「ニッポンの芸能人」シリーズ8


我欲と虚栄とハレンチ
 「権力と、それにかかわることへの欲望がこの世に渦巻く。その欲望を存分に満たすがよい。それがすべて、いかに愚かしくくだらないものかがわかるから」
 インドの宗教家・思想家であるヴィヴェー・カーナンダというお方がいっている。
 でもね、近頃、権力の座の周辺に群がる人間には、「それがすべて、いかに愚かしくくだらないものかがわかる」なんて気の利いた結論にはとうてい達しないだろう。
 たとえば、日歯連とやらの団体の汚れた金――1億円をめぐる橋本ナニガシとその一座の連中の醜くうさん臭いやりとりを見よ。
 かりにも「選良」として政治の表舞台で総理大臣として君臨した男の、ひたすらだらしなく情けないその心根と堕落ぶりは、アレは何なのか。
 「我欲と虚栄とハレンチ」に呆けたとしか思えない。
 そう、「実業」といわれた業種、企業の経営トップにも同種同病の醜悪な人間がワンサといることはもう、イヤというほど思い知らされた。

紀伊国屋文左衛門と奈良茂など
 「時代もの文庫書き下ろし」という分野の仕事をせっせとやっている。2005年初頭に出る(KKベストセラーズ/ベスト時代物文庫)予定の新作では、紀伊国屋文左衛門などの元禄バブル商人を背景に据えて書いた。
 さんざん作家諸先輩が書いている素材だが、本庄流レシピをどうぞご笑覧あれ、という次第だが――それはそれとして。
 それにしてもだ、文左衛門などの虚実とりまぜての資料を読みあさると、いわゆるニワカ成り金のそのバカバカしくも愚かしいその行動と生涯といったものにあらてめてウンザリする。
 現代でもかのIT関連企業の経営者の中には文左衛門らとまるで同種同病と思われる人間がのさばっていることを痛感する。
 江戸時代の成り金連中は、吉原という女郎遊びのアミューズメントに出張って、とにかく資金にものいわせて、デタラメというべき遊興に入れ込んだ。たとえば、文左衛門が吉原の女郎屋で一族郎党はべらせての雪見の宴を催せば、それをやっかむ奈良屋茂左衛門が、頭上の二階の窓から金銀小粒をばらまく。
 ワッと拾いに集まった者たちでその雪景色は一変して、彼は「ざまあみろ」とほざく。
 文左衛門はその仕返しに、奈良茂が惚れていた女郎を金で買収し、内腿に「奈良茂いのち」と刺青をさせ、妾宅に住まわせて奈良茂にそのそっくりを贈った。
 その文左衛門の「報復」を粋だの洒落れているのと世間は拍手したとか――。
 いまの平成バブル成り金どもが得意げにやっていることも大同小異だろう。(なにしろ吉原なんていうところはないものね)

ゲーノー人たちの堕落もまた――
 かつて映画産業の華やかなりし頃のエピソードを一つ。
 映画の大スターが、関西へ移動するのに一等席(スペシャルシート)がなかった。三等席ならという付け人に、そのスターがいったとか。
「国鉄に命じて、一輌わしのための車輌をつなげばよろしい」
 今は昔のはなしといいたいが、現在のゲーノー界にもこの種のカン違い人間はワンサと棲息している。
 「あいつ、ナニ様のつもり?」というせりふは、限りなく活用できる時代だが、ゲ−ノー界というフィールドでは、ひょんなことで売れて、しこたま金を儲けると、ほぼ100パーセントの者が「ナニ様」もしくは「ナニ様風」に変貌する。
 もっとも、宮様の名を騙り、それらしいキンキラ衣裳をまとって詐欺をやったのもいるが、つくづく思う。「我欲と虚栄とハレンチが作る穴ぼこというのは永遠だなあ」と。

— posted by 本庄慧一郎 at 10:23 am  

「ニッポンの芸能人」シリーズ7


再び「緒形拳さんがいた新国劇」のこと
 この「ニッポンの芸能人」の欄の前々回、11月15日分で「緒形拳さんがいた新国劇」について書いた。
 その新国劇を牽引してきた俳優島田正吾さんが11月26日、98歳で亡くなられた。すでに故人になられた辰己柳太郎さんとのコンビで、男性的でダイナミックな数多くの名舞台を創造してきた新国劇の「両輪」であった。
 叔父小沢不二夫が新国劇に脚本を書いていたこともあって、彼らの舞台はいろいろ観た。
 いまぼくは、チャンバラの要素を取り込んだ時代小説を書いているが、新国劇のさっそうとした殺陣(たて――チャンバラ)は、スピーディで、シャープで、それはスカッと胸のすく見事なもので、そのエモーションがいま、小説を書くのに活きている。
 たとえば謡曲「田村」を使った「殺陣・田村」の舞台はエンターテインメントの極みといっていい完成度だった。また「国定忠治」における「小松原の場」の辰己柳太郎さんの殺陣など、生涯忘れられないだろう。
 舞台生活80年という島田正吾さんの晩年の、新橋演舞場における一人芝居もいくつか観た。
 朝日新聞の「天声人語」、日経新聞の「春秋」ほか、いくつもの追悼文が出たが、やはり日本の演劇史の一つの章が終わったということか。

「大衆より一歩先は行き過ぎ、半歩先がいい」
 島田正吾さんのモットーである。また「右に芸術、左に大衆」ともいっていた。
 それにしても、である。
 花柳章太郎、水谷八重子(先代)が率いた新派という日本演劇の主要ジャンルもいま、その存在が危ぶまている情況だ。
 いや、いわゆる新劇といわれる分野はどうか。民芸、文学座、俳優座の三大劇団のアイデンティティもいまや稀薄である。
 劇場の客席がガラ空きでは、演劇――劇団経営は成立しない。
 わが師である劇作家三好十郎の著書「新劇はどこへ行ったか」を書棚から取り出す。
 昭和55年(1930)の発行である。
 その項目の中に「火のない新劇の運命」とあり、いわゆる「新劇」の在り方に早くも警鐘を鳴らしていた。その予言は、適中したといっていい。
 いま新劇の系譜の劇団の俳優たちは、なりふり構わず粗製濫造のゴラク映画や、愚にもつかないテレビのバラエティ番組でひたすらオチャラケでお茶をにごしている。
 もちろん、真面目に公演活動を続けている劇団も俳優もいる。が、結局はそれらの公演は総じて満足な出演料は出ない。
 むしろチケットのノルマを消化して、赤字を防ぐのにめいっぱいという、相変わらずの構造不況である。
 商業演劇といわれる公演形態も、いうところの歌手シバイもごく一部の者の場合を除いてはマンネリ化して集客能力をなくし、路線変更している。
 プロデュース公演といったカッコイイお題目での企画は、なんのことはない、テレビで顔の知れた者を頼りのイージーさだ。内容は空虚。
 最近の大劇場や大ホールでの「熱狂」は、そのほとんどが、若いロックシンガーなどのコンサートである。
 つくづく思う。「おとなの演劇どこに消えたのか!」と。

「志之輔らくご会」の盛況
 渋谷パルコにおける立川志之輔さんの独演会(04.11.26)を楽しんだ。
 「話芸」となると、畏友小沢昭一さんをまず思い出すが、志之輔さんの場合は、「現在進行発展形」の勢いを感じた。
 むしろその熱気は「話力」といった動的な表現のほうがふさわしいのでは――。
 今回の独演会は、会場はパルコ。12回×2回――という公演形式だったが、観客動員にも勢いがある。
 次回(パルコの独演会は年一回)は、1ヶ月連続になるという予告があったが、こちらは文句なしの発展形である。
 独演という形態で、同一場所での一ヶ月間、主役一名という連続公演である。大がかりな出演者とスタッフを必要とする演劇の公演と比較してみてほしい。
 それにしても、演劇という形態は、これからどうなるのか。 
 あらためて、ユーウツが重く、大きくなる。
 もう一つ、それにしても、目の色変えてヨン様を追っかけている女性たちの狂態(ヨン様とキスしたいとオバサンが叫んでいた!)――島田正吾さんを送った日に、さらに加えてユーウツになった。

— posted by 本庄慧一郎 at 10:22 am  

「ニッポンの芸能人」シリーズ6


三谷幸喜さんの映画「笑いの大学」
 04年11月21日(日)。仕事場のある練馬区石神井を午前8時に出発。1時間30分をかけて荻窪へのウォーキング。そして地下鉄丸の内線で新宿へ。そそくさと牛丼をかき込んで、新宿文化の10時10分からの映画「笑いの大学」を観た。
 怠惰なことにこの「名作」といわれる舞台もNHKのラジオドラマも接触していなかった。(でも、この2ヶ月の例にあげれば、毎月の歌舞伎座・国立劇場・そして新国立劇場。加えて、劇団テアトル・エコー・劇団青年劇場・劇団ピープルシアターなど、あ、それから新橋演舞場の十朱幸代公演、さらに作詞を再開したのでライブハウスへ2回ほど、それに加えて映画「隠し剣・鬼の爪」などなど、実に小マメに出かけているボクなのですがね)

「笑いの大学」の内容
 昭和15年(1940)の東京浅草の小劇場の若い座付き作者と警視庁保安課の検閲官の二人を主人公にした対話劇。
 日本が戦争という暗黒の時代に突入してゆく時代は軍国政府の「狂気の言論統制」が強行されていた――敵対する両人の熾烈な対立がやがて奇妙な友情へと変華してゆくという時代色濃厚なコメディである。
 密室劇といううたい文句だが(プログラム)、原作が舞台だから当然だろう。でも、演者(役所広司・稲垣吾郎・高橋昌也他)のじっくりと粘着力のあるパワーあふれる演技もいいし、星護という人の演出もなかなかだ。
 テレビドラマの演出というと、たいていは「チロチロおしっこ漏れ」みたいなのが多い。
 あるいはその演技も「ねずみのフンを転がすような」(東野英治の言葉)ばかりだ。
 ここで話はとぶが、11月の新国立劇場の三好十郎作「胎内」(栗山民也演出)などには、舞台ならではの濃密な熱気と説得力が横溢してたが――。(先行の三好十郎作「浮標――ブイ」(栗山民也演出)にも同質の魅力があった。
 現在のテレビドラマが喪失してしまった、あるいはとうに流れ去ってしまったモノが、いい舞台にはある――。
 「笑いの大学」にも、それはあった。

アドリブ厳禁のあの時代
 当時、演劇の舞台では一切のアドリブは厳禁されていた。当然だろう。一言一句が検閲されているのだから。それでも公演当日の演技者のアドリブを検閲するために、客席後部に「臨検席」があり警官が常駐した。
 現在のテレビのバラエティ番組のガキ・タレントが自分たちだけで図にのって喋るといったアドリブは、本来のアドリブとはまるで異質のもので(たとえばジャズでいうアドリブには楽典的ルールをふまえての表現の手段である)彼らのものはたんなる「口から出まかせ」である。
 アメリカの「エド・サリバン・ショー」をはじめとするフリー・トーク風のショー番組では一切アドリブはなかったという。
 それとエノケンこと榎本健一の舞台でも、原則としてアドリブはなかったと聞いた。
 舞台上の、または演技上のアドリブがたんなる勝手放題、行き当たりバッタリに堕落したのは、テレビのバカタレントと阿呆な制作者たちのせいだ。
 その点「笑いの大学」の演技者たちもまた、まじめに、真摯に、心をこめた演技をしていた。

新宿ムーラン・ルージュのこと
 「笑いの大学」のプログラムの原健太郎氏の文章に「エノケン・ロッパとムーラン・ルージュの三国志」がある。先にも書いたがぼくの叔父の劇作家小沢不二夫はムーラン・ルージュ出身である。
 そしてぼくが生まれて初めて書いた小説が「赤い風車劇場の人々」(影書房刊1992年)で、題名の通りモデルは、新宿ムーラン・ルージュだ。
 劇団ピープルシアターの森井睦氏脚本で二度舞台化された。戦争もムーラン・ルージュもまるで知らない若い人たちに熱い拍手をもらった。
 ムーラン・ルージュは10日間替わりで演じ物が変わったが、「笑いの大学」のようにけい古に10日間なんてゆとりはなかった。(昭和15年のムーラン・ルージュのパンフレットもあるノダ)
 舞台の終演後の4〜5日の深夜、そそくさとけい古らしきことをして、幕を開けた。粗製乱造のそしりをまぬがれないが、「東京喜劇黄金時代」を担う名作のかずかずを遺したことに違いはない。
 現在、新宿郷土資料館のムーラン・ルージュのコーナーに、検閲判の捺してある台本脚本が陳列されている。
 ぼくはいま、戦前「B級映画のエース」といわれた大都映画と、さらに浅草の女劇団を素材に舞台のホンをかく予定だ。
 新宿ムーラン・ルージュとの3作を「昭和3部作」としてまとめる。(文庫書き下ろし時代小説でキリキリ舞いをしていてはイケナイなあ)

— posted by 本庄慧一郎 at 10:20 am  

「ニッポンの芸能人」シリーズ5


ハダカの王様症候群
 「第52回民間放送全国大会」(平成16年11月9日・国際フォーラム)にお招きをうけた。
 「地上デジタル放送」についての展示、柔道の谷亮子さんの講演など、盛況だった。
 帰宅してから、先年ご寄贈いただいた分厚い「民間放送50年史」「TBS50年史」(1冊が重さ4キロほどもある)をひもといた。
 ぼくは民間放送のスタート時からかかわった。たとえばフジTVの準備段階にディレクターとし参加した叔父小沢效(前に書いたが美空ひばりさんの「リンゴ追分」を作詞した劇作家小沢不二夫の弟)にコーチしてもらって時代劇と現代もののコメディを書いた。
 本放送以前のスタッフ研修のための脚本であったが、昭和34年(1959)の本放送開始にもオン・エアされた。
 というわけで「第52回民間放送全国大会」という数字にもいろいろ思いもあった。
 大変申しわけないことなのだが、その第一番目に思ったことは「近ごろのゲ−ノ−人」である。
 なんとも情けないことには「ハダカのゲーノー人」がウヨウヨしているということだ。
 テレビという業界でちょっとチヤホヤされてアブク銭が入ってくると、たいていのゲ−ノ−人が思い上がる。
 成り上がり者――とは広辞苑によれば「卑賤の身から急に身分や地位があがった者」であり、軽蔑の意味をこめていうこととある。
 テレビなどで得意満面、ナニ様ふうにのさばっている者は、しかし、「急に身分や地位があがった」というのとは異なる人種だ。
 ただたんに、いきなり身分不相応の金持ちになっただけなのだ。成り上がり者以外の何者でもない。
 この種のゲ−ノ−人はほとんどが「ハダカの王様」に堕落する。

身分不相応の金は心を腐らせる
 いま文庫書き下ろしという時代小説をせっせと書いているが、例の紀伊国屋文左衛門をはじめとする「元禄の豪商たち」を素材にしている。
 彼らの史伝も虚実が入り交じっているが、いずれにしても愚かしい成り上がり者である。
 その金の使い方や人間としての在り方など、どう情状酌量しても「馬鹿阿呆」としかいえない。
 このところ、IT産業の若い経営者たちが企業や野球団買収に名乗りをあげているが、彼らの言動や人間性にもその「臭気」を感じる。
 ましてや従来、経営責任者として君臨していた老人たち(渡辺ナニガシ、中内ナニガシ、堤ナニガシ、それから…)は、ン十年にわたって根腐れをおこしていたのだ。彼らも金でおのれの人生を堕落させ、腐れ金と汚名を遺した。
 そういえば、警察署や厚生労働省の公務員の裏金作りや収賄事件は数えきれないが、巷でもせっせと詐欺横領は日常化していて、うんざりである。

新成り金族のカンカン踊り
 このところまた、島田ナニガシかの暴力事件、荻原ナントカの強迫事件、と思えばゴルフ帰りのクルマで高速道路を50キロオーバーで暴走する所オチャラケとか、つまりは揃いも揃って、先輩暴走ゲーノー人をコピーしている。
 とにかく、覗き見とか麻薬とか淫行などなど、まるで歯止めがきかない。
 かのバブル時代、ギラギラした不動産業と称する人種が跳りょうした。そのバブルがはじけたといわれて10年余…。泡は消えたけれだ、その毒素は人の心に巣食っていてさらに勢いを増している――とずっといい続けてきた。
 とりわけいま、視聴率とやらにトチ狂うテレビ業界の新しいバブルのさなかで、ゲーノー人とかタレントといわれる街のチンピラみたいなのがのさばっている。
 マスコミ・バブルのさなかで踊るハダカの王様なんて、コッケイで醜悪なだけだ。
 ぼくが畏敬する(それこそもう、50年余のおつきあいの)小沢昭一さんのテレビ観をいずれご紹介したい。
 そういえば、金(紙幣)のことを「記号のついた紙にすぎない」という迷言を吐いたのがいたが、豪雪地新潟の被災者の皆さんに、百億か二百億、ポンと寄附しなさいよ。
 そう、三木谷ナントカさん、堀江ナントカさんと相談してね。
 もう一つ、そういえばと続けるが、最近のテレビCMの愚劣さはなんとかならんかね。
 いつぞやNHKの「トップランナー」に出演したCMプランナーの社会にたいする無自覚さとか、日経新聞(10月20日)の東京コピーライターズクラブの「コピーライター対CMプランナー」の広告の内容(彼らのメッセージ)もウーン!これでいいのか!だった。
 同じ日経の「日経ビジネス」の「もうCMでは売れない/テレビ万能のウソ」と伴せ読んで、バブルの毒素の潜伏期間はとても長いことを痛感した。
 

— posted by 本庄慧一郎 at 10:19 am  

「ニッポンの芸能人」シリーズ4


緒方拳さんがいた劇団新国劇
 映画・演劇などの古いパンフレットのコレクションから「昭和25年7月興行/新国劇/東京劇場公演」のパンフレットを引き出す。
 演目は昼の部が「黒い太陽」作小沢不二夫。「原田甲斐」作宇部信夫。
 夜の部が「シンガポールの灯」作菊田一夫。
 「月形半平太」作行友李風。
 新国劇といえば、創立者沢田正二郎。それまでの歌舞伎の様式化された〔殺陣――たて〕をリアルなチャンバラとして舞台で演じて人気を集めた。
 現在の映画などのチャンバラの魅力の原点はすべて沢田正二郎に発するといえる。
 そのエンターテインメントの系譜を継承したのが辰己柳太郎・島田正吾。
 かれらの舞台では「国定忠治」をはじめ、かずかずの名作がある。

東京劇場の楽屋で見た!
 この昭和25年のパンフの劇団員の連名を見ると、辰己柳太郎・島田正吾の大御所に、石山健二郎の名がある。
 名作「国定忠治」では、山形屋藤造という二足のわらじをはく(十手持ちでありながら裏では賭場を営みあぶく銭を稼ぎ、娘を女郎に売りとばすなど)悪党役は絶品だった。
 また黒沢明の「天国と地獄」(1963)では三船敏郎・香川京子・仲代達矢・山崎努の演技実力派にまじっての刑事役を演じたかれのどっしりした存在感ある演技は忘れられない。
 この石山のほか、ずらりと名わき役が揃っていた。この連名の中に現在も舞台公演で活躍する大山克巳がいるが、まだ緒方拳の名はない。
 「おもかげ」という芝居はぼくの叔父小沢不二夫が新国劇に書き下ろした作品だが、当時カバン持ちで東劇の楽屋にいった。ちょうど「王将――坂田三吉伝」を上演中だった。(「国定忠治」も同時上演していた)
 ボロボロの股引、色あせた印伴天という辰己柳太郎扮する坂田三吉が楽屋に戻ってくると「おーい、オガタ、オガタ」と辰己がよぶ。
 キビキビとした青年が辰己の面倒を見ていた。そのときは、痔に悩まされていた辰己がボロ股引の尻をむきだしにしてオガタ青年に手当てをさせていた。
 この青年こそが現在の緒方拳である。
 そして、新宿第一劇場(三越から大塚家具になった現在の場所にあった)でやはり小沢不二夫作の「黒い太陽」を上演していたとき、花道をカモシカのような体躯の学生役の俳優が本舞台へ軽やかに走り出た。
 舞台けい古だったが、叔父が助手のボクに「あれが緒方拳という役者だよ。いい男だ」とささやいた。
 あのとき青年緒方拳がはいていた純白のバスケットシューズがくっきりと印象に残っている。

ゲスト出演に藤間紫の名が!
 藤間紫といえば、スーパー歌舞伎の猿之助さんの奥さま。つい最近「西太后」という大作で主演し、文句なしの喝采を博した。
 すべてに保守的な歌舞伎に積極的にケレン(大仕掛けなアクションや演出)を取り入れ、新しいファンを獲得している猿之助が体調をくずしているのは残念。でもかれが若手育成に情熱を注いできたので、市川右近をリーダーとする若手パワーがいい舞台を創造している。
 そのバックにはいつまでも若々しい藤間紫の情熱が役立っているはずである。
 ところで、それよりずっと以前の昭和23年(1948)小沢不二夫作の「おもかげ」の有楽座公演のパンフもある。
 昭和23年とは――「6月15日太宰治と山崎富栄と心中」、「映画入場料40円に値上げ」、「プロ野球初のナイター、横浜にて巨人・中日戦」、そして「主食コメ二合七勺に増配」、「燃えないマッチ退治の主婦大会開く」という時代であった。
 あれから56年! それにしてもお若い「藤間紫」!

— posted by 本庄慧一郎 at 10:17 am  


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自主CDを制作
21.1:130:128:0:0::center:0:1::
平和を願う歌
「鳥になれたらいいね」
総合プロデュース:本庄慧一郎
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