失言・暴言・妄言……
テレビの愚にもつかないおしゃべり――使い捨てことばがコンクされたような番組と、無神経に挿入されるCMの、これまた騒々しいことといったらない。
なにしろ、押しつけがましく悪趣味な各社・各メーカーのCMが視聴者の〔共感〕などおいてけぼりにして暴走する。そして、番組のシークエンス〔流れ〕をひたすら強引に寸断する。
テレビの番組(民放)のほとんどは、品性とか品位を喪失した。いや、かなぐり捨てた。
もうひとつ、番組のタイム(放送時間枠)に対するCMタイムにも規定があったはずだが、現行はそれも無視されているようだ。
個々の番組内容のねつ造問題もうんざりだが、民間放送としての番組全体の〔品質管理〕のタガが完全にはずれている。
関西テレビ、フジテレビの問題だけではない。
すでに「放送法の改正」という重大な問題が発生している。
かつて「放送番組のスタンダード」と目されていたNHKの動きもアタマから信用できない。
あいかわらず現在もNHK関係者によるいくつものスキャンダルも続発している。根腐れを起こしている樹は、いずれにしても枯渇する。
その点では、強引といわれる菅総務相の「自浄能力がない」という意見は当たっているが――。
自浄能力の欠落しているのは、テレビというメディアだけではない。菅総務相も属する政治の中枢にある者たち、あるいは地方行政府の責任者たちの失言・暴言・虚言・妄言……などなど、とてもまともな者の言葉とは思えない文言が跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)している。
こういう現象を「世も末だ」という。噫々!
作家城山三郎氏の言葉
この春、いくつかの訃報に接した。
作家城山三郎氏は、後追いの物書きとして畏敬する方であった。
政治小説・経済小説、あるいは企業小説といった分野で意欲作・話題作を発表した先達である。
その城山氏は、ご自身の戦争体験から得た哲学をひとすじに貫き通した方であった。
現在の失言・暴言・虚言・妄言のハンランする社会に、あらためて城山三郎氏の言葉をここに記したい。
「旗」 城山三郎
旗振るな
旗振らすな
旗伏せよ
旗たため
社旗も 校旗も
国旗なる旗も
運動という名の旗も
ひとみなひとり
ひとりはひとつの命
(中略)
生きるには
旗要らず
旗振るな
旗振らすな
旗伏せよ
旗たため
限り命のために
P.S
新都立養護学校の普通教室の正面に、常時、国旗のプレートを掲示することになったという。(07年4月5日東京新聞)
時代錯誤、時代逆行の危険潮流が堂々と罷り通る。
国旗掲揚、国家斉唱を強要する亡霊たちの妄言を断固として打ち消せ。
「社会&芸能・つれづれ愚差」第1回(通算111回)
2007/3/30
植木等・いかりや長介・渥美清さん……
「無責任」をモチーフに大いにアピールした植木等が逝った。
そのお人柄と気質については、テレビや新聞などでくり返し伝えられた。
彼がまじめで律儀だったことが異口同音に語られていた。
そういえば、同じフィールドで負けじ劣らじの足跡を遺したいかりや長介もまた、その実像はひたすらまじめで律儀だったと伝えられた。
もう一人渥美清を思い出す。
映画の人気シリーズ「寅さん」のフーテンぶりとはうらはらにその実生活はひたすら地味でまじめだった。
いや、コメディとかアチャラカとかお笑いといった芸で売った人の中には、その表向きのカオとまるで真反対の〔実像〕を貫き通した人が多いようだ。
ぼくは芸能界や放送界、そして広告界などにかかわって仕事をしてきてざっと50年になるが、確かに〔虚〕をまとった人間もワンサといた。
けれど、みずからが企画し、具体化する仕事では不快な虚飾・虚勢人種を起用するわけがないから、どうにもこうにも「いやだなあ」という体験は意外と少ない。
ましてや、ゴルフとかマージャンとか酒などのプライベートのつき合いは一切しないので、〔バケの皮がはがれての実体〕に遭遇した経験もあまりない。
とはいえ、軽石のようなカスカス頭の人間、どん亀のような穴ぼこ人間とかかわったことは皆無というわけではない。
そんな時は、ひたすら逃げをうつばかりだ。
そうですねぇ。故人では東八郎、由利徹なんて人たちのお人柄は満点でした。
そしてちょっと趣きの異なる方々となれば、先代の松本幸四郎丈。そしてナレーターの城達也……文句なしのお人柄だった。
現役の方々では――
このHPでもたびたび書かして頂いている芸能界三人の諸先輩、桂小金治・熊倉一雄・小沢昭一(順不同)の皆さんの、そうです、不変のクオリティはいぶし銀の奥床しい輝きを放っています。
そのお人柄の芯にあるものはまぎれもない「まじめと律儀」です。
それにつけても――
現在の政治・社会の……と書いて来て、どっちを向いても「まじめで律儀」なんて人間とは真反対の権力亡者・嘘つき妄徒・詭弁野郎・偽証の輩、ハレンチ人種・欲かきおバケ・殺人暴徒……などなどの跳りょうにいまさらのように呆然・唖然とするばかり。
この稀有な狂的なクライシスを引き起こした責任のすべては、やはり、長期に居座ってきた自民党政権にあると断言してはばからない!
植木等の「ハイ!それまでよ〜」の歌声が(哀しく)耳によみがえるなあ。
P・S
もう一人、「まじめと律儀」といえば、やっぱり(じかにお目にかかった人でいえば)高倉健ですねぇ。つまり、男の魅力って、トシなんて関係ないのデス。
「無責任」をモチーフに大いにアピールした植木等が逝った。
そのお人柄と気質については、テレビや新聞などでくり返し伝えられた。
彼がまじめで律儀だったことが異口同音に語られていた。
そういえば、同じフィールドで負けじ劣らじの足跡を遺したいかりや長介もまた、その実像はひたすらまじめで律儀だったと伝えられた。
もう一人渥美清を思い出す。
映画の人気シリーズ「寅さん」のフーテンぶりとはうらはらにその実生活はひたすら地味でまじめだった。
いや、コメディとかアチャラカとかお笑いといった芸で売った人の中には、その表向きのカオとまるで真反対の〔実像〕を貫き通した人が多いようだ。
ぼくは芸能界や放送界、そして広告界などにかかわって仕事をしてきてざっと50年になるが、確かに〔虚〕をまとった人間もワンサといた。
けれど、みずからが企画し、具体化する仕事では不快な虚飾・虚勢人種を起用するわけがないから、どうにもこうにも「いやだなあ」という体験は意外と少ない。
ましてや、ゴルフとかマージャンとか酒などのプライベートのつき合いは一切しないので、〔バケの皮がはがれての実体〕に遭遇した経験もあまりない。
とはいえ、軽石のようなカスカス頭の人間、どん亀のような穴ぼこ人間とかかわったことは皆無というわけではない。
そんな時は、ひたすら逃げをうつばかりだ。
そうですねぇ。故人では東八郎、由利徹なんて人たちのお人柄は満点でした。
そしてちょっと趣きの異なる方々となれば、先代の松本幸四郎丈。そしてナレーターの城達也……文句なしのお人柄だった。
現役の方々では――
このHPでもたびたび書かして頂いている芸能界三人の諸先輩、桂小金治・熊倉一雄・小沢昭一(順不同)の皆さんの、そうです、不変のクオリティはいぶし銀の奥床しい輝きを放っています。
そのお人柄の芯にあるものはまぎれもない「まじめと律儀」です。
それにつけても――
現在の政治・社会の……と書いて来て、どっちを向いても「まじめで律儀」なんて人間とは真反対の権力亡者・嘘つき妄徒・詭弁野郎・偽証の輩、ハレンチ人種・欲かきおバケ・殺人暴徒……などなどの跳りょうにいまさらのように呆然・唖然とするばかり。
この稀有な狂的なクライシスを引き起こした責任のすべては、やはり、長期に居座ってきた自民党政権にあると断言してはばからない!
植木等の「ハイ!それまでよ〜」の歌声が(哀しく)耳によみがえるなあ。
P・S
もう一人、「まじめと律儀」といえば、やっぱり(じかにお目にかかった人でいえば)高倉健ですねぇ。つまり、男の魅力って、トシなんて関係ないのデス。
— posted by 本庄慧一郎 at 05:12 pm
「ニッポンの芸能人」シリーズ100
2007/3/23
「桂小金治独演会」のこと
07年3月21日(水)春分の日。
「異才!麻生芳伸さんをしのぶ会・一周〔季〕記念イベント/桂小金治独演会」が、中野区沼袋の山田屋さんの大広間で開催された。
麻生芳伸さんは芸能プロデューサーとして、津軽三味線の高橋竹山さんを東京に紹介(コンサートをプロデュース)し、現在の津軽三味線のブームのきっかけを作った人だ。
そして芸能プロデューサーとしては、落語の林正蔵(先代)、古今亭志ん生、同じく馬生、そして志ん朝さんのご一家と親しみ、ちくま文庫の「落語百選全6冊」の編著はロングセラーとして売れている。
ぼくは麻生さんとは数年前に出会い、おつきあいの歳月はさして長くはないが、そのわりにはヒンパンにお会いしていた。
ある時、ぼくが「いま、講演などで引っ張りだこの桂小金治さんをなんとか高座に戻ってほしいとアピールしている……」と話したところ、麻生さんは「ぜひ、小金治さんの独演会を実現したい」とたちまち目を輝かせて意気込まれた。
05年11月22日に横浜のにぎわい座に小金治さんが出演するというので(団体の貸し切りだったが、麻生さん、ぼく、そしてワイフの三人で)入場させてもらった。
同じ年の7月〜8月に、ぼくはギラン・バレー症候群亜型ミラー・フィッシャー症候群というややこしい大病をして、治療・リハビリで4ヶ月は――と診断されていたが、主治医に「自主リハビリ」の嘆願書を提出、許可をもらって退院した。しかし、歩行もままならない状態だった。
が、にぎわい座にはワイフのサポートで強引に出かけた。
実はその直前、麻生さんの要請で、退院後初の外出(電車に乗るとか)をしていた。
「ぜひ、一日も早く、中野沼袋の山田屋の西村重博さんに紹介したい」ということで、「退院後、初外出」をしたのである。
そんなヨチヨチ歩きのぼくは、にぎわい座のその日、偉丈夫の麻生さんの足運びにまるでパワーがないことを見て取ったのだ。
大病直後の亭主をサポートしているワイフはゆっくりと歩を運ぶ麻生さんから「この3ヶ月、食欲がなくて10キロほどやせた」という言葉を訊き出し「病院にいらっしゃった方が……」と勧めている。
病院嫌いを自称していた麻生さんは、それでも親しい友人の皆さんに相談して阿佐谷川北病院へ出向いた。その折の診断書と検査スケジュール表をFAXで送ってきて「なあに、医者はすぐオーバーなことを言う」と元気そうに電話口で語ったが。
それから1ヶ月と9日後の05年12月31日に急逝した。享年67歳。
06年3月19日の中野サンプラザのでの「しのぶ会」開催
親しい友人・お仲間が「しのぶ会」を開催。130余名の参集でぼくは献杯のごあいさつを承った。
ぼくの時代小説の初期の短篇に「まさかの坂」がある。
人生は上り坂・下り坂、そして「まさか」という坂もあって……という江戸人情物である。
麻生さんの急逝は、「まさか」であった。
そのしのぶ会をきっかけに有志の皆さんが「桂小金治独演会」を具体化しようということになり、いったんはあきらめていたぼくもお手伝いをすることになった。
そして、木村聖哉・青木英明・田島正夫・志田盛弘さんを中心として作業は進められる。
当日は70〜80名というお客を予定していたが、前回のしのぶ会の皆さんだけでたちまち満員ということになり、ぼくのお客さんにご案内することも出来ずのありがたい現象になった。
しかし――。
この企画に積極的だった山田屋さんの西村重博さんはこの3月2日に急逝されたのである。
前日の3月1日(木)に「能管春の集い」があり、ぼくは3月1日の午前9時電話で「席ありますか」と西村社長と話している。
「弥生3月の1日、いちばんのお電話が本庄さんからのもの。うれしいことです」といういかにも江戸の商人(あきんど)さんらしいごあいさつだった。
その方が翌日、お亡くなりになったのである。
能管の力強く主張する音色も印象に鮮やかだったが、西村社長の彼岸への旅立ちもまた強烈な印象を遺した。
ここでも「まさか」と呟やかずにはいられなかった。
桂小金治さんの熱演・満員・大好評!
ぎゅう詰めの大広間での開催のごあいさつを承った。
小金治さんは講演のハードスケジュールのせいか、はたまた気候不順のせいか、空気の汚れのせいか、のどを痛めていた。
でも、なんとか随談「親父の背中」と題して約1時間の(木の葉を鳴らしての演奏もあって)ホットなトークでかっさいをあびた。
そして翁家喜楽さんの太神楽(曲芸)がこれまた大好評。
トリは小金治さんの「禁酒番屋」で爆笑のウズ。
声の不調をおしての熱演は文句なしの名演となった。
第2部「しのぶ会」も満員で――
山田屋さんの地下ホールでの第2部も、立錐の余地もないほどの賑わいになった。
西村重博さんにとっては三七日を迎える日が初めての春分の日ということで、ご仏前に、尽力を頂いた「桂小金治独演会」の大成功のご報告のご焼香をさせて頂いた。
奥さまやご家族の皆さんもよろこんで下さった。会が終了して、ぼくはワイフと二人で、居酒屋で呑んだ。麻生さん、西村社長との思い出を語り合った。
思えば、沼袋はかつて(四十数年前)住んでいたことがある。演劇や作家への思いを抱きながら悶々としていた。
さまざまな意味で、忘れられない地でもあるのだ。
今回のイベントにはいくつものえにしの糸が交錯していた。感無量の思いがある。
P.S.
ぼくはいま、時代小説家としてたくさんの注文を頂いている。
文庫書き下ろしという長編もすでに三十数冊。この長編を書くきっかけになったのは日本文芸家クラブの企画で、報知新聞に1ヶ月連載の小説を書いた(都合3チャンスを担当させてもらった)ことだ。その折の報知のご担当は秋保洋征さんだったが、この日、麻生氏の親友、志田盛弘さんが「ぼくの親しい友人――」とご紹介して下さったのが、なんとこの秋保さんであった。えにしというのは不思議なものです!
07年3月21日(水)春分の日。
「異才!麻生芳伸さんをしのぶ会・一周〔季〕記念イベント/桂小金治独演会」が、中野区沼袋の山田屋さんの大広間で開催された。
麻生芳伸さんは芸能プロデューサーとして、津軽三味線の高橋竹山さんを東京に紹介(コンサートをプロデュース)し、現在の津軽三味線のブームのきっかけを作った人だ。
そして芸能プロデューサーとしては、落語の林正蔵(先代)、古今亭志ん生、同じく馬生、そして志ん朝さんのご一家と親しみ、ちくま文庫の「落語百選全6冊」の編著はロングセラーとして売れている。
ぼくは麻生さんとは数年前に出会い、おつきあいの歳月はさして長くはないが、そのわりにはヒンパンにお会いしていた。
ある時、ぼくが「いま、講演などで引っ張りだこの桂小金治さんをなんとか高座に戻ってほしいとアピールしている……」と話したところ、麻生さんは「ぜひ、小金治さんの独演会を実現したい」とたちまち目を輝かせて意気込まれた。
05年11月22日に横浜のにぎわい座に小金治さんが出演するというので(団体の貸し切りだったが、麻生さん、ぼく、そしてワイフの三人で)入場させてもらった。
同じ年の7月〜8月に、ぼくはギラン・バレー症候群亜型ミラー・フィッシャー症候群というややこしい大病をして、治療・リハビリで4ヶ月は――と診断されていたが、主治医に「自主リハビリ」の嘆願書を提出、許可をもらって退院した。しかし、歩行もままならない状態だった。
が、にぎわい座にはワイフのサポートで強引に出かけた。
実はその直前、麻生さんの要請で、退院後初の外出(電車に乗るとか)をしていた。
「ぜひ、一日も早く、中野沼袋の山田屋の西村重博さんに紹介したい」ということで、「退院後、初外出」をしたのである。
そんなヨチヨチ歩きのぼくは、にぎわい座のその日、偉丈夫の麻生さんの足運びにまるでパワーがないことを見て取ったのだ。
大病直後の亭主をサポートしているワイフはゆっくりと歩を運ぶ麻生さんから「この3ヶ月、食欲がなくて10キロほどやせた」という言葉を訊き出し「病院にいらっしゃった方が……」と勧めている。
病院嫌いを自称していた麻生さんは、それでも親しい友人の皆さんに相談して阿佐谷川北病院へ出向いた。その折の診断書と検査スケジュール表をFAXで送ってきて「なあに、医者はすぐオーバーなことを言う」と元気そうに電話口で語ったが。
それから1ヶ月と9日後の05年12月31日に急逝した。享年67歳。
06年3月19日の中野サンプラザのでの「しのぶ会」開催
親しい友人・お仲間が「しのぶ会」を開催。130余名の参集でぼくは献杯のごあいさつを承った。
ぼくの時代小説の初期の短篇に「まさかの坂」がある。
人生は上り坂・下り坂、そして「まさか」という坂もあって……という江戸人情物である。
麻生さんの急逝は、「まさか」であった。
そのしのぶ会をきっかけに有志の皆さんが「桂小金治独演会」を具体化しようということになり、いったんはあきらめていたぼくもお手伝いをすることになった。
そして、木村聖哉・青木英明・田島正夫・志田盛弘さんを中心として作業は進められる。
当日は70〜80名というお客を予定していたが、前回のしのぶ会の皆さんだけでたちまち満員ということになり、ぼくのお客さんにご案内することも出来ずのありがたい現象になった。
しかし――。
この企画に積極的だった山田屋さんの西村重博さんはこの3月2日に急逝されたのである。
前日の3月1日(木)に「能管春の集い」があり、ぼくは3月1日の午前9時電話で「席ありますか」と西村社長と話している。
「弥生3月の1日、いちばんのお電話が本庄さんからのもの。うれしいことです」といういかにも江戸の商人(あきんど)さんらしいごあいさつだった。
その方が翌日、お亡くなりになったのである。
能管の力強く主張する音色も印象に鮮やかだったが、西村社長の彼岸への旅立ちもまた強烈な印象を遺した。
ここでも「まさか」と呟やかずにはいられなかった。
桂小金治さんの熱演・満員・大好評!
ぎゅう詰めの大広間での開催のごあいさつを承った。
小金治さんは講演のハードスケジュールのせいか、はたまた気候不順のせいか、空気の汚れのせいか、のどを痛めていた。
でも、なんとか随談「親父の背中」と題して約1時間の(木の葉を鳴らしての演奏もあって)ホットなトークでかっさいをあびた。
そして翁家喜楽さんの太神楽(曲芸)がこれまた大好評。
トリは小金治さんの「禁酒番屋」で爆笑のウズ。
声の不調をおしての熱演は文句なしの名演となった。
第2部「しのぶ会」も満員で――
山田屋さんの地下ホールでの第2部も、立錐の余地もないほどの賑わいになった。
西村重博さんにとっては三七日を迎える日が初めての春分の日ということで、ご仏前に、尽力を頂いた「桂小金治独演会」の大成功のご報告のご焼香をさせて頂いた。
奥さまやご家族の皆さんもよろこんで下さった。会が終了して、ぼくはワイフと二人で、居酒屋で呑んだ。麻生さん、西村社長との思い出を語り合った。
思えば、沼袋はかつて(四十数年前)住んでいたことがある。演劇や作家への思いを抱きながら悶々としていた。
さまざまな意味で、忘れられない地でもあるのだ。
今回のイベントにはいくつものえにしの糸が交錯していた。感無量の思いがある。
P.S.
ぼくはいま、時代小説家としてたくさんの注文を頂いている。
文庫書き下ろしという長編もすでに三十数冊。この長編を書くきっかけになったのは日本文芸家クラブの企画で、報知新聞に1ヶ月連載の小説を書いた(都合3チャンスを担当させてもらった)ことだ。その折の報知のご担当は秋保洋征さんだったが、この日、麻生氏の親友、志田盛弘さんが「ぼくの親しい友人――」とご紹介して下さったのが、なんとこの秋保さんであった。えにしというのは不思議なものです!
— posted by 本庄慧一郎 at 05:36 pm
「ニッポンの芸能人」シリーズ99
2007/3/16
だれに出会うか。どういう人と出会えるか
「一期一会」というという言葉は、茶人千利休の高弟、山上宗二の著した書物の中にあるとか。意味は「生涯にただ一度まみえること」である。
人間の生涯は例外なく一回こっきりだから、すべての出会いは正に「一期一会」なのだ。
人間が生きてゆくうえには、とりとめのない雑事や煩悩につきまとわるのが常だが、昨今、そこに自ら分不相応の欲を加えて自滅してゆく者が多い。
やはり、やたら〔忙しがっている〕現代人たる者、もう一度「一期一会」なる四文字についてじっくり考えてみる必要がある。
阿原成光著「お祭り・英語楽習入門/いじめは授業でなくす」(三友社出版)を、著者阿原先生からご恵贈いただいた。
阿原成光先生は、小生の二女である麻子が石神井中の時にお世話になった方である。(長女も長男も同校卒である)
先生は英語を担当なさるかたわら「演劇部」の指導をなさっていた。
その当時のいきさつは、麻子本人からよく聞かされていて、麻子にとっては学校の授業や、さらに好きな「演劇」を通しての体験がきわめて快いものであることは知っていた。
その当時のことを、先生はこのご著書の中で書いて下さっている。
146頁「学習を生きるはげみにしていけよ」の項である。
すでに20年余の歳月が流れている。娘麻子はその間、女優を志して故人になられた由利徹さんに可愛いがられて、新宿コマ劇場の舞台に立ったり、また某劇団の旅興行に付き人として同行したりと、演劇という特殊なフィールドで親の知らない辛苦の体験をしたようだ。
現在はフツーの主婦といった生活をしている。
親馬鹿と言われるのを百も承知で申しあげるが、そろそろ四十路にさしかかるはずのこの娘は、いつもあっけらかんと朗らか(に見えて)でのべつぼくの仕事場に現れて肩をもんでくれる親孝行な子である。
そして、折にふれて、中学での演劇体験と阿原先生のことを口にする。
彼女の思いの中に「阿原成光先生」がずっといらっしゃるのである。
ぼくは「学校教育の最大のポイントは、どんな先生と出会えるか」であると信じてやまない。
その点、娘麻子にとっての「こころの財産の一つは阿原先生との出会い」であることはまちがいのないところだ。
阿原先生の教科「整理と対策」
阿原先生のご著書の文中に麻子が先生にさしあげた手紙文が引用されている。いわく「(略)なんのとりえもなかった私にとって、これは大きな自信につながりました。そしてあらためて阿原先生と『整理と対策』に感謝しました(後略)」とある。
阿原先生が文中でもご紹介して下さっているとおり、麻子の父親であるぼくは、放送作家・コピーライターを経て、現在時代物(エンターテインメント)の小説をせっせと書いている。そして、ワイフもまた演劇(舞台)をめざしたこともある者ということもあり、ぼくは昨年、念願の舞台の脚本を書いた。(06年11月22日〜12月6日劇団テアトル・エコー公演――おかげさまで好評だった)
そんな来し方をふり返るにつけ、ぼく自身は、劇作家だった叔父・故小沢不二夫(戦前の新宿ムーランルージュ出身)とその叔父と親しくして下さっていた劇作家故三好十郎氏を師と仰いで勉強に励んだ。
戦争と敗戦という大パニックの中でついに学校という場にじっくり腰を落ち着ける時間のなかった(不幸な!)ぼくは、二人の師のおかげで「日本語による文筆業」を生業として生きてきた。
さらに昨今、文筆業として親しくかかわる人たちの中に「ぜひ、この人と深くおつきあいしたい」と思える方が何人もいらっしゃって、しみじみありがたいと思っている次第だ。
小説の大先達、吉川英治氏の著書「親鸞」の一節――「その無窮にして無限の時の流れから見ると、人の一生は雷光のような一瞬……」とある。
阿原先生のご著書を拝読して、やはり「人の一生の大事は、だれと出会うか。どういう人と出会えたか」をあらためて痛感した。
追伸 それぞれの一回こっきりの人生にとっても「整理と対策」は必要ですよね、 阿原先生?
「一期一会」というという言葉は、茶人千利休の高弟、山上宗二の著した書物の中にあるとか。意味は「生涯にただ一度まみえること」である。
人間の生涯は例外なく一回こっきりだから、すべての出会いは正に「一期一会」なのだ。
人間が生きてゆくうえには、とりとめのない雑事や煩悩につきまとわるのが常だが、昨今、そこに自ら分不相応の欲を加えて自滅してゆく者が多い。
やはり、やたら〔忙しがっている〕現代人たる者、もう一度「一期一会」なる四文字についてじっくり考えてみる必要がある。
阿原成光著「お祭り・英語楽習入門/いじめは授業でなくす」(三友社出版)を、著者阿原先生からご恵贈いただいた。
阿原成光先生は、小生の二女である麻子が石神井中の時にお世話になった方である。(長女も長男も同校卒である)
先生は英語を担当なさるかたわら「演劇部」の指導をなさっていた。
その当時のいきさつは、麻子本人からよく聞かされていて、麻子にとっては学校の授業や、さらに好きな「演劇」を通しての体験がきわめて快いものであることは知っていた。
その当時のことを、先生はこのご著書の中で書いて下さっている。
146頁「学習を生きるはげみにしていけよ」の項である。
すでに20年余の歳月が流れている。娘麻子はその間、女優を志して故人になられた由利徹さんに可愛いがられて、新宿コマ劇場の舞台に立ったり、また某劇団の旅興行に付き人として同行したりと、演劇という特殊なフィールドで親の知らない辛苦の体験をしたようだ。
現在はフツーの主婦といった生活をしている。
親馬鹿と言われるのを百も承知で申しあげるが、そろそろ四十路にさしかかるはずのこの娘は、いつもあっけらかんと朗らか(に見えて)でのべつぼくの仕事場に現れて肩をもんでくれる親孝行な子である。
そして、折にふれて、中学での演劇体験と阿原先生のことを口にする。
彼女の思いの中に「阿原成光先生」がずっといらっしゃるのである。
ぼくは「学校教育の最大のポイントは、どんな先生と出会えるか」であると信じてやまない。
その点、娘麻子にとっての「こころの財産の一つは阿原先生との出会い」であることはまちがいのないところだ。
阿原先生の教科「整理と対策」
阿原先生のご著書の文中に麻子が先生にさしあげた手紙文が引用されている。いわく「(略)なんのとりえもなかった私にとって、これは大きな自信につながりました。そしてあらためて阿原先生と『整理と対策』に感謝しました(後略)」とある。
阿原先生が文中でもご紹介して下さっているとおり、麻子の父親であるぼくは、放送作家・コピーライターを経て、現在時代物(エンターテインメント)の小説をせっせと書いている。そして、ワイフもまた演劇(舞台)をめざしたこともある者ということもあり、ぼくは昨年、念願の舞台の脚本を書いた。(06年11月22日〜12月6日劇団テアトル・エコー公演――おかげさまで好評だった)
そんな来し方をふり返るにつけ、ぼく自身は、劇作家だった叔父・故小沢不二夫(戦前の新宿ムーランルージュ出身)とその叔父と親しくして下さっていた劇作家故三好十郎氏を師と仰いで勉強に励んだ。
戦争と敗戦という大パニックの中でついに学校という場にじっくり腰を落ち着ける時間のなかった(不幸な!)ぼくは、二人の師のおかげで「日本語による文筆業」を生業として生きてきた。
さらに昨今、文筆業として親しくかかわる人たちの中に「ぜひ、この人と深くおつきあいしたい」と思える方が何人もいらっしゃって、しみじみありがたいと思っている次第だ。
小説の大先達、吉川英治氏の著書「親鸞」の一節――「その無窮にして無限の時の流れから見ると、人の一生は雷光のような一瞬……」とある。
阿原先生のご著書を拝読して、やはり「人の一生の大事は、だれと出会うか。どういう人と出会えたか」をあらためて痛感した。
追伸 それぞれの一回こっきりの人生にとっても「整理と対策」は必要ですよね、 阿原先生?
— posted by 本庄慧一郎 at 09:19 am
「ニッポンの芸能人」シリーズ98
2007/3/9
どうにも肚に据えかねるということ
前回の都知事選で、「ボクは石原裕次郎のアニです」とニヤニヤしながら何度も恥ずかしげもなく口走ったイシハラシンタロー氏が嫌いだ。
ついでにゲーノー人の集団〔石原軍団〕なる者たちに選挙の応援をさせたりした氏にうんざりした。
彼シンタロー氏とは同時代を生きて来たぼくだが、人間観・人生観・社会観・政治感をまったく異にしている。とうよりすべての点で相容れない。
ゴーマンで、独断的で、のべつ人をテンから小馬鹿にしたような言動を弄する彼には〔公人〕とか〔公僕〕といった思慮や意識が完全に欠落している。
都知事三選を謀(たくら)む彼は、オリンピック誘致だの、カジノ賭博場を作りたいの、かと思えば三宅島にオートレース場を……などなど現実離れしたスタンドプレーに終始している。
彼の〔都政の私物化〕なる事実はすでに周知のことだが、いまだに鈍感な選挙民たちは怒りもせず、抗議もしない。
映画「武士の一分」は藤沢周平の原作だが、いまこそ「選挙民としての一分」の志をはっきり示すべきだ。
選挙という貴重な権利と義務をないがしろにする者は許せない。
とにかくぼくは、石原慎太郎氏を(選挙で)選んでいない・納得していない・認めていない。
現在の日本の〔民主主義の多数決〕といものは、横暴以外のなにものでもない!
石原慎太郎氏が「江戸っ子」をうんぬんするか?
東京生まれ、東京育ちのぼくは、あの〔大東亜戦争〕という名の誤った、そして愚かしい戦争のさなか、アメリカ軍の爆撃の修羅場で生死の境を右往左往した。
逃げ帰る〔故郷〕をもたない者たちは、敗戦後はさらに過酷な物資不足と食糧不足にさいなまれた。
折しもこの文章をまとめている本日は3月10日。63年前のこの日は東京大空襲の日だ。
本所・深川あたりの無惨極まる爆死体・焼死体、さらに炎に追われて川や運河に追いやられての溺死体などをじかに見ている。
腹を空かした栄養不良のヨレヨレのわっぱが、本所・深川あたりの食糧倉庫が爆破されたというので、焼け米を拾いに行ったのだ。
北区滝野川の家から、交通機関など壊滅していたはずなのに、どうやって本所・深川まで辿り着いたのかまるで記憶にない。
ただ生活力旺盛な友人(小学校6年生)がいて、彼のシリについていったのだ。
やっと手堀りで手にした焼け残り米は、嗅気ふんぷんで食えたものではなかった。
その黒焦げ米も、ほぼ1ヶ月後の4月13日未明の空襲で家もろとも焼けた。
ちっぽけな家の周辺に焼夷弾の残骸の鉄筒が20本(!)ほど突き立っていたのを忘れない。(忘れるもんか!)
今回の都知事選で石原批判を掲げて何人かの候補者が参戦している。
現行の都政を是が非でも変えてたいと思うぼくは、〔まっとうな風〕が吹くことに期待してやまない。
その舌戦はすでに始まっているが、石原氏が対立候補に対して、「江戸っ子向き、東京っ子向きではない」などと勝手なことをほざいている。
そういうおのれの言動や思考の質をどう思っているのかね?
いませっせと時代物(江戸時代の市井の人々を主人公にした物語)を書いている者としては、江戸っ子気質とは、いわゆる「巧言令色」(口先だけで、まるで志のないこと)的人間とは真反対の気質と設定している。
少々、軽率でお先っ走りではあるものの、嘘や不正や得手勝手は大嫌いということだ。
最近「江戸しぐさ」などがもてはやされているその理由は「人間らしい基本の礼節を学び直せ」ということだ。
石原サンに「江戸っ子や東京っ子は」などと言われるのはまっぴらだね。
前回の都知事選で、「ボクは石原裕次郎のアニです」とニヤニヤしながら何度も恥ずかしげもなく口走ったイシハラシンタロー氏が嫌いだ。
ついでにゲーノー人の集団〔石原軍団〕なる者たちに選挙の応援をさせたりした氏にうんざりした。
彼シンタロー氏とは同時代を生きて来たぼくだが、人間観・人生観・社会観・政治感をまったく異にしている。とうよりすべての点で相容れない。
ゴーマンで、独断的で、のべつ人をテンから小馬鹿にしたような言動を弄する彼には〔公人〕とか〔公僕〕といった思慮や意識が完全に欠落している。
都知事三選を謀(たくら)む彼は、オリンピック誘致だの、カジノ賭博場を作りたいの、かと思えば三宅島にオートレース場を……などなど現実離れしたスタンドプレーに終始している。
彼の〔都政の私物化〕なる事実はすでに周知のことだが、いまだに鈍感な選挙民たちは怒りもせず、抗議もしない。
映画「武士の一分」は藤沢周平の原作だが、いまこそ「選挙民としての一分」の志をはっきり示すべきだ。
選挙という貴重な権利と義務をないがしろにする者は許せない。
とにかくぼくは、石原慎太郎氏を(選挙で)選んでいない・納得していない・認めていない。
現在の日本の〔民主主義の多数決〕といものは、横暴以外のなにものでもない!
石原慎太郎氏が「江戸っ子」をうんぬんするか?
東京生まれ、東京育ちのぼくは、あの〔大東亜戦争〕という名の誤った、そして愚かしい戦争のさなか、アメリカ軍の爆撃の修羅場で生死の境を右往左往した。
逃げ帰る〔故郷〕をもたない者たちは、敗戦後はさらに過酷な物資不足と食糧不足にさいなまれた。
折しもこの文章をまとめている本日は3月10日。63年前のこの日は東京大空襲の日だ。
本所・深川あたりの無惨極まる爆死体・焼死体、さらに炎に追われて川や運河に追いやられての溺死体などをじかに見ている。
腹を空かした栄養不良のヨレヨレのわっぱが、本所・深川あたりの食糧倉庫が爆破されたというので、焼け米を拾いに行ったのだ。
北区滝野川の家から、交通機関など壊滅していたはずなのに、どうやって本所・深川まで辿り着いたのかまるで記憶にない。
ただ生活力旺盛な友人(小学校6年生)がいて、彼のシリについていったのだ。
やっと手堀りで手にした焼け残り米は、嗅気ふんぷんで食えたものではなかった。
その黒焦げ米も、ほぼ1ヶ月後の4月13日未明の空襲で家もろとも焼けた。
ちっぽけな家の周辺に焼夷弾の残骸の鉄筒が20本(!)ほど突き立っていたのを忘れない。(忘れるもんか!)
今回の都知事選で石原批判を掲げて何人かの候補者が参戦している。
現行の都政を是が非でも変えてたいと思うぼくは、〔まっとうな風〕が吹くことに期待してやまない。
その舌戦はすでに始まっているが、石原氏が対立候補に対して、「江戸っ子向き、東京っ子向きではない」などと勝手なことをほざいている。
そういうおのれの言動や思考の質をどう思っているのかね?
いませっせと時代物(江戸時代の市井の人々を主人公にした物語)を書いている者としては、江戸っ子気質とは、いわゆる「巧言令色」(口先だけで、まるで志のないこと)的人間とは真反対の気質と設定している。
少々、軽率でお先っ走りではあるものの、嘘や不正や得手勝手は大嫌いということだ。
最近「江戸しぐさ」などがもてはやされているその理由は「人間らしい基本の礼節を学び直せ」ということだ。
石原サンに「江戸っ子や東京っ子は」などと言われるのはまっぴらだね。
— posted by 本庄慧一郎 at 05:11 pm