再見(チャイチェン)という中国語
このところ、お葬式の通夜や、一周忌の故人を偲ぶ会などで献杯のスピーチを頼まれることが多い。
それもこれもトシのせいだと認識しているが――。
そのスピーチの際のしめくくりには、故人の遺影に向かい、参会者の皆さんとご一緒に「再見!」と唱和して頂いている。
「再見」――またお逢いしましょう! ということである。
内田勝さんの訃報
ある方の紹介で、内田勝さんにお目にかかったのは、04年の6月30日だった。
新聞の訃報記事には「内田勝さん(ソニー・ピクチャーズエンターテインメント顧問、元「少年マガジン」編集長。73歳)」とある。
65年に編集長となり「巨人の星」「あしたのジョー」「ゲゲゲの鬼太郎」などの劇画をヒットさせ、劇画ブームを牽引した方だ。
お目にかかる日にはぼくは、自分の著作物(小説本)を何冊か持参して名刺とともに差し出した。
スカイパーフェクテレビの「アニマックス」のスーパーバイザーとしての仕事をしておられ、現場をご案内してくれた。
内田さんとは〔表現者〕としての話をあれこれさせて頂いた。
その際、内田さんはご著書「〔奇〕の発想/みんな〔少年マガジン〕が教えてくれた」を下さった。
トビラにはサイペンのカドのとれた明快な文字で「本庄慧一郎様 2004年6月30日/「虚空」の花を掴む。内田勝」とある。
正直なところマンガや劇画なる表現物には一定のスタンスをもっている者だが、表現者としての内田さんの〔熱弁〕は傾聴した。
50枚以上のシールが挟み込んである。精読した証である。
実に行動範囲の広い方だった。
「〔好奇心〕の発動は、日常の周辺に、一見何気なく隠されているものを顕在化することから始まるが、やがてそれは想定外の思考の地平へと自らをいざなってくれるものだ。」(295頁)など含蓄のあるコトバが随所にちりばめられている。
このところぼくは、トシをとり心身が鈍化するもっとも顕著な徴候は「Reaction & Presentaion」能力が退化・消滅することだ――と自らにもくり返し言い聞かせている――。
内田勝さんに心をこめて「再見!」と申しあげる。
声優広川太一郎さんのこと
ぼくは民放ラジオのライターとしてスタートした。
初期のラジオには話芸・話術に長けたタレントが大勢いた。
本庄慧一郎の略歴書にも仕事でかかわった記憶にのこるその方たちの名前を記述しているが。
広川太一郎さんとは、番組もCMも山のような仕事をした。
たしか、集英社&浅田飴の提供の「歌の明星」(TBSラジオ/月4回でそのうち1回は公開録音)の司会(声優鈴木弘子さんとのカップル)までやらせた。
このギョーカイには珍しく、また貴重なインテリである二人の気持ちや生活ペースを無視して「キャピキャピ・ムード」のギャグ連発の構成台本を書いた。
太一郎さんの訃報を知って、鈴木弘子さんに電話したが「そうよねぇ、本庄さんには、太一郎クンともども、ずいぶんペースを乱されたわねぇ」と言われた。
でも、広川太一郎さんは、トニー・カーチス、ロバート・レッドフォードのアテレコでもっぱら二枚目を担当していたが、その実は、ダジャレ大好き、ホントに真剣に大まじめにギャグを考えるヒトでもあった。
「クールで禁欲的」と称され、あまりにも真剣に台本や企画に意見をのべるので、いいかげんなスタッフにはうとまれたようだったが。
でも、ある日ぼくに広川太一郎さんは大まじめに言ったのダ!
「本庄さんだったら、ぼくのマネージメント一任してもいいと思っている」と。
享年69歳。若いね太一郎さん。「再見!」(08年3月3日没)
その故広川太一郎さんともろもろのこと
05年に舞台脚本「大都映画撮影所物語」を書き、劇団テアトル・エコーが上演してくれて、好評をいただいた。
それをきっかけにして「実録大都映画」を書かないかというオファーがあり、目下執筆中(9割方完了)だが。その「大都」に年間16作品を制作した監督をはじめ4人の叔父がいたのでアル!
そして、カメラマンに広川朝次郎が活躍していた。
太一郎さんのお父上である。
太一郎さんと一度ゆっくりそのコトを話したいと思っていたが、ついに果たせなかったのだが。
○
さてここで、私ごとになるのだが、この5月の5日にぼくの叔母小沢弥生が逝去した。
小沢弥生は、戦前の新宿ムーランルージュで当時のアイドル・明日待子などと共に舞台で踊り、芝居をしていたチャーミングなレディで、叔父の劇作家小沢不二夫と昭和17年に結婚したのである。
この叔母小沢弥生の葬儀の折、病床の枕元のメモに「広川順子」のお名前と電話番号が記されているのを見た。
広川順子さんは太一郎さんの母上で、もちろん朝次郎さんの奥様である。叔母弥生とは新宿ムーランルージュで同じ舞台に立っていたのだ。
この縁(えにし)の糸は大都映画と新宿ムーランルージュに収斂されるのを、あらためてしみじみ思った。
ぼくは(「東京新聞の〔わが街わが友〕2月にも書いたが)、学校などほったらかしにして、叔父小沢不二夫に「弟子入り」して物書きの仕事を始めたので、叔母弥生とのかかわりもふかく、数年間は三人のイトコ(小沢公平・有美・夢生)たちともども家族のように過ごした。
この叔母弥生の通夜の席で献杯のスピーチをさせてもらったが、ぼくはイトコの有美(女優の水沢有美)さんに、「リンゴ追分」(有美の父で弥生のパートナーの小沢不二夫作詞)を歌ってほしいとリクエストした。だらしなく泣けて……でも、なんとか「再見!」とあいさつした。
「友よ、ああ暫くのお別れだ。おっつけ僕から訪ねよう」
(三好達治――梶井基次郎の死に際してのコトバ)