2012年7月28日。食道ガンで逝去された。82歳。ご冥福を祈ります。
日本の広告業界は、当初、そっくり理論やシステムはアメリカ流を模倣していた。
西尾忠久さんは、早くからそれらのフォーマットを研究し、「日本流」にアレンジして紹介するホンを著わした人だった。
その後、ン十年という時を経て池波正太郎の「鬼平犯科帳」などの時代小説に並々ならぬこだわりを見せ、関連の著作などをまとめられた。
小生は、演劇をめざしながらも結局は(生活のためという理由で)放送作家として、ラジオ・テレビ番組の制作・構成の仕事にどっぷりつかり、同時に草創期のCM制作業界に飛び込んだ。
当時(1965年〜)西尾さんのオフィスは麹町(日本テレビの近く)にあって、「仕事以外のことでゆっくり話がしたいなぁ」と何度か言い合ったりしたことがある。
まさか当時は、彼が「時代小説」にのめり込むとはチラとも思わなかった。
かく申す小生も、その後、書き下ろし時代小説文庫を書くことになり、ざっと50冊ほどにエネルギーを注いだが、その頃「書く」ことは念頭になかった。
なにしろ(いつも言うように)小生は、仕事に関してはていねいにきちんとパートナーシップを発揮して、スムーズに仕事を完了するが、その他の場(ゴルフ、マージャン、旅行、はたまた競輪競馬などのギャンブル。そして同業者同士のサケなども)でのおつきあいは一切お断りのヘンクツ男だったので、それらの有名人たちとも、とりわけ親交がなかったのダ。
一時、「テレビ文化」とか「コマーシャル文化」などと過大にチヤホヤされ、「広告作家」とか「コマーシャル・アーチスト」ともてはやされたこともあるが、最近はそんなコトバは耳にしない。
コピーライター業といえば、文字を並べる。文章らしきものを操る……一見「作家業」に見える仕事だ。
いや、現在の「放送作家」と称する人たちの中にも、「作家」という2文字にアコガレている人は少なくないはずだ。
最近、たまたまおつきあいをすることになった広告業界の者の中にも、シャーシャーと「作家」と自称しているのがいる。まるでそれらしい実績も見当たらないのだが、社交の場などでも、まあ、ヌケヌケと「作家」と自称していた。
「作家」そのものが、若い女の子をたぶらかしたり、はたまた「オレオレ詐欺」をやらかすわけではないから、「ま、いいか」なのだが、こちとら、「そのハシクレ」としては何だか、尻がムズムズするようなハズカシさを感じたりするね。
要するにアレは、劣等意識のウラ返しなんだろうねぇ。
●西尾忠久さんの肩書きは「コピーライター・作家」
西尾さんといえばやはり「フォルクスワーゲンの広告キャンペーン」(1963年/美術出版社)を起点とする広告ビジネスとそのクリエイティブなどに関する膨大な著作物が記録としてある。
かく申す本庄慧一郎も、演劇(舞台脚本演出など)を志望していたが、昭和40(1965)年からざっと20年間は、本名望田市郎名で広告(CF)ビジネスに入れ込んだ。
あえて書くのもナンだが、国の内外の受賞作は150ほどになる。(個人としての仕事がほとんどだ)一時、オフィスを法人化し、制作などに着手したが、経営については(いろいろ正当な理由はあるが)しょせんは「もう一つ」で結局はフリーに戻った。
そして、あたりまえのように「原点」である作家業に回帰した。
当時は「宣伝会議」や「ブレーン」にあれこれの原稿を書き、業界関係者の座談会に出席をし、司会もこなした。
西尾忠久さんの著作物のタイトルをあらためてチェックすると、広告関係もさることながら「世界の名品」とか「西洋占星術」「香水」「世界の名店さんぽ」「グルメ」……などなど実に多種多様である。
しかし、1996年代に入って、以後、終生こだわった「鬼平」のホンが登場してくる。そのタイトルに「鬼平犯科帳を助太刃いたす」(KKベストセラーズ)などがある。
このことを知って、ぜひ「あの西尾さんにコンタクトを――」と思ったのだが、つい、雑用にかまけて無沙汰のままに時が過ぎた。
***
小生の物書き業の師は、劇作家三好十郎(1902年〜1958年)である。代表作「ゴッホ小伝/炎の人」であり、「浮標・ブイ」であり、「斬られの仙太」であり、「おりき」であり、そして……全作品である。
劇作家・三好十郎氏(箱根仙石原にて/当時 本名望田市郎撮る)
同時に、この三好十郎氏と親しかった叔父の劇作家小沢不二夫(1912年〜1966年/ムーランルージュ新宿座出身)にも「特訓」を受けた。
この小沢不二夫は、テレビドラマ&映画「鬼平犯科帳」のゼネラルプロデューサーだった市川久夫氏と大の仲良しだった。
「不二ちゃん」「凡さん」(凡は市川久夫さんの俳名だった)と呼び合っていた。
そしてかく申す小生は、市川久夫氏とは「江戸を歩く会」のメンバーとしてごく親しく、散策や酒席をご一緒した。
さらに、その小沢不二夫が、辰巳柳太郎、島田正吾、そして若き日の緒形拳の出身母体である劇団新国劇に舞台脚本を書いたこともあって、たびたび新国劇の舞台を観ていたし、辰巳柳太郎氏の楽屋にも(小沢不二夫の助手として)おじゃました。若き日の緒形拳さんが付き人として働いていた。
この新国劇で池波正太郎氏は「脚本・演出」の座付き作者だった。
また、小沢不二夫とは現役劇作家の会「鬼の会」のメンバーであの「池波正太郎先生」は小生の身近にいらっしゃった。
小沢不二夫主宰の「むさしの演劇ゼミナール」に贈られた商業演劇で活躍する
ベテラン劇作家の連名額。
ベテラン劇作家の連名額。
そう……もし、西尾忠久氏が晩年、あのように「鬼平」にこだわるらなら、ぜひあれこれの話をする機会を早く作ればよかったと、とことん後悔している。
かく申す本庄慧一郎は、池波正太郎氏に絶大な信頼を得ていた市川久夫氏に「そのうち、本庄慧一郎作品も映像化しようね」とおっしゃって頂いていたのだし。
その後、小沢不二夫作「石狩の空の下で」では、それまで通行人や端役ばかりだった緒形拳は初めて役らしい役を演じて、実質的舞台デビューを果たした。
***
市川久夫氏から本庄慧一郎に贈られた書籍
市川久夫氏の交遊録
市川久夫氏・監修
本庄慧一郎が頂いた市川久夫氏の葉書
↓
↓
↓
左:市川久夫氏 真ん中:作家・二階堂玲太氏 右:本庄慧一郎