自称「ムスコ」や「セガレ」になりすまして、嘘八百を並べ立て、「親ごころ」を悪用して詐欺を働くのが「オレオレ詐欺」。
近頃、元広告業の、というより広告業界でのコピーライターやその周辺の者で「作家」を自称する者に、しばしば出会う。
「作家」を自称しても、それが即、犯罪にはならないが、しかしヨコシマな目的で繁華街をウロウロしているヤカラがよくいるが、そんな「タレントクラブ社長」とか「モデルクラブ・マネージャー」的なうさん臭さがつきまとうのは否めない。
マスコミ・芸能のフィールドにはこの種の危うい「自称」は枚挙にいとまがない。
そして3年後には独立――フリーとして電通・博報堂をはじめ、さまざまな広告代理店・CM制作プロダクションと仕事をした。
その時代のコピーライター周辺には、かの阿久悠氏や五木寛之氏、また野坂昭如氏や伊集院静氏、そして青島幸男氏など、そうそう、あの林真理子氏もコピーライターを名乗っていたが、のちに作家として、また作詞家として名を成すツワモノが実在した。
当時、DにもHにもその他の広告業や制作プロダクションにもコピーライターの名刺を振り回す者、またやたら得意顔でカッポするコピーライター諸氏はワンサといた――というより無数にうごめいていたなぁ。
さらに、その中のかなりの多くの者が、「いまの仕事はホンの腰掛けさ」「そのうちに……見てろよ」といったジェスチャーを折りにふれて見せていた――。
それ自身が「犯罪」ではないから放っとくより致し方ない。
でもね、「画家」や「彫刻家」「俳人」「歌人」、はたまた「詩人」同様に、そのギョーカイやまた関連ギョーカイの者たち第3者が、その肩書きをすんなり慣用語として日常的に使ってくれなければ、結果として「実質」がまるで伴っていない、または「ホントは素人」といったコトになると思う。
その理由は、「生活費は他の職業で稼いでいる」にあると考えるからだろう。
広告業界におけるコピーライターには、それなりの才能も努力も必要だ。しかし、その経験がそのまま「作家業」にイコールするわけではない。
したがって、いくら広告というフィールドで活躍したからといって、そのまま名実ともに「作家」にイコールするわけがない。
「放送作家」にも同様のことがいえるはずだ。つまり、「放送作家」の4文字から「放送」の2文字をカットして、シンプルに「作家」を名乗るにはそれなりの努力や才能が要るということだ。
「ブログ」や「ツイッター」などの文章(?)に熟練したからといって、本来の「言語力」や「文章力」や「表現力」のエキスパートになれるハズがないのは当然のことだ。
むしろ、極度に簡略化したハンチクな言語で相互理解を得た――といったアサハカな諒解や納得など、その他の分野では結局、まるで役に立たないと思う。
その一方でツイッターなどのニューメディアの伝播力が、原発問題をはじめとする政治的・社会的に重要な課題の認識を大きく拡大するために効率よく役立っていることをフルに評価している。
すでに、根っから信じられる言葉やメッセージとは無縁の「おしゃべりロボット化」した政治家などがウヨウヨしているが、彼らもまた「別種・ケータイ化したハレンチ・エイリアン」だと言っていいと思う。
以前はしばしば「テレビ文化」とか「コマーシャル文化」とかいったコトバを見かけたし、耳にもしたが、近頃はとんと使用されなくなった。
「Culture」というワードをいくら拡大解釈しても、現在の「テレビ」や「コマーシャル」には、その気配もうかがえないということか。
まったく、ナサケナイねぇ!としか言いようがない。
ケイちゃんの目 ↓