再び「緒形拳さんがいた新国劇」のこと
この「ニッポンの芸能人」の欄の前々回、11月15日分で「緒形拳さんがいた新国劇」について書いた。
その新国劇を牽引してきた俳優島田正吾さんが11月26日、98歳で亡くなられた。すでに故人になられた辰己柳太郎さんとのコンビで、男性的でダイナミックな数多くの名舞台を創造してきた新国劇の「両輪」であった。
叔父小沢不二夫が新国劇に脚本を書いていたこともあって、彼らの舞台はいろいろ観た。
いまぼくは、チャンバラの要素を取り込んだ時代小説を書いているが、新国劇のさっそうとした殺陣(たて――チャンバラ)は、スピーディで、シャープで、それはスカッと胸のすく見事なもので、そのエモーションがいま、小説を書くのに活きている。
たとえば謡曲「田村」を使った「殺陣・田村」の舞台はエンターテインメントの極みといっていい完成度だった。また「国定忠治」における「小松原の場」の辰己柳太郎さんの殺陣など、生涯忘れられないだろう。
舞台生活80年という島田正吾さんの晩年の、新橋演舞場における一人芝居もいくつか観た。
朝日新聞の「天声人語」、日経新聞の「春秋」ほか、いくつもの追悼文が出たが、やはり日本の演劇史の一つの章が終わったということか。
「大衆より一歩先は行き過ぎ、半歩先がいい」
島田正吾さんのモットーである。また「右に芸術、左に大衆」ともいっていた。
それにしても、である。
花柳章太郎、水谷八重子(先代)が率いた新派という日本演劇の主要ジャンルもいま、その存在が危ぶまている情況だ。
いや、いわゆる新劇といわれる分野はどうか。民芸、文学座、俳優座の三大劇団のアイデンティティもいまや稀薄である。
劇場の客席がガラ空きでは、演劇――劇団経営は成立しない。
わが師である劇作家三好十郎の著書「新劇はどこへ行ったか」を書棚から取り出す。
昭和55年(1930)の発行である。
その項目の中に「火のない新劇の運命」とあり、いわゆる「新劇」の在り方に早くも警鐘を鳴らしていた。その予言は、適中したといっていい。
いま新劇の系譜の劇団の俳優たちは、なりふり構わず粗製濫造のゴラク映画や、愚にもつかないテレビのバラエティ番組でひたすらオチャラケでお茶をにごしている。
もちろん、真面目に公演活動を続けている劇団も俳優もいる。が、結局はそれらの公演は総じて満足な出演料は出ない。
むしろチケットのノルマを消化して、赤字を防ぐのにめいっぱいという、相変わらずの構造不況である。
商業演劇といわれる公演形態も、いうところの歌手シバイもごく一部の者の場合を除いてはマンネリ化して集客能力をなくし、路線変更している。
プロデュース公演といったカッコイイお題目での企画は、なんのことはない、テレビで顔の知れた者を頼りのイージーさだ。内容は空虚。
最近の大劇場や大ホールでの「熱狂」は、そのほとんどが、若いロックシンガーなどのコンサートである。
つくづく思う。「おとなの演劇どこに消えたのか!」と。
「志之輔らくご会」の盛況
渋谷パルコにおける立川志之輔さんの独演会(04.11.26)を楽しんだ。
「話芸」となると、畏友小沢昭一さんをまず思い出すが、志之輔さんの場合は、「現在進行発展形」の勢いを感じた。
むしろその熱気は「話力」といった動的な表現のほうがふさわしいのでは――。
今回の独演会は、会場はパルコ。12回×2回――という公演形式だったが、観客動員にも勢いがある。
次回(パルコの独演会は年一回)は、1ヶ月連続になるという予告があったが、こちらは文句なしの発展形である。
独演という形態で、同一場所での一ヶ月間、主役一名という連続公演である。大がかりな出演者とスタッフを必要とする演劇の公演と比較してみてほしい。
それにしても、演劇という形態は、これからどうなるのか。
あらためて、ユーウツが重く、大きくなる。
もう一つ、それにしても、目の色変えてヨン様を追っかけている女性たちの狂態(ヨン様とキスしたいとオバサンが叫んでいた!)――島田正吾さんを送った日に、さらに加えてユーウツになった。
「ニッポンの芸能人」シリーズ7
2004/11/29
— posted by 本庄慧一郎 at 10:22 am
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