「ニッポンの芸能人」シリーズ42


〔未熟な者のエセ個性〕と〔魅力ある個性〕
 いまここで正確な年月日は思い出せないが、たしか日本テレビの浜町スタジオでのお笑い番組の公開録画の日だった。(それは「笑点」か、その前身になる演芸番組だった)
 ぼくは演劇塾の研修生たちを引率してそのスタジオにいた。現場見学を兼ねてのワンサ(ギャラリーとして)出演であるが、タタミの控室にはほかにもさまざまな人がいたが、開始まで90分ほど待たされた。
 すぐ隣りにチッコイ目の四角い顔の男が退屈そうにしていたので、雑談をはじめた。
 その男は浅草に詳しかった。それもそのはずである。すでにぼくは、浅草のストリップ劇場の舞台でその男がコントを演じているのを観ていたからだ。
 ぼくも浅草はなじみだった。父親も母親も浅草に縁のふかい人間だった。
 むすりと黙りこくっていた男は、いったん喋り出すとむしろ饒舌だった。
 その独特のエロキューション(声の質・言葉の抑揚・表現のニュアンスなど)がユーモラスでチャーミングである。そしてこまやかな心配りのエンターテナーぶり。
 その男は、のちの寅さんこと渥美清サンである。

 寅さんといえばあの印刷屋のタコこと太宰久雄サンとも(同じ練馬石神井の住人だったこともあり)テレビドラマを書いていた時に出演してもらったりして親しかった。
 そのドラマには、(美少年がお好みという噂のあった)若宮忠三郎サンなども出演なさっていた。また西村晃サン(「待ッテマシタ!」というテレビのコント番組)もなるほど!というそのフェイスで光っていたなあ。
 皆さんそれぞれに個性的でユーモラスでチャーミングだった。
 かつての仕事(ラジオ・テレビ・CM制作等)で出演を依頼した方々は、例外なく個性的魅力にあふれていいた。
 寺尾聡サンのお父上宇野重吉サン(TVCFヤマギワ電器のナレーション・CM初出演!)、同じ劇団の大滝秀治サン(SONYのトリニトロンカラーTVのナレーション「ハタおじさんとベラ坊や」もTV初出演!)、そして佐野浅夫サン(日金工のステンレスのTVCFのナレーション――水戸黄門サマだ!)。それに垂水悟郎サン(化粧品イオナのTVCFのナレーション)も印象ぶかい。
 皆さん、根っこのある個性派だ。
 たまたま以上の方たちは劇団民芸のおレキレキだったが、もうお一人、真野響子サンにもお声をかけた。(カティサークのTVCFは何本も制作・企画・作詞などした)この方も当時は劇団民芸の女優サンだった。
 絶対忘れられない方々には高倉健サン(アサヒビールのTVCFの作詞などを担当)も文句なしの個性派。となると菅原文太サン(兄ィが唄う歌の作詞「望郷」)で、じかにお目にかかってうっとりした。
 そうそうもう亡くなられた小松方正サン(SONYのトリニトロンカラーTVの「タツノオトシゴのお父さん」のナレーション)も存在感があった。
 となるとやっぱり(この欄にもすでに書いているが)、仕事上でたっぷりおつきあいいただいた(現在も)桂小金治・熊倉一雄・小沢昭一先輩はそれこそ「ホンモノ」の個性ここにあり!です。

ブラウン管にのさばるエセ個性よ。
 「テレビはタレントを使い捨てる!」とよく不満げに言われる。
 それは「ほんとうの価値のないもの、見せかけだけのエセ商品は廃棄される」ということですよ。(ファンヒーターだの、牛肉だの、マンションだの、ホテルだの――表れ方の違いはあるけれどね。あ、お米のニセラベルとか)
 もし、自分の才能や未来にまっとうな確信があるのなら、テレビ業界から離れなさいと進言しますね、ぼくは。
 バラエティ番組などという形式の、ヒナ壇にガン首そろえて、三つか四つ、愚にもつかない駄ジャレを口走ってそれでイイと思い込んでいる連中のうすっぺらさ。使い捨てになっても文句言えないモノばかりでしょうが。
 たまにはおのれを、自分を対象化してみる、客観化してみるというアタリマエの冷静さをお持ちなさい。
 でもそのテレビに出演することで、ギャラを得て、それでせっかくの個性を台なしにしている有名俳優もずいぶんいますね。
 いまのテレビの(とくにゴールデンタイムとやらの)ほとんどの番組はひたすら俗悪です。
 あのホリエ・ナニガシといった拝金オタクに揺さぶられてオロオロしたいいトシしたラジオ・テレビ関係者もお笑いですけど、俳優にかぎらず、根っこのある個性をもった人たちは、そんな愚かしいコトにかかわりません。念のため。
 ぼくの、自作のキイワード「自分の明日は、自分の〔過去〕が予言している」。

— posted by 本庄慧一郎 at 05:11 pm  

「H・P再開のごあいさつ」


05年7月末から06年の1月末までのざっと6カ月間は〔作家業〕を生業としてきたぼくにとっては、四文字熟語でいえば「晴天霹靂」であり「驚天動地」「五里霧中」でした。
 いったい何が、どうしたのか?
 その経緯を簡略にまとめましたので、ここに掲載させていただいて、H・P再開のごあいさつといたします。

「2005年夏の初体験」
 このトシになると〔初体験〕という言葉やその実体験とは、まるで無縁になる。
 しかしぼくは、この夏(05年)、掛け値なしの、そして鮮烈で刺激的な〔初体験〕に遭遇した。
 7月28日、来客があり、暮れてからバス亭までお送りした。5分ほどの往路の道すがら軽い目まいを自覚した。帰り道、道路サイドの白の安全ラインが、V字型に変形して見えることに気づいた。つまり、先にゆくほど1本のラインが広がって見えるのだ。
 しっかり目をこらすと、遠方の夜景が二つにダブって見えた――そして、足がふらつく。
 あきらかに平衡感覚がマヒしはじめていた。
 翌朝、ふとんから起き上がれない〔異常事態〕にうろたえた。
 すでに高血圧の治療で通院していた近くの大泉生協病院に、女房に取りすがってタクシーでたどり着く。
 初診のA先生が、即座に神経内科のS先生にリレーして下さり「即入院」となる。「たぶん……」という冠詞付きだったのだが、病名は「ギラン・バレー症候群の亜型のミラー・フィシャー症候群では……」という診断。(ちなみにこのカタカナのつながった奇妙な病名は転院後に記憶したものだ)
 さらに「最低治療1カ月くらい後のリハビリは……ひょっとすると3カ月ほど……」というコメントに、すでにかなりクタリとぶちのめされていたぼくは、ただ絶句。
 すでにまぶたは垂れていて、視野はあいまいもこ、頭の中は混乱の極に達していた。
 まぶたや顔面に弛緩現象があり、両手足は完全マヒ、実感は「ぼろ屑になった」である。
「筋無力症的な病気ですか」
「関係ありません」
「高血圧とか血管の故障とか……」
「関係ありません」
 その日の午後から(当の本人は五里霧中!)迅速な治療が開始された(らしい)。
 このややこしい疾病の特効薬の点滴、連続24時間を6日間。そしてさらに1日置いて3日間――。
 その後もぼくは「痛い、苦しい」と闇の底を這いずり回っていたが、そのあとすぐ、リハビリのS先生の「ベットからできるだけ離れるように」という指示。
 「げ!」とまた絶句。なにしろ、ひとりで起き上がることも出来ない〔重病人〕である。
 食事もワイフや娘の世話になる状態。
 とにかくリハビリは開始されていた。
 ベットから車椅子への30センチの距離が恐くて……という無惨なありさまなのだ。
 だが、1カ月後の8月30日、大泉生協病院と姉妹病院の東京健生病院へ転院させられた。
 こちらにはリハビリ専門病棟があるのだ。
 さいわい、リハビリの先生が同じくして転勤になって、そのままぼくの担当になった。
 この病院は基本的な理学療法部門と、生活行動に対応した作業療法部門がある。
 ぼくは全員の集団リハビリ体操とさらに個人の目標に対応したリハビリ特訓を受けた。
 明るくてチャーミングな女性療法士さんたち(作業療法士はS先生)の容赦のない指導で体調はみるみる改善されていった。
 車椅子の人たちの日常やリハビリという治療行為を第三者としてかい間眺めていたぼくは、その〔実体験者〕になった。
 ぼくの病気について、娘や息子がインターネットで調べてくれたところでは、「10万人に1人の確率」とか「出合い頭に遭遇した交通事故のようなもの」とかいう解釈があった。
 テレビや新聞を一切遮断しての「治療とリハビリ専心生活」は、ぼくを謙虚にした。
 治療に携わる医師、看護師、そしてケースワーカー、理学療法士、作業療法士さんたちの献身的な対応ぶりに、ぼくはあらためて脱帽した。
 ぼくは、税務署の届けでは「文筆業」として、ざっと50年暮らしてきた。医療や介護のことにはかなりの関心をもってきたつもりだが、その知識や理解が半端だったことを思い知らされた。
 診断書のややこしい病名の「原因」の欄には「不詳」とある。「理由判らず」ということだ。が、あっというまに1カ月が過ぎ、当初、ひょっとすると治療とリハビリで3カ月〜4カ月は、という〔宣告〕があった。しかしぼくは、リハビリにたいしてきっと優等生になる!と決意して専心努力した。
 そして、主治医の先生に請願し、自主トレーニングを前提にきっちり2カ月で退院した。
 自分でも信じられないほどに〔失地回復〕を果たしたぼくは、ついお世話になった方々につぶやいたものだ。
「皆さんにお世話になった者は、自分に対して、また社会に対して、一つでも賢くなることでお応えしなければ……」と。
 この「ひと夏の経験」の感想は「健康がいかに大事なものかは、それを失った時に真の価値を思い知らされる」である。
 そしてどんな疾病にも効く「もうひとつの特効薬は家族の愛」であるつけ加えたい。

P・S
 今回のぼくのこの体験について、ある出版社の方が「ぜひ体験記として本になさったら」と進言してくれました。
 となるとまずは「小説」とか「戯曲」で、などとスグ考えてしまいました。(物書きとしての哀しい性(さが)か、はたまたこれもどん欲な作家ダマシイのせいか?)  ちなみに仮タイトルは「愛しのギラン・バレー症候群――いざ、生きめやも」デス。
 作品のトーン・ニュアンスとしてはやはり「面白うてやがて哀しき……」になるでしょうなあ。 

— posted by 本庄慧一郎 at 05:12 pm  

「ニッポンの芸能人」シリーズ41


前進座の中村梅之助の68年間。
 さる6月25日付の朝日新聞の文化芸能欄の「清貧貫き前進座の志守る」のコラムを再読する。
 前進座は来年2006年には創立75周年を迎えるという。
 中村梅之助の父親は、名優中村かん右衛門。息子はテレビでおなじみの中村梅雀。
 かん衛門はコンビの河原崎長十郎とともに劇団前進座を興した。
 前進座は「演劇コミューン」として、日本で唯一のコンセプトのもとに、吉祥寺に劇場とけい古場と共同生活の拠点を創設した。
 中村梅之助は7歳から役者として集団生活をはじめて68年間経ったという。
 「劇団員の給料は7段階に分かれていますが劇団代表の私と一番下の者では20万円と違わない」という文章がある。
 中村梅之助や前進座の舞台をじかに観たことのない人も、テレビの「伝七捕物帳」のあの役者(あるいは、指でヨヨイのヨヨイのヨヨイのヨイと調子をとるフィナーレの)といえば思い出されるだろう。
 「伝七」のほか「遠山の金さん」など800本ほどの番組に出演した人気スターだった。
 だが彼の説明によればその出演料のほとんどが劇団収入になり、個人のふところを潤してはいないとか。

〔清貧〕という生活
 現在のゲ−ノ−界、とりわけテレビ界を右往左往する連中にとっては〔清貧〕という言葉は死語だろう。
 こんなヤツがどうして? という「人生狂い咲き」のような人間と、どうにもこうにも手のつけようのないゴミのようなビンボー・タレントが混在してうごめいているテレビ界だが、しょせん〔清貧〕といった質の者は見当たらない。
 コントやマンザイやバラエティ志願の者はひとからげにして、ひたすら卑しく、あざとく、下品である。

新劇といわれた「志ある劇団」は?
 ひと昔まで、日本の演劇界には「新劇」という一分野が厳然と存在した。
 たとえば劇団民芸、劇団俳優座、そして劇団文学座。その他、ここから分派分裂した中小劇団は枚挙にいとまがないが、その三大劇団の最近の活動はまるで冴えない。やっとこ具体化した正規公演もいまさしたる評価も成果も稀薄だ。
 なにしろ、三大劇団の主だった俳優たちもせっせとバラエティ番組でおちゃらけたり、アイドル風タレント主役のワキでお茶を濁しているのが現状なのだから。
 もちろん、舞台の公演にたいしてはそれなりの努力はしているのだが、これがさっぱり面白くない。魅力がない。
 けっこう高い入場料を払ってよく劇場に出かけるが、たいてい「?」か、不満だらけの「!」である。

三好十郎著「新劇はどこへ行ったか」
 上記のタイトルの三好十郎著の本は昭和55(1980)年に出た。(東京白川書院)
 三好十郎には書斎での口述筆記の手伝いやら、短期間ながら劇団戯曲座の文芸演出部員として、じかにその馨咳(けいがい)に接している。
 つまり三好十郎はいまから四半世紀以前にいわゆる新劇という分野の演劇が骨抜きになることを予言していたのだ。
 ちょっとばかし収入がよくなると誰しもさっさと初心などかなぐり捨てる。つまりは金の儲からないシバイなんか捨ててさっさとテレビ・タレントになるというわけだ。

金まみれ・欲まみれ。そして……。
 テレビ業界には「成り上がり者」がワンサといる。
 すでに成り上がり企業家の醜聞まみれの凋落劇をいくつも見せつけられてきたが、ゲーノー界にもこの人種は多い。
 ただワーワー・キャーキャー自分たちだけで騒いでいるような番組でごっそり貯め込んだタレントも、時を経ずして、というより、あっというまにガタガタになる。要するにからだを壊すか心を歪めるか、はたまた家庭を崩壊させるか……。
 それやこれやを思うとき、中村梅之助の上記のコラムの一文をあらためて思い出す。
「私は貧しい俳優です。だからいいのです。そうでないと貧しい人の気持ちがわからない。一杯のラーメンを本当にうまいと思う人間にならないといけない」
 手元にある「創立55周年・グラフ前進座」というアルバムの頁をくる。
 歌舞伎の古典から現代物の創作劇、そして青少年劇場まで多彩なレパートリーと活躍の記録――こういう演劇集団の価値をまともに評価しない国、それが日本なのだ。
 テレビ業界も今後急速に通信メディアとの連携で大変革するだろう。
 あのチリ・アクタのような騒音タレントが消えてくれるといいなあ。

— posted by 本庄慧一郎 at 05:13 pm  

「ニッポンの芸能人」シリーズ40


CD「リンゴ追分・これくしょん」
 この6月(2005年)、美空ひばりの17回忌ということで、テレビの歌番組でくり返し美空ひばりが〔登場〕した。
 そして、この7月、彼女が所属していたコロムビアから「リンゴ追分これくしょん」というCDが発売された。
 作詞小沢不二夫、作曲米山正夫、歌美空ひばり「リンゴ追分」オリジナル(昭和27年、1952年録音発売)を第一曲目として、14曲の「リンゴ追分・バリエーション」が収録されている。
 つまり、尺八、サックス、オカリナ、ピアノ、ヴァイオリン、フルート、三味線、そして、アルゼンチンタンゴ、フル・オーケストラ、さらにジャズボーカル、ロック……まで多彩な演奏スタイルとアレンジで「リンゴ追分・ワールド」が展開する趣向である。
 したがって、テイストは「懐かしくて新しい」である。

小沢不二夫はぼくの叔父で師匠
 作詞の小沢不二夫は劇作家であった。
 36歳で逝ったぼくの母の弟にあたる。つまり叔父であった。
 この叔父小沢不二夫も52歳という作家としての最盛期に逝ったのだが。
 昭和27年(1975年)、ラジオ東京(TBSラジオ)の放送劇として「リンゴ園の少女」がスタートした。脚本は阿木翁助、堀江史朗、そして小沢不二夫。(ぼくは大先輩阿木翁助、堀江史朗両作家にもじかにお目にかかっている)
 この裏番組として前記お三方とは親しいお仲間の菊田一夫作「君の名は」(NHK)がスタートする。視聴率はデットヒートを展開するのである。
 「リンゴ園の少女」は映画化されて、その主題歌として「リンゴ追分」が制作された。(映画でのひばりの父親役は、山村総であった)

7月10日、夕方の電話
 その電話は叔母である小沢弥生からで「これから家へ来られるかしら?」であった。
 叔母(つまり小沢不二夫のパートナー)は、叔父と同様、あの新宿ムーランルージュの舞台に立っていたひとである。いまも健在で、折をみてはよくおじゃまする。
 叔母と甥という近しいかかわりもあるのだが、ぼくのワイフもまたいろいろとお世話になっているのだ。
 というのも叔父と叔母が、私費を投じて庭にけい古場を建て、「むさしの演劇ゼミナール」を始めて、ワイフは演技部、ぼくは文芸演出部に所属していたのだ。
 したがって、いまもの書きとして夫婦仲良く暮らしていられる基に、師としての叔父と叔母が存在するということである。
 その叔母小沢弥生が「このCDを一日も早くあげたいと思って……」と、電話をくださったのだ。
 その日、叔母とワイフとぼくの三人で、しみじみとCDを聴いた。
 そして、その帰りに、叔母はペアの湯呑みをプレゼントしてくれた。
 大きいほうの湯呑みは叔父小沢不二夫が愛用していたものという。
 一緒に下さったお茶をいれて、その湯呑みで味わうお茶の味わいには、「人と人のえにしの和やいだ香り」があった。

竹中労氏の「美空ひばり論」
 ルポライターの竹中労にはさまざまな芸能に関する著作があるが、彼の美空ひばり賛歌はン十年も前からだった。
 音楽評論家の中村とよう氏(ビートルズ日本公演の以前からぼくは東芝EMIの音楽番組の構成をいくつもやっていたので、中村とうよう氏ともじかにお目にかかっている)は、竹中の熱狂的な美空ひばり礼讃論に、「もういいかげんにしたら」と忠告したとか。
 ちなみにぼくは、横浜伊勢崎町にあった横浜国際劇場で、かわい子チャンだったひばりのステージを見ている。
 ところでこのCDのライナーノートは鈴木啓之氏が書いているのだが、次の一文にぼくは、小沢不二夫との叔父・甥の関係を離れて、心から共感の拍手をした。
 ――「(ひばりの)晩年の傑作「川の流れのように」は、美空ひばりのために書かれ、歌われた作品であるが、「リンゴ追分」は、美空ひばりが日本人のために歌った作品であった。不朽の名作は世代を超えて、これからもずっと歌い継がれてゆくことだろう。
 小沢不二夫7回忌法要の折の記念写真には作曲(「津軽のふるさと」では作詞も)の米山正夫氏が写っているが、その米山氏もいまはいない。
 

— posted by 本庄慧一郎 at 05:14 pm  

「ニッポンの芸能人」シリーズ39


広瀬隆著「私物国家――日本の黒幕の系図」
 
上記の本は1997年発行(光文社刊)だが、いまあらためて頁をくってみると、現在の政治・経済・行政・金融などの現在の腐敗ぶり、堕落ぶりの源流・底流が手にとるようにわかる。
 それにしても、ほんとうに日本及び日本人のダメさかげんは、どこまで堕ちるのか。 
 本のオビには「税金を私物化した金融集団……」とあって、ざっと50人ほどの「税金横領に狂奔した人物」が実名・写真入りで列挙されている。
 すでに、汚名をかぶったまま逝った者も多いが、現在もぬけぬけと、正義漢づらしてのさばり歩いている奴も大勢いる。
 この著者が列記している各人の〔犯罪〕はすべて利権と多額な金である。
 たとえば、公共事業にかかわるゼネコン談合の元締めと目された故金丸信は、百億の不正蓄財にうつつをぬかし、巨額脱税で逮捕されたが、その車椅子の姿の末路はただ憐れだった。
 そのほか、欲まみれに金まみれの50人ほどの悪徳集団代表の中には、あらためて目を見張らせる奴がいるわ、いるわ……。

それから8年後のいま……。
 すこしも国家私物化、国税浪費の悪習慣は変わらぬばかりか、ますますエスカレートしているのだ。
 いま、サラリーマン対象の大増税が実施されようとしている一方で、消費税の増額なども目前に控えている。
 そして、年金支給額の減額、社会福祉予算の削減や切り捨てなど、すでに実施されている。
 かねてから腐臭を放っていた道路公団などをはじめとする天下り族の跳りょうや、そこに絡まる〔不正談合〕の実態など、ほとんど底なし状態という様相を呈している。

コメンテーター&ゲストたちの仮面
 この本に登場する悪徳集団メンバーの中には、あいかわらず政治家づらしてカッポする者がいる。
 そんな奴が、トーク番組やニュースワイド番組でコメンテーターとして、またゲスト出演して、政治改革なんてことをエラソーにしゃっべている。
 テレビの番組制作者たちの不勉強さや見識のなさにはウンザリしているが、こうなるともう「しょうがねぇなあ」では済まない。
 ジャーナリズムの公共性とか、報道の真実性などという信条とはまるで乖離(かいり)している。

公金お手盛り列島、全10段の記事。
 今年の3月21日付の朝日新聞「公金お手盛り列島」の全10段の記事を再読する。
 いま当面、増税の標的にされているサラリーマン諸君は、こういう記事を読まないのかね。読んで肚を立ててないのかね。
 満員電車と職場で、怒るというエネルギーも使い果たして、インポになってしまったのだろうな。
 居酒屋などでショーチュウ呑んで、ゴルフ談義や愚にもつかない世間ばなしやカラオケなんかにうつつをぬかすエネルギーがあったら、すこしは肚を立てなさいよ!ねぇ、諸君! 
 「飼いならされたポチ」とは、コイズミ氏だけのことじゃない。理不尽な大増税にも平然としているサラリーマンも、そして肝心の選挙民も……とってもブキミだよねぇ。
 戦後60年、あらゆるモノが疲弊(ひへい)しているというが、日本人の不感症度はますますエスカレートするんだろうなぁ。
 日本という船に乗っているのが、とてもツライね。
 そのうちに大地震でも発生して、この「私物国家」は天罰をうけることになるのか。
 ああ。

— posted by 本庄慧一郎 at 05:15 pm  


*** お知らせ ***
自主CDを制作
21.1:130:128:0:0::center:0:1::
平和を願う歌
「鳥になれたらいいね」
総合プロデュース:本庄慧一郎
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