●小沢昭一さんとの出会いは「サザエさん」
マンガ「サザエさん」(長谷川町子著)は周知のケッ作です。
この原作は、テレビ、映画、アニメ、舞台と、そして多様なスタッフ・キャストで多くの人々にアピールしてきました。
しかし、もうひとつ、ラジオドラマ化されたこともありました。
ニッポン放送をキィ局(スポンサーはたしか「森永製菓・森永乳業」)に全国ネット放送で、月〜土の朝8時から15分間のオビ番組でした。
なんと10年間余りのロングラン(1955年1月4日〜1965年4月)でした。
原作長谷川町子/脚色小沢不二夫。お父さん・東野英次郎、お母さん・三戸部スエ、サザエさん・市川寿美礼――そして若き日の岸田今日子、小山田宗徳、さらに野中マリ、楠侑子、etc。なにしろ1週6本の1話完結のハナシですから、登場人物は多様で、出演者も多彩、それはそれはニギヤカでした。
なにしろ、磯野家のあるじ波平役が俳優座の御大東野英治郎ですから、マンガのラジオドラマ化とはいえ、録音現場(有楽町ニッポン放送第1スタジオ)は、毎回、ちゃんとマジメでした。
東野英治郎氏と小沢昭一青年(中央の2人)**
脚本担当の劇作家小沢不二夫が叔父でしたので、小生は「内弟子」として助手になり、多忙をきわめる小沢不二夫の代作(ニッポン放送スタッタも認知)を命じられました。
初めは、週6本のうちの1本、「まぁ、いいだろう」となって、週2本、週3本……と書かせてもらうことになりました。(これが実習訓練でした)
サザエさん一家のレギュラーの他に、当然さまざまな人物(例――町のチンピラ、押し売りの男、ヘンなおばあさんなど)が入れ替わり登場しますが、そのイレギュラー役をあれこれ実に巧みに演じていたのが、青年小沢昭一さんでした。
俳優座養成所第2期生――手元の資料によれば同期には高橋昌也、滝田裕介、宮崎恭子(後に仲代達矢夫人)、井上昭文。中退組には佐藤英夫、菅原謙次など。3期生には、小山田宗徳、安井昌二、愛川欽也、穂積隆信、小松原庸子(スペイン舞踊)の名がある。
何にしてもこの養成所は、後の演劇、映画、テレビなどで活躍する人材が揃っていた。
●チョイ役専門の小沢昭一さんにレギュラー役を。
ラジオドラマ「サザエさん」の録音スタジオで、毎回「チョイ役」の小沢昭一さんは、東野御大から「ショーイチ!」「ショーイチ!」と呼ばれて、実に小マメに身の回りの雑事を引き受けていたのです。
ある日、師である小沢不二夫に「あの小沢昭一に、毎日出られる役を作ってやっておくれ」と小生は命じられます。それで、小沢不二夫宅(当時)のあった西武池袋線石神井公園駅スグの踏み切り際に新規開店した「喜久屋酒店」がありました。その若いご主人が小沢家に来るのをヒントに、「ちわァ! きくやです。サザエさん、ご用はありませんかァ〜」と、小沢昭一さんに「酒屋きくや」役を設定。毎日のように「チョロっとでも」出演するホンを書いたのです。
この小沢昭一さんの「酒屋のきくやさん」が好評で、本庄一郎名で放送作家デビューした小生は「昭ちゃんの、ちわァ〜毎度ありィ」という番組を別に持たしてもらいました。
同時に穂積隆信さん、城所英夫さん、北里深雪さん他、俳優座養成所出身の多くの皆さんとあれこれ仕事をしましたねぇ。
●その頃から小沢昭一さんは売れっこになった。
当時のことを小沢さんはこのように書いています。
そのなかでも「サザエさん」とか「パパ行ってらっしゃい」とか、長寿番組にも出さしてもらって、生活は早くから長期安定いたしました。
ですから幸いなことに、私には、いわゆる下積み時代というものはありません。養成所を出てからは、スターさんのようにどっと大売れということもありませんが、チョロチョロ絶え間なくラジオで稼がせてもらっているわけです。まさにラジオ大明神、柏手(かしわで)パンパンでありますョ。(略)』
ところで、小生は現在もその石神井にこだわって住み着いているのですが、モデルになった「喜久屋酒店」は西武線を越えて商店街に移転。現在はボート池への通りに面して在り、健在であります。小生の「1万歩ウオーク」の道すがら、その店の前を通ると必ず「小沢昭一さんのきくやさん」を思い出すのです。
その後、小沢昭一さんには、新刊のご著書(さらにン10枚ものCDなども)をご恵贈頂いてきました。
そして、拙著をお送りすると、そのつどていねいなお礼のお手紙やおハガキを頂きました。
さらに、拙著のオビに推薦のことばを頂いたりしました。(本庄慧一郎著の「幻のB級!大都映画がゆく 」2009年 集英社新書刊)
そういえば、「したまちコメディ映画祭in台東」第1回「コメディ栄誉賞」受賞の際、小沢昭一主演の日活映画「"エロ事師たち"より 人類学入門 」「大当り百発百中」の上映と小沢さんの講演があったのですが、その楽屋を訪問してご一緒に写真を撮らせて頂きました。
放送作家、そして併行しての広告業(プロデュース、コピーライティング)時代には、民間放送連盟の年間作品コンテストの審査員をたびたび承りました。そして「小沢昭一的こころ10周年記念スペシャル/元祖蒲田行進曲」を1983年度「民間放送連盟賞娯楽部門最優秀賞」に推挙したのでした。
審査員5名。なかにし礼さんもご一緒で「昭ちゃん、おもしろいねぇ」と話したものです。
以前から、東芝EMIの楽曲PRもせっせとやっていて、水原弘、黛ジュンとかザ・フォーク・クルセダーズの「帰ってきたヨッパライ」とか、はたまた「ビートルズの日本上陸キャンペーン」とかに関わっていて、「なかにし礼作詞」の楽曲も「ただいまヒット中!」のCM作りを通じて大いに販促に貢献していたのです。
「元祖蒲田行進曲」(構成神津友好)の受賞パーティが、TBSのパーラーで開催されて、小生もラジオ局のディレクター諸氏とその会場に立ち寄りました。するとあのパワフルな小沢昭一節が会場に聞こえていました。
「本日は、この会場に私のイノチノオンジンというべきお方がおいでです」の昭ちゃんの声があり、同時にスポットライトがパーティ会場を右往左往しました。
「その方には、同じラジオ局でも有楽町にあるラジオ局で、なんとかアパート代が払えるような生活費を稼がせてもらったコトがありました」とさらにメリハリが強化されて、何とライトが小生を捉えたのでした。
それにしても「命の恩人なんて……」とオロオロしながら「おめでとう!」と言った記憶があります。
拙著「新宿今昔ものがたり/文化と芸能の三百年

昭和60(1985)年頃、諸般の事情があって、新宿厚生年金会館の近くで貸スタジオを経営していたことがあります。
当時、小沢昭一さんは、あのロングランを記録した「唐来参和」(井上ひさし作)に入れ込んでいて、(再演に備えての稽古で)スタジオに仮セットを持ち込んで詰めっきりで研さんに努めていた。
折をみて、そのスタジオを訪問してあれこれの話をしたのだが、まるで修行僧のような真摯で一途な小沢さんの「もうひとつの時」は、印象に鮮やかに刻まれています。
あれはいつだったか? 港区のあるホテルで「小沢昭一のトークショー」が開催されました。たしか、TBSラジオの「小沢昭一の小沢昭一的こころ」の番組スタッフともどもご招待されて出かけたハズ。
ステージには、テーブルと卓上マイクがあり、小沢さんが登場して語り始めた。
寄席の高座の噺家さんは、イントロの「まくら」の語り出しを大切にするが、その日の小沢さんも、あえて声をおさえて喋り始めた――と、いきなりホテルの女性スタッフがステージを足早に横切ってきれ、テーブルの上の卓上マイクをズ、ズ、ズと小沢さんの顔前に押しやったのだ。
つまり、気を利かしてマイクONにした――ということ。
「まったく、余計なことをしやがって!」公演後、小沢さんは、シブイ顔をしていました。
昭ちゃんの「出たとこ勝負」とか、「行きあたりバッタリ」とかの常套句は、すべて綿密でこまやかな配慮に裏打ちされているというコトなのですね。
新劇――俳優座養成所に学び、ブレヒトなども演じながら、どっぷり庶民・大衆のフィールドで大活躍した小沢昭一さんという人の才能……というよりお人柄そのものに、半世紀あまり親しくさせてもらってきました。
このところ大滝秀治さん、森光子さん、中村勘三郎さん。そして小沢昭一さんの訃報が続いた。思いはいっぱいあれこれありますし、書きたいことも山ほどありますが、また時をあらためて――。
浅草好きだった小沢昭一さんの著書「ぼくの浅草案内」には、
そういえば、中村勘三郎さんの中村家のお墓も浅草――三ノ輪寄りにあります。
年明け早々にお二方の墓参をと考えています。
とりわけ親しみを感じていた4人の皆さんのご冥福をあらためてお祈りしております。
おい下駄を出しておくれよ春の風 変哲
2013年の新しい春の風を待たずに永い旅に出た変哲(小沢昭一)さんへ――心をこめて。
Rest In Peace. See you again.
本庄慧一郎
最近の東京新聞には、小沢昭一著の「小沢昭一のこの道 思えばいとしや出たとこ勝負」と小生の「新宿今昔ものがたり/文化と芸能の三百年」(いずれも東京新聞出版部刊)の広告が前後して掲載されている。これも得難いご縁だと思っています。