「ニッポンの芸能人」シリーズ97

「こいつは春から縁起がいいや」とつぶやく
 歌舞伎の春狂言の定番といえば「三人吉三」。
 その登場人物(白浪――盗賊)の三人のうちの一人、お嬢吉三が口にするおなじみのせりふだ。
 ぼくは暖冬といわれるこの2月に何度かつぶやいていた。
 というのも、昨冬の11月22日〜12月6日までテアトル・エコーが上演して くれた「大都映画撮影所物語」についての劇評や推挙が演劇雑誌「悲劇喜劇」3月号の「特集・2006年演劇界の収穫」に掲載されたからだ。
 劇評をして下さり、推挙をして下さった5人の方々とは、これまで一面識もなかった。それだけに「演劇・返り新参者」としては、文字どおり跳び上がるほど嬉しく、不作法ながら、出版元早川書房に各氏の電話番号を訊いて、じかに御礼のごあいさつをさせていただいた。
 以下、「大都映画撮影所物語」に関する部分を転載させていただきます。



「悲劇喜劇」(早川書房)2007年3月号
特集・2006年演劇界の収穫

演劇時評4/岩佐壮四郎(近代文学)・香川良成(演出)
劇 評
高田正吾(編集部)では、12月にご覧いただきました舞台の劇評を始めたいと思いますので、よろしくお願いいたします。
 まず、テアトル・エコーで「大都映画撮影所物語」。本庄慧一郎作、永井寛孝演出、恵比寿のエコー劇場で、熊倉一雄ほかエコーの主要なメンバーが出ています。これは昭和十一年が大体舞台になっていますね。ここの映画はもちろんご覧になっていないと思いますが。
香川 僕は全然。
高田 僕も全然観ていないですけれども。全部サイレント映画だったそうですね。
香川 これは大都映画撮影所という昭和十年代に実際にあった、娯楽映画をつくっていたその撮影所の物語なんですね。
 場面は、撮影所の控室と社長室。そこを行ったり来たりして、最後は社長みずからメガホンを取ってチャンバラ映画の撮影を始める。というところで幕になります。エコー独特な喜劇のフォルムで演じられ、娯楽性の中に当時の社会や人間への風刺を込めて描いており、比較的成功しているんじゃないかと思います。
 そこの控室には「挙国一致! さあ団結だ!」「守れ! 満蒙、帝国の生命線!」なんていう大きなポスターが左右の壁に張られています。
 喧嘩っ早い大部屋の俳優とか、アル中気味の社会派くずれの脚本家や、女優目当ての警官が出入りしてたり、大日本愛国者演芸同盟という狡猾な漫才師コンビが紛れ込んできたり、元大都映画俳優の脱走兵を脚本家がかくまったり。
 彼は人を殺したり殺されたりするのはいやだと言って脱走してくるわけですね。そこに憲兵も来るんですが、憲兵は実は社長の昔の浮気の子供だったというような大衆劇としてのいろいろな要素が盛り込まれています。それから怪傑紫頭巾や鉄仮面も登場させて、大騒動になったりとか、盛り沢山です。
 初め、劇場に入ったら昔の無声のチャンバラ映画を――
岩佐 実写をやってましたね。
香川 場面転換のときもそれをやるもんですから、それと舞台とを結びつけて想像することができて、あれも成功の一因だったんじゃないかと僕は思いました。
岩佐 そうですね。
香川 ひたすら娯楽映画に情熱を注ぐ人々を通して、戦中の状況も批判的に描いているんですね。
 例えば、スターに赤紙が来て壮行会が行われるんですが、そのときは一応ありきたりのあいさつ、「大日本帝国臣民の誇り」云々というようなことをいってるんですけど、飲んだりいろいろしている間に、つい本音が出て「大好きなチャンバラをもっとやりたかったです。がんがん流し目で決めて、見得を切りまくりたかったです」なんて言う。そういうところなど、なかなか心憎いなと思いました。
高田 岩佐さんはいかがでしたか。
岩佐 大都映画というのは粗製濫造ぶりで名をはせたというんですが、もともと社長の河合徳三郎というのは土建屋だったのが、映画が好きで製作に乗りだしたらしい。そういう連中の娯楽映画づくりにかける情熱が肌で伝わってくる。
 さっきの酒浸りの脚本家というのは、新劇運動かなんかから流れてきたんじゃないかと思うんですが、これが、市川千代之介といういい加減な名前の人気スター(笑)をかくまってこれを鉄仮面の主役にしてみたり、憲兵が実は社長の隠し子なんだが、彼のおかげで今度は社長が窮地を救われたり、いかにも安っぽい人情喜劇にみせてつくっているんですけども、細かいところはなかなかしっかりしていて破綻がない。脚本の本庄慧一郎という人は、非常に達者、手練れという感じがします。
香川 テレビドラマを書いたり。
岩佐 手練れといえば、熊倉や沖恂一郎、山下啓助などはいうまでもなく荻窪オット、西荻ドッコイという漫才コンビ(笑)に扮する沢りつおや林かずお、丸山裕子などの練達の演技が、中堅、若手を盛りたてているのも見逃せない。
 立ち回りも、一見珍妙な所作で客席をわかせるんですけども、そうとうな修練の跡を窺わせる。
 また何人もの鉄仮面が憲兵を取り囲んで、ラ・クンパルシータに合わせてタンゴを踊る場面なんかも基礎訓練が行き届いていることを感じさせます。
 演出のテンポも的確で、大都映画はB級映画をつくっていたようですが舞台のほうはドタバタ喜劇といしてはA級の仕上りではないか(笑)と思いました。
香川 そんな一見ばかばかしい映画づくりもできなくなる。いかに戦争中の統制が厳しかったかが伝わってくる。それに対する反抗になるわけですね。逆にそういうドタバタ喜劇を作ることがね。
 例えば、「絹代さんお願いがあります。どうか接吻させていただきたいのです……」その接吻という言葉はいかんというので削ったら、「絹代さん!どうかどうか……サセテ頂きたいのです!」(笑)になってしまうとか、そういうところを随所につくりまして、最後は社長みずからメガホンを取ってチャンバラさせる。僕は点を入れたいですね。
高田 A級ですか。
香川 A級(笑)そんなところです。



 すでに菅井幸雄氏には赤旗紙のコラムで、このうえないおほめをいただいている。その劇評コラムと、畏敬する小沢昭一氏の好意に満ちたお葉書、さらに雑誌「東京人」の創刊者であられ、評論家としてご活躍の粕谷一希氏のドキドキするようなお手紙(このほか友人知の手紙FAXなどいろいろあるが)と、今回の「悲劇喜劇」07年3月号の4点がぼくの貴重なお宝になりました。

 あえて申しあげたい。
 「知的フィールドの堅実な有識者の諸先輩に認めてもらうことは、ただ嬉しいとしか言いようがない。このトシになって「ボクは幸せだなぁ!」と実感を味わえるんなんて……。謝々! 謝々! 謝々!です。

— posted by 本庄慧一郎 at 05:13 pm  

「ニッポンの芸能人」シリーズ96

ぼくは武道館のビートルズを取材した時代小説作家デス
 音楽が好きだ。
 よく冗談半分で言う。「武道館のビートルズ公演を取材した時代小説作家」と。
 たんなる音楽好きというより、音楽とかかわる〔仕事〕をずいぶんやってきた。
 東芝EMI(現在はEMIはない)のラジオ番組の構成ほかでは、ポップス・フォークソングをはじめあらゆるジャンルのサウンドを聴き、DJ風に構成した。
 いまも素敵な演奏を楽しませてくれるクラリネットの北村英治さんとは「文明堂ハニー・サウンド」でずっとご一緒したし、ジャズピアノの故八木正生さんとは、作詞・作曲のコンビで数えきれないほどの楽曲(主にCM)を作った。企画・作詞・制作でかかわった楽曲数は250〜300曲はあるだろう。(時代小説の原稿書きで忙しい毎日だが、この2月には旧友の依頼で昭和6(1931)年創立の大手運輸会社の社歌を作詞した)

コンサート「立原摂子の世界」/六本木スィート・ベイジル
 ぼくの周囲には素敵なミュージシャンが大ぜいいた。いや、現在もいる(!)。
 そのうちのおひとりが立原摂子さんだ。
 昨夜(07’.2.22)、六本木スィート・ベイジルでのコンサートも良かった。
 クラシックをベースにした、作曲・編曲、そしてピアノ演奏というステージには〔品格〕があり、上質のエンターテインメントがある。
 会場がシアター・レストランなので、ぼくはオープニングで「摂子さーん!」と声をかけた。ファンとしては当然のことなのです。
 音楽ヒョーロン家めいたことは言わない。
 とにかく快く楽しめるのが立原摂子ワールドなのだ。
 ぜひ立原さんとは〔いい仕事で〕ご一緒したいと意欲している。

川内康範センセイと森進一クンのこと
 音楽の仕事をしているからいい人だ――というのはとんでもない誤解である。
 デタラメ・いいかげんな人間はどのギョーカイにもいる。
 森進一の「おふくろさん」の歌詞いじりの問題はやはり起こるべくして起こったトラブルだ。
 いまテレビ局の番組制作のネツ造問題でガタガタだが、同時に新聞社がらみの醜聞も多発している。
 たとえば、新聞の社説を担当する論説委員なる者が他社の論説記事から盗用盗作しているとか。
 森進一の「おふくろさん」では、歌手(側)が勝手にバース(前歌)をつける改作していたというのだが、ぼくも「物書き業50年」、しかも「おふくろさん」問題にかかわっていたといわれている故保富庚午氏と同じ構成作家だったのだ。
 モラルの欠落はいま、政治・経済・社会のいずれの分野にも蔓延している。
 まったく手のつけようがないね。

 つくづく思う。
 心のまっとうな人、感性の洗練された人、志が上質な人の創った音楽を享受して、当方の心と、感性を健全に保ちたい――と。


「音楽は天使のスピーチだ」とはうまい表現だ。――カーライル
 でもねぇ。昨今の楽曲の中にはたんなる騒音屋の騒音みたいのが多いぜ。

PS
 本日(2月23日)は、目黒雅叙園での「隣々会――渡辺洋氏主催」にお招きを受けている。「キャロル山崎」のステージがある。
 また明日(2月24日)は、新谷のり子さんのルーテル市ヶ谷でのコンサートがある。
 ぼくの作詞した「平和を願う歌」シリーズのうち一曲「鳥になれたらいいね」(作曲 園田容子)をうたってくれた新谷のり子さんも、とっても素敵になられた。
 演劇・映画、そして音楽漬けの日々である。

— posted by 本庄慧一郎 at 04:25 pm  

「ニッポンの芸能人」シリーズ95

07年2月12日――ル・テアトル銀座の舞台
 「恋のカーニヴァル」というタイトルの舞台を観た。
 劇場の造りは立派。シートもゆったりしているし、客席数も芝居を観るのにちょうどいい。
 前回、1月には日本映画「早咲きの花」(浅岡ルリ子主演)をやはりこの劇場で観た。
 第二次世界大戦末期を、主役のヒロインが回想する筋立てだが、物語の内容には好感を持ったが、なんせ客席はまばらで拍子抜けした。
 で、今回の「恋のカーニヴァル」。主演は風間杜夫・秋吉久美子。秋吉というヒト、最近、自分の年齢の半分以下とかの若い男性と再婚するとかどうかで、テレビのインタビューに応じていたが、この舞台を観るかぎり、エロキューション(発声・発音・抑揚・アクションなど表現術の一切)まるでダメ。セリフ術なんてまるで関係ないヘタさでした。
 こういうヒトがかりにも銀座の一流劇場の主役を演ずるとは、どういうことか。
 ぼくが観た日は客席は3分の2(いや、半分か)だったが。あれじゃあね。
 芸達者といわれる風間も、「女はスゴイ。秋吉久美子のように若い男と……」とか、「秋吉サンは地で演じている……」とか、下等なギャクを口走っていたけど、あの笑いはあきらかに「失笑」だね。
 あの戯曲がどこのヒトのものかとか、演出はダレかとか、まったく興味が失せました。タイトルも「恋のスキマ風」と変えたら。

シバイのこともう一つ
 井上ひさし先輩にあこがれていますけど、でも、ねぇ。
 最新作「私はだれでしょう」(こまつ座――紀伊国屋サザンシアター)は、例によって(!)台本の遅れが原因で初日を2回8日間ずらしてやっと開幕したとか。
 この先輩の遅筆ぶりはとくと承知しているけど記憶をたどればいくつもありました。
 初台の新国立劇場のコケラ落とし「紙屋町さくらホテル」は、畏敬する俳優丸山定夫にかかわる物語ということで馳せ参じたけれど、あきらかに台本の遅れによる美術・照明その他モロモロ、そして出演者たちのオロオロさかげんがむしろ気の毒で哀れでありました。
 コチトラ、文筆業として、ラジオ・テレビ・CM、そして近頃は文庫書き下ろし時代小説(1冊400字詰め原稿用紙350枚)、さらに昨年11月〜12月のテアトルエコー(井上センパイにえにしの深い劇団)での台本と、まあ、あれこれやってますけど、メ切り不履行なんてこと、誓って言いますけど一度もありませんね。
 そう、わかっています。一流と三流B級の違いなんでしょうね。
 いいなあ、一流って。もしぼくが、舞台の初日を遅らせるようなことしたら、いっぺんに干されるだろうよ。
 いいなあ、一流って。(とは言ってはみるが、一流になる気はない――)

P・S
 さて、明日は劇団民芸の「はちどりはうたっている」(紀伊国屋ホール)という創作劇を観る。さてさて。

— posted by 本庄慧一郎 at 05:23 pm  

「ニッポンの芸能人」シリーズ94

本庄慧一郎のメモ帳から

「年をとった馬鹿は、若い馬鹿よりも始末が悪い」(ラ・ロシュフコー/フランスのモラリスト)
「年をとったウソつきは、若いウソつきより始末が悪い」(本庄慧一郎)


「ウソには税金がかからない。だからこの国にはウソが満ち満ちている」(ドイツの諺)
「ウソは我欲と自己保身で固められている。だから、この国も人間社会もウソばっかりなのだ」(本庄慧一郎)


「軍隊は、ひとつの国家の中の国家なのだ。それが現代の悪だ」(ヴィニィ/フランスの詩人)
「軍隊は、自分は絶対に戦場に行かない卑怯者の謀略に、まんまと嵌められた若者たちの集団だ」(本庄慧一郎)


「正義のないところに自由はない。自由のないところに正義はない」(ゾイメ/ドイツの詩人)
「自由のないところに正義はない。正義のないところにまっとうな人間は暮らせない」(本庄慧一郎)


「群をなしてやってくる思想は無頼漢である。よい思想は小さな仲間と組んでやってくる。偉大な思想はただ一人でやってくる」(エッシェンバッハ/ドイツの詩人)
「戦争をしたがる政治家は死の商人の親戚である。ただ頭を下げて責任を逃れる者は結局は良心の呵責に呻く。良心の呵責に苦しまない者は地獄に堕ちる」(本庄慧一郎)


「礼儀正しさは人をうるわしく飾る。しかし、その「飾り」には一切金はかからない」(イギリスの諺)
「法に反する者は、おのれの人生を醜く汚す。しかし、この愚行は現実化するためには、人間らしい努力は一切要らない」(本庄慧一郎)


「人は食うために生きるのではない。生きんがために食うのである」(トルストイ/ロシアの作家)
「人は理想のために生きるのではない。征服欲と我欲のために生きるのである」(本庄慧一郎)

— posted by 本庄慧一郎 at 03:43 pm  

「ニッポンの芸能人」シリーズ93

それにしてもヒドイ世の中になったものだ
 現在の政治及び政治家の質、あるいは行政とそこに従事する者の質、さらに一般社会を構成する人たちの質などなど、いったいどうなってしまったのかね。
 当方、もともとそれほどエラソーなこと言えたガラではないが、まあまあきわめて常識的なセンをなんとか崩すことなくやっているが、でも虚偽・偽装・欺瞞。詐欺・詐取・詐術。八百長・やらせ・裏取引き、そして……きりがない。
 どこまで堕ちるのかい、人間のモラル。

女性は赤ん坊を産む機械だって
 公人たる者の失言というのもあとを絶たない。
 「女性は赤ん坊を産む機械」と口走ったナントカ大臣もメチャクチャだが、あのイシハラという都知事はすでに「ババア」なんて言葉で、とんでもないことをさんざん口走っている。
 現在、公費濫用の問題では「おれはいじめられている」などと目をパチパチさせて勝手なことをほざいているが、彼のゴーマンさはただ肚立たしいね。

現在の腐敗の原因を選挙民は再検証しなさい
 いわゆる「政党55年体制」というのがある。
 1955年10月、左右両派に分裂していた社会党が統一されて日本社会党になり、11月には、自由・民主の保守党が合体して自由民主党になった。
 二大政党時代などといわれたが、結局、数では1対2分の1ということで、以後、自民党が独走する。
 以来半世紀あまり。現在の政治・社会……その他もろもろの腐敗と堕落はすべて原因は彼らにある。
 すくなくともぼくは、彼らを選んでいない。彼らの言っていること、やろうとしていることを納得していない、認めていない――。
 にもかかわらず、屁理屈・小理屈、そしてとんでもない暴言・失言の輩がのさばっていて、状況はさらに悪化するばかりだ。
 選挙民はいったい何を考えている。いや、しっかり意志表示もしない棄権人種はどういうつもりだ?

テレビというメディアもその制作者・出演者も……
 NHKという組織も質も全面的に信用できない。
 民放もまた、愚かしい阿呆番組をタレ流してい、いやになる。
 ほんとに、救われないなあ。

— posted by 本庄慧一郎 at 05:07 pm  


*** お知らせ ***
自主CDを制作
21.1:130:128:0:0::center:0:1::
平和を願う歌
「鳥になれたらいいね」
総合プロデュース:本庄慧一郎
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