月22日〜12月6日)公演の小生作「大都映画撮影所物語」に向けての若手劇団員のおべんきょう会という趣向。
「殺陣」のオ−ソリティ、永田哲朗氏のチャンバラ映画特集ビデオ(貴重)その分析のおはなし。そしてふじやま竜氏の時代物の所作についてのおはなし。
延々7時間あまり。御大熊倉一雄さん、演出永井寛孝さん、制作白井浩司さんをはじめ30名ほど。
木山みずほさん、あまのとしやさん。そして高瀬精一郎さんも出席。
とにかく長丁場、楽しい時間でした――と大好評。
こういった気楽なプレ勉強会開催もテアトルエコーさんならではか。
だいたい新劇系(?)の劇団やその関係者たちは小理屈ばかりでその実力はタカが知れている場合が多い。
秋の公演には、観客動員などで積極的に行動するつもり。
その気分を拡充して久しぶりの浅草へ
各地の豪雨とか。なんとも不快・不順な社会と人心……。
ムシ暑いのも百も承知で、浅草へ。(ワイフ同行)
まず、観音様裏のあの「色街」へ。下町風俳句めいたもの10余句を投稿する。
ウイークデイの昼間、人かげもまばら。
伝法院正門そばの居酒屋(十味小野屋?)にて昼食。冷や酒2本。
小店をのぞき歩き。仲見世はまあまあの人がいる。
人力車がよく走り廻っていて、賑わいにプラスしているかのようだ。
串団子2本を立ち食い。
すぐ隣の地球堂書店(店名はワイルドだが、駄菓子なども売っている古い店)で「ムック・落語家総覧(2000円)「日本女優史」(1000円)その他2冊買う。
そして(飲み足りないなあ)公会堂そばの(憧れの居酒屋)、ニュー浅草。
つまり、ショーチューが安いということ。
浅草育ちとしては、「なんとなく浅草」もぜいたくのうちなのである。
懐かしの大勝館ではこのところ、若手のチャンバラ芝居が賑わっている。
近々、永田氏、白川氏を誘ってくるつもり。
帰宅すると、小沢昭一さんからの寄贈本「老いらくの花」「小沢昭一的新宿末広亭十夜」の二冊。そして本地陽彦さんからは「原節子・永遠の処女伝説」の本が届いていた。
またしても、本庄慧一郎的ゲーノー気分高揚の、いい日でした。
— posted by 本庄慧一郎 at 04:53 pm
「ニッポンの芸能人」シリーズ61
2006/6/23
言葉をゴミにするラジオの公共性?
昨夏(05年8月9月)、2ヶ月の入院生活をした。
主治医の予想では、治療とリハビリで都合4ヶ月〜5ヶ月かも、とも言われたが、「請願して」2ヶ月で退院させてもらったのである。
診断書には「原因不詳」と明記されたユニークな疾病で、強いて言えば「風邪」、もしくわ「まじめに働きすぎる」ということだった。
なんにしても2ヶ月という「別荘暮らし」にはたっぷりの時間があった。
娘夫婦が用意してくれた名作落語のCDをくり返し聴いた。
そして、ラジオの深夜放送にじっくりと耳を澄ました。
かつては放送作家として構成台本をウンザリするほど書いていた。
現在の深夜放送は、ごく一部の番組を除いてはほとんどは「コトバのごみ捨て場」のようだった。
面白いとか楽しいとか、はたまたいい気分にさせてもらうことはもちろん大歓迎だが、いずれの番組もパーソナリティなる者の悪ふざけでとても耐えられるシロモノではない。
例によって「公共放送」という四文字のシラジラしさを痛感した。
とにもかくにも、出演者及びその取り巻きたち(タイコ持ち!)の勝手な悪ふざけは、リスナーへの配慮がゼロで、言葉そのものがノイズ化されていて、ひたすら意味不明であった。
うさん臭い人間ほどよく喋る
そういえば、ホリエとかムラカミといった男たちは、何かにつけてよく喋った。とりわけ彼らの行動が事件性をおびてきてから以後、実にペラペラと喋った。
この種の者の話は総じてその量に反比例して主旨や意味が不明確である。
現在、大いに流行している詐偽集団の連中――リフォーム詐偽から振り込め詐偽に至るまで、彼らはやみくもに喋る。
つまり、言葉の煙幕をめぐらすことで相手を混乱させて、穴に落とし込むのだ。
ついでに思い出したが、苫小牧市の元市長の弁明なども、まるで意味不明であったし、日銀総裁のフクイという男の弁明も同断であった。
もちろん、秋田のハタケヤマ・スズカなる女史の弁明や釈明も最初から?であった。
テレビなどでベラベラ喋っている者は、だいたいうさん臭いと思ってしまうようになった。
いや、本当にずる賢い悪党は姿を見せず、余計なことは喋らないのだ。
演劇の俳優たちは言語表現のプロか
演劇の舞台には直接かかわっているし、生活するための仕事が小説書きだから、(なにせ、日本語にかかわってざっと50年暮らしてきた)、どうしてもコトバ・ことば・言葉が気になる。
演劇の舞台ではかなりの俳優たちが、とてもプロとは思えないのが多い。
あれは、ノダ・ヒデキの芝居あたりからの傾向か、やたらせりふをがなる、叫ぶ、喚くというのが常態化した。
音量はデカイが、まるで意味不明なのである。
いちいち具体例を列挙するのはたやすいが、……ともかく「もの言う術」の手薄なこと、ダメさかげんにいまや歯止めはないようだ。
何度も書いたことだがテレビのバラエティ番組をはじめ、複数の出演者がガン首を並べる番組では、もうまっとうな言語表現は存在しない。
そこにあるのは、自己完結のノイズだけだ。
演劇の舞台だって似たようなものだ。
いまさらの如く美空ひばりを思う
美空ひばりの17回忌記念の3時間にわたるテレビ特番を観た。
デビュー当時の「女の子」だった時の歌唱力、そして晩年の表現力を再確認したが、余計なスーパーなど必要としない明確さと、言葉に託す美空ひばりの情念の豊かさ、その表現技術にあらためて感嘆した。
それにひきかえ、最近の若い歌手(や俳優などの表現者たち)の稚拙さ、幼稚さ、未熟さには、ただゲンナリするばかりだ。
偽装と虚偽と詭弁が横行する時代には、言葉はすべてゴミにされる。
そういえば「劇場型政治」といわれたコイズミ路線も、言葉はウツロで軽かった。やはり、あの人の言動にはうさん臭さがつきまとっている――。
— posted by 本庄慧一郎 at 04:53 pm
「ニッポンの芸能人」シリーズ60
2006/6/16
枝璃貴子ソロ・コンサート
このH・Pでは何回か書きましたが、現在進行中の「平和を願う歌」シリーズのうちの一曲「散華」に曲をつけて下さった枝瑠貴子さんのコンサートが「コール田無」というホールであった。(6月10日)
枝璃さんとは親しい人たちが集うアットホームなコンサートで、毎年6月に定期開催されている。
「散華」というぼくの作詞は、枝璃さんのハートフルなギター弾き語りで好評をいただいた。
この「コール田無」というしゃれたホールは、由緒ある田無神社の境内にある。
神社の宮司さんである加陽濟(かや・わたる)さんは、このホールの建設についての協力はもちろん、枝璃さんについてもバックアップをなさってきたお方だ。
以前から加陽さんのお人柄やお仕事のことなどはお聞きしてきたが、今回コンサートの打上げ会で親しくお話する機会に恵まれた。
そして、その人柄にふれてあらためて「意外な魅力」にとらわれた。
神社と寺とのえにし
江戸時代を舞台にした時代小説の物語り作りでは、神社や寺のこと抜きには出来ない。
古地図や資料と首っ引き、そして想像力を旺盛にして〔当時〕の情景を「見てきたように描く」のである。
だが、正直に言うと、お寺さんは書きやすいのだが「神様」を祀った神社はどうも苦手だあった。
といいつつも、ぼくの家(仕事場とは別)は、神社の参道のひとつ裏にあり、もともと神社とか寺が多い練馬石神井辺が大好きで住みついたところである。
子どもたちが幼いころは、目の前の神社の正月や祭りや、そのほかの四季折おりに神殿に詣り、慣れ親しんで過ごしたものだ。
たぶん、ぼく及びワイフ、そして子どもたちほど、神社や寺に親しんだ家族はそういないのではと思っている。
というわけで、以前から何度か田無神社のたたずまいを愛でるために訪れてはいたし、タウン紙「オープン・プレイス」の取材でもあれこれ書かして頂いた。
加陽宮司さんから頂いた「田無神社本殿写真集」でも紹介されているが、島村俊表氏の多様多彩な彫刻作品には目を見張るものがある。
都や県の重要文化財に指定されている伝統あるアートには感嘆する。
その魅力についてはまた述べるとして――。
加陽濟さんのお人柄
もともと人づきあいの多い仕事をしてきた。とはいうものの、である。
あらためて申しあげるが、神官とか宮司さんという方とのご交誼は、過去に一例だけである。
かのニッポン放送で放送作家として仕事をしていた折に制作ディレクターだった野口好敏さんが、実は東村山市の八坂神社の宮司さんだったということがある。
お寺さんがご実家だという放送局や広告代理店の制作者たちは何人か知っていて、皆さんはいまご住職などを勤めているようだ。
それやこれやはともかく、田無神社の加陽宮司さんのことだが、今回親しくお話して(そういってはなんだが)宮司さんらしからぬ闊達自在、その思考の柔軟性と質の片りんに触れて大変に魅かれたのである。
ちなみに、加陽宮司さんは、精神分析・精神療法等の分野のエキスパートであり、その方面のお仕事でも活躍なさっているのである。
ぼくは、「おや?」とか「へえ!」と思わず呟くような方とお会いするのがなによりも楽しい……という人間である。
このところコイズミ首相の「靖国問題」など、あれこれ問題含みの事案は多いが、加陽宮司さんのような寛容で合理的なお考えを持った宮司さんは大歓迎したい。
いずれゆっくりの歓談の機会を頂き、「加陽ワールド」にお招き頂きたいと思っている。
追伸
たそがれてからの田無神社の神殿、そして参道の樹木のたたずまいは素晴らしい。それともうひとつ、参道わきのご神燈に仕掛けられているらしいスピーカーから、なんとソフトジャズのサウンドが流れていたのには、「おや?」であり「へえ!」であった。いいですねえ。こういうユニークで粋な趣向は! 脱帽。
— posted by 本庄慧一郎 at 04:54 pm
「ニッポンの芸能人」シリーズ59
2006/6/9
うさん臭い嘘つき顔オンパレード
国民年金に関する社会保険庁の責任者の、国会答弁の際の顔及び表情は「ワタシはウソをついています」と言外に明確に語っていた。
あのホリエとかムラカミという男たちの顔も表情も、そしてその饒舌さも、みずから「ウソをついている」ことを証明している(ようにしか見えない)。
もちろん、例の畠山スズカとやらの女も同断である。
官庁ぐるみの(防衛庁から警察署まで)の不祥事で、弁明謝罪する責任者たちの態度もその表情もすべてうさん臭い、嘘っ臭い。
勧善懲悪っぽい時代小説を書いてつましく(!)暮らしている身としては「……世に悪のタネはつきまじ」といった思いはあるものの、現在の政治・社会、加えて人心の劣悪化にはただウンザリする。
とりわけ、嘘をついているという自覚さえもない(人間機能停止状態のような)政治家たちの存在と、それを〔選良〕として選んだ選挙民たちの質にはこれまたゲンナリする。
演劇・映画のフィクションとその質
この5月の新橋演舞場で、立川談志・立川志之輔の落語二人会があった。
桟敷席8500円、3階席でも4500円という「木戸銭」。正直「へえ!」とシラケる料金だが、発売後即、完売とか。インターネットでは1階前の席が1万円以上、最高額はなんと14万円の値がついたという。
そのネダンはおくとしても、落語家二人の集客力は、近頃のン十人というスタッフ出演者で1ヶ月もけい古しての手間ヒマかけての(興行としての)演劇公演の効率を考えてみると、その差は歴然としている。
もの心ついてのぼくは親父の好みもあってせっせと寄席へつれていかれた。
戦前の新宿ム−ランル−ジュ出身の劇作家の叔父(小沢不二夫)の影響で早くから演劇を志し、劇作家三好十郎氏の劇団にも入り、書斎での口述筆記のお手伝いをするチャンスにも恵まれた。
だから、落語もシバイもばっちり学んできたし、楽しんでもきた。
でも――総じて、近頃のシバイ、舞台のなんともツマラナイことといったら!とりわけ「エンターテインメント」といわれる分野のモノは、いつも(?)である。
もっとも、師である三好十郎氏の「ゴッホ小伝――炎の人」のような重量級の舞台はもう望むべくもないが、巷間、好評だという作品を観てもやはり(?)である。
是枝裕和監督映画「花よりもなほ」を観た
マキノ(津川)雅彦監督「寝ずの番」のことは前に書いた。文字どおり「楽屋オチ」っぽいネタで、とにかく面白いかった。
今回の「花よりもなほ」も人情ものをベースにした落語噺のミックスだが、落語好きで、おのれも時代小説を書いているぼくとしては大変快く観て、楽しんだ。
「マッチョな考え方に対する僕の嫌悪感が出てるのでしょう。単純な強さを信奉する人たちは豊かじゃないですね。長屋の住人たちが豊かだなあという印象を持って欲しかった。その奥に、テーマが何となく感じられる、という風に作ったつもりです」とは是枝監督のコメント。ウン(!)。
ほんとうに面白くて滋味のある演劇は出てくるのかな
落語に関していえば、なにしろいま、自分でも「時代ものでの新作を」といったゴーマンなことを考えているのデス。もちろん「芝浜」や「文七元結」のような名作はあるのは百も承知。でも、「新作」というとPTAやお巡りさんが素材というのに、なんとか挑戦したいと思っているのデス。
渋谷パルコの「志之輔独演会」は本年から1ヶ月の興行になったんですよね。
パルコや朝日ホールの志之輔さんの楽屋におじゃましたことがあるけど、立川談志入門23年というその「芸」はINGで期待大!
それと05年度のギャラクシー賞(放送批評懇談会主催)の大賞は「タイガー&ドラゴン」という落語界を素材にした作品。
とにかく、うさん臭い嘘っぱちはすべて叩き潰したい。
でも、上質の嘘(フィクション)は大いに歓迎したい。
それにしても、いまの演劇(舞台)ツマンナイのが多いなあ。
「志之輔独演会」でパルコ1ヶ月……という事実、演劇関係者はどう思ってるの?
(本日6月9日はわが師三好十郎作「鈴が通る」文化座を観に出かける)
— posted by 本庄慧一郎 at 04:55 pm
「ニッポンの芸能人」シリーズ58
2006/6/2
ライブ・ステージ観てある記
食い物をムダにしない。なんでもよろこんで食べる。
興味や関心や取材に選り好みをしない。なんでもよろこんで体験する。
このところまたライブ・ステージをこまめに〔体験〕している。
新宿サザンシアタ−劇団青年劇場の「尺には尺を」(シェークスピア)を観る。
そのテーマ・モチーフはきわめて現代的――と解説にある。が、である。
シェークスピアの戯曲の諷刺性・多彩性、その饒舌的な特徴と魅力は、出演者たちの表現技術の熟練がないと、具現化できない。
「尺には尺を」の舞台は半煮えで、イライラさせられた。
それは演出(高瀬久雄)にも責任がある。俳優が客席に背を向けて演技することも多く、表情やこまかい演技が確認できないのと、俳優のせりふ術(発声・活舌・エロキューションの基本術)が未熟で、「なにをいってるの?」で終始した。
俳優たる者、背中でシバイができれば一流――という言葉があるけどネ。
あのライブ・ステージに解説どおりの「現代性」を読み取るのはムリですよ。
大衆演劇という名のライブ・ステージ
下町の玉三郎をキャチフレーズにする梅沢富美男を観る。
人情物風のお芝居と、梅沢富美男の歌のステージ。そして、「現代離れした美しい女形」をアピールする第3部。
ぼく個人としては、大衆演劇というカテゴリーの舞台に大いに声援も送るし、実際、自分でも脚本を書くつもりだ。(劇団テアトルエコー、この秋の公演「大都映画物語――遺骨(ほね)まで愛して」もその一例だ)
しかし、大いに好意も関心も持っている梅沢富美男一党の舞台は、どうヒイキ目に見ても「大衆をナメている」という印象はぬぐえない。
そういえば、新宿コマ劇場におけるいわゆる「歌手芝居」も、いっとき(美空ひばり出演の時代)は集客力抜群だったが、このところまるでダメで、ごく一部の歌手主役以外の公演はない。
商売柄もあって(好き嫌いなく)舞台はよく観るが、これも好感を持っていた吉幾三の喜劇とやらの、そのザッパクさにシラけたことがあった。
北島三郎も小林幸子も……コマーシャルではご一緒した人たちだが、あのような舞台(芝居)では先がないのは当然だと思ってきた。
答えはそのとおりになっているのだね。
テレビのエンターテインメント番組も同断だが、制作者、出演者がいい気になっている、図にのっているモノなんて見捨てられて、これまた当然。
居眠りしてなんかいられない6月です
池袋芸術劇場6月1日〜4日、小櫻京子劇団の舞台、人情喜劇には、新国劇出身の大山克巳さん、そして友人の山口隆さんの出演。
テアトルエコー6月公演は6日〜20日、恵比寿エコー劇場で「キメラの山荘」熊倉一雄さんをはじめなじみの俳優たちの舞台たのしみ。
それから劇団セメント金魚の田中允貴さんの中目黒ウッディシアターでの「ハートに悲はつけないで」の公演が6月27日〜7月2日。
いや、その前にコール田無の「枝璃貴子コンサート」が6月10日、ぼくの「平和を願う歌シリーズ」のうちの一曲「散華」を歌ってくれる。
その歌詞についてと、ぼくの平和への想いと戦争にたいする意見を話すコーナーがある。
楽しく遊び学ぶ6月である。
— posted by 本庄慧一郎 at 04:56 pm