東京新聞TOKYO発「わが街わが友」

2008年2月6日〜2月28日



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「わが街わが友」2008年2月6日

1.三ノ輪橋
 かねがね考えていた。「街の風景を文章にすると、書いた人の物語になる」と。
 文章にかかわるあれこれの仕事を、飽きることなくほぼ半世紀もやってきた。
 そのラジオ・テレビ番組、広告やCF制作、小説や脚本などすべて“裏方”だった。
 今回、執筆の依頼を頂(いただ)き、まず自分そのものを書いたことがないことと、そしてチャンとか姓を呼び捨てにするようなごく親しい友があまり居ないことに気付いたのだ。
  顧みると、いつも周囲には「なるほど!」と呟(つぶや)くような先輩の先生方がいた。また仕事仲間にしても、ずらり眩(まぶ)しいような人ばかりだった。
 彼らから、そして仕事そのものからあれこれと学んできたという思いがあるのデス。
 さてご存じ虚子の名句「去年今年(こぞことし)貫く棒の如(ごと)きもの」。
 恐れ多くもこのモジリを。「過去現在貫く都電荒川線」
 おっとりした雰囲気のチンチン電車が大好きだ。
 というのも、三ノ輪橋←→早稲田というこのラインが結ぶさまざまな街に、私の来し方と現在があるからである。
 とはいえ、常にマスコミの仕事にかかわってきた私メは“それ以外”の街も仕事の都合でいろいろ経由した。
 でも、やはりこだわりは都電荒川線にある。
 「生まれは三河島。育ちは浅草」とつい口走ったりするのだが、その後にかかわる滝野川、巣鴨、泣けるほど懐かしい王子・飛鳥山、そして面影橋、さらに古本あさりの早稲田(帰路は高田馬場へ出て西武で自宅のある石神井へ)と、なにしろ縁が深い!
 とくに浅草へは三ノ輪橋から吉原経由でトコトコ歩く。そのようなわけで、渥美清、坂上二郎、萩本欽一、ビートたけし、浅香光代、そして橋達也…さらに、井上ひさしの皆々さんを勝手に“遠い親戚(しんせき)”のように思ってきた。
 あ、吾妻橋ぎわの台東区浅草一丁目一番地、デンキブランの神谷バー、先代社長の故神谷信弥さんも親友だった!
(東京新聞2008年2月6日朝刊・TOKYO発「わが街わが友」)




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「わが街わが友」2008年2月7日

2.荒川・尾久

 何種類も名を使い回す輩(やから)はうさん臭(くさ)いのが多いとか。
 かく申す私は、筆名本庄一郎で放送作家初期を過ごし、本名望田市郎で広告のコピーライターを、現在は本庄慧一郎を名乗っている。でも、生来はまじめ。警察の指紋やDNA鑑定などのお世話になるようなことはしていません。
 これは気の弱い(?)私の念のためのコメントです。
 さて、前回もふれた私の口ぐせ「生まれは三河島、浅草育ち」について一言。
 かつて三河島にあった小沢メリヤスという織物製造卸の会社に織工として働いていた男が、経営者一家の長女を口説いて“駆け落ち”し、浅草千束あたりに隠れ住んだ。この二人が私の父親と母親というのがその理由だ。
 父の生まれ在所は武州本庄宿。中山道に面した大店の繭の仲買商の坊ちゃま。
 小学校に通うのに、袴(はかま)をつけて人力車で(本人談)という暮らしだったものの、父親が三十二歳で急逝して一家離散。祖父母との東京暮らしが苦労の始まりだったとか。
 両親はやがて荒川の尾久に引っ越すが、千束は吉原の隣接地。尾久も三業(待合・芸者・料理屋)許可地。やたら色っぽい街だった。知る人ぞ知るアノお定事件もあった!
 家がカフェを営む級友がいた。遊びに行くと、二階に銭湯帰りのお姐(ねえ)さんがお化粧をしている部屋があり、脂粉の甘い香りにクラクラした。
 「こっちへおいで」と呼ばれ、わけもなく抱きしめられ、お菓子をもらった。
 一階ではタバコ屋もやっていて、売り場の二畳間のこたつにいる級友のお姉さんに、「市ちゃん、通信簿見せて」と言われて持って行くと「できるんだねぇ」と、ふくよかな胸にまた抱きしめられた。
 当時の成績表は甲乙丙丁の記号で表記された。市郎クンの通信簿は、三学期のうちの一学期の体操だけが乙で、あとはずらりと甲だった。
 人生で一番もてた季節だった。エカッタなぁあのころ。
(東京新聞2008年2月7日朝刊・TOKYO発「わが街わが友」)




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「わが街わが友」2008年2月8日

3.滝野川

 父の仕事の関係で、荒川区の尾久から北区滝野川に引っ越した。昭和十七(一九四二)年、小学四年生だった。
 お地蔵さんで有名な巣鴨の現在の白山通りにあった大都映画のまん前に、母の実家の小沢家も移転していた。
 戦前のこの活気あふれるユニークな撮影所に、なんと、叔父が四人も働いていた!
 大伴龍三という年間十六本も監督した外叔父をはじめ、脚本家、カメラマン、助監督といった映画一家に小沢家は“変身”していたのだ。
 巷(ちまた)では“B級三流”といわれる娯楽作品専門の会社で、杉山昌三九、阿部九州男、松山宗三郎、ハヤフサ・ヒデト、近衛十四郎(松方弘樹・目黒祐樹さんの父上)や藤間林太郎(藤田まことさんの父上)などの二枚目がずらり。
 そして琴糸路、久野あかね、三城輝子、北見礼子(林与一さんの母上)などなどの美女たちが勢ぞろいしていた。
 で、早速その撮影所に潜り込んだ私は、きれいな女優さんたちにかわいがられキャンデーや、そのころでは珍しいネーブルなどをもらって得意になっていた。
 脚本家の叔父小沢不二夫の本棚にはさまざまな本が並んでいた。戦時体制が深刻化するさなかに吉川英治の「宮本武蔵」をはじめ時代物、現代物の小説本は貴重だった。
 叔父は、大都から新宿ムーラン・ルージュを経て、水の江滝子劇団、戦後はラジオ・テレビの脚本、新生新派、島田正吾、辰巳柳太郎そして緒形拳などの新国劇の脚本、さらに美空ひばりの「リンゴ追分」の作詞などで活躍した。
 この小沢不二夫は新宿ムーランのキュートな踊り子市川弥生と結婚したので「チャーミングな叔母ちゃん」に、またポーッとなった。
 だが昭和二十年四月十三日の大空襲で借家が炎上する。
 ちっぽけな家の焼け跡一帯には二十数本の焼夷(しょうい)弾の筒が突き刺さっていた。
 爆死か餓死かという危機のどまん中に立たされたのだ。
(東京新聞2008年2月8日朝刊・TOKYO発「わが街わが友」)




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「わが街わが友」2008年2月11日

4.本所・深川

 いまの私は“文庫書き下ろし”という時代小説をせっせと書いている。
 お目にかかったこともある池波正太郎先輩の“法で裁けぬ悪党を裏で始末する”といった趣向の小説である。
 ところで私が尊敬する藤沢周平さんは山形県出身だが、本所や深川に詳しかった。
 私も毎日、江戸・現代比較地図と首っ引きで勉強する。
 ただ私には、本所・深川にはまったく別の…ひたすら痛切な思い入れがある。
 それは、昭和二十年三月十日、あの大戦の爆撃によって本所・深川が無惨(むざん)に壊滅したあの日のことにかかわる。
 「米の備蓄倉庫が爆撃で壊れ焼け残った米がある」
 翌日にはもう、そんなうわさが東京中に広まって、栄養不良の小学六年生の私は、生活力旺盛な学友に連れられて現地をめざしていたのだ。
 ビルの残骸(ざんがい)のほかは、瓦礫(がれき)の荒野に電車もバスもない。
 どうやってたどり着いたのかまったく記憶にない。
 ただ、道端に焼けただれた焼死体の山があり、運河や川の橋の下に、老人や赤子を背負った母親や…無数の屍(しかばね)がひしめき合うように浮遊している地獄絵に息を詰めたのを鮮明に記憶している。
 にもかかわらず、米の倉庫らしい場所にたどり着いて、黒焦げの米の底から臭気ふんぷんたる半焼けの米を手で掘り出し、四、五キロを木綿袋に詰めて、なんとか北区滝野川まで帰り着いている。
 母親の焼けかけた髪と、黒い炭の塊のような赤子の顔は、焦げた米の味になってろくにのどを通らなかった。
 その半焼けの米も大事にしていたが、一カ月と三日後の四月十三日の空襲で再び焼き尽くされたのだ。
 時代小説を書くと、本所・深川、そして浅草、上野や根津・根岸が多く登場する。
 正直、そのたびに六十余年前の光景が、デジタル映像のように鮮明によみがえる。
 この記憶の根強い鈍痛は生涯消えないだろう。
(東京新聞2008年2月11日朝刊・TOKYO発「わが街わが友」)




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「わが街わが友」2008年2月13日

5.石神井1

 文字どおりの着の身着のまま、命からがらで父と私と弟の三人(母は昭和十九年七月に病死)は生き延びた。
 巣鴨から練馬の石神井に移り住んでいた叔父小沢不二夫の家に強引に救いを求めた。
 昭和二十年代初めの石神井は“東京の軽井沢”だった。
 林ではカッコウが鳴き、カブトムシもいたし、石神井公園の池には蛍が飛び蛙(かえる)が合唱し、小川にメダカやタナゴが群れていて、シジミを採って来てみそ汁の具として重宝した。
 脚本家・劇作家として活躍している叔父のそばで、あれこれの雑用を手伝うのは文句なしに楽しいことだった。
 しかし、いつまでも叔父の家にいることはできない。
 だが、焼け野原の東京に生活の場を求めることは至難のこと。あるきっかけで、箱根湯本のM繊維という社宅付きの工場に父が就職する。
 現在の箱根湯本駅前の、早川に注ぐ支流が須雲川だ。流れを旧街道のほうに入った山間に工場と社宅があった。
 焼死か、それとも餓死かという究極の二者択一のピンチからなんとか抜け出せたものの、生活環境の大変化に家族三人は目を白黒させた。
 M繊維は温泉旅館も経営していて、午後十時過ぎになるとその旅館の大岩風呂に入ることができた。
 脱衣所の男女の入り口は当然別だが、内部の仕切りの大岩の向こうでは男女混浴という、粋な造りになっていた。
 マセガキ(思春期真っただ中!)は毎夜のようにその岩風呂に出かけて、若い女中さんたちに嫌われることもなく“混浴”をならわしとした。
 でも、やはり根は都会っ子だった。せっせと東海道線に乗って横浜へ出かけた。
 当時の野毛町には、すでに横浜国際劇場があって「笠置シヅ子ショー」の公演があり幼い美空ひばりが前座として出演していた。このステージの刺激は、その後の私の運命(!)の方向を決定づける。
 東京に戻りたい、石神井へ帰りたいと熱望した。
(東京新聞2008年2月13日朝刊・TOKYO発「わが街わが友」)




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「わが街わが友」2008年2月14日

6.練馬・武蔵関

 叔父小沢不二夫は石神井から武蔵関に引っ越した。
 私は「叔父と甥(おい)の関係ではなく、弟子として勉強させてほしい」と懇願し、その希望を叶(かな)えてもらった。
 実は大学への未練はあったが、叔父のもとでの作家修業は(湯本以上に)鮮烈で刺激的な魅力に満ちていた。
 したがって“学業疎遠”はむしろ私にとって“もっけのさいわい”であった。
 しかも叔父が、自費を投じて庭に演劇道場を建てた。
 商業演劇に脚本を提供している劇作家の集団“鬼の会”があって、後援してくれた。“劇界の天皇”の異名をもつ北条秀司先生を筆頭に八木隆一郎、伊馬春部、斎藤豊吉、水木洋子、中江良夫、知切光歳、秋月桂太、阿木翁助、池波正太郎、金貝省三、宇野信夫、菊田一夫、上山雅輔、矢田弥八、そして小沢不二夫。
 このスゴイ先生方の何人かは稽古場(けいこば)においで下さった。
 池波正太郎といえば「鬼平犯科帳」。その映像化を手がけた故市川久夫プロデューサーは、小沢不二夫の無二の親友。そして私にとっても“滋味のある大先輩”だった。
 小沢家には俳優堺駿二(正章さんの父上)や田崎潤そして佐々木孝丸、時代物の中村竹弥、劇団四季の田中明夫、美声の城達也さん(ジェットストリームの)など多彩な客が来訪。それに俳優座養成所出身のイキのいい男優女優と、まさに“演劇梁山泊(りょうざんぱく)”。
 塾には、いとこの女優水沢有美、三田佳子、声優の池田昌子。後に歌舞伎俳優になった中村又蔵、松本幸太郎などの皆さん、松竹歌劇団出身の美女も在籍した。
 多忙をきわめる叔父とそれをフォローする叔母。幼いいとこたちの相手になって、武蔵関公園で日がな一日遊んだり、時にはバスに乗って吉祥寺の井の頭公園まで出かけた。
 石神井公園、武蔵関公園、そして井の頭公園のボート池。どれもこれも、いまの私の大のお気に入りである。
(東京新聞2008年2月14日朝刊・TOKYO発「わが街わが友」)




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「わが街わが友」2008年2月15日

7.下高井戸

 劇作家三好十郎さん(劇団民芸の滝沢修主演「炎の人」の戯曲など多数)は、叔父小沢不二夫と親しかった。
 だが、三好十郎主宰の戯曲座を直接紹介してくれたのはそのころ東大の学生だった樋口恵子さん。この時期、稽古(けいこ)場は下高井戸にあった。
 戯曲座では高品格さんに出会った。彼は当時、大映の大部屋で「三好のオヤジは素晴らしい」が口ぐせだった。
 のちに広告の仕事などでご一緒するイラストレーターの和田誠監督「麻雀放浪記」の高品格の演技は絶品だ。
 三好さんの書斎での口述筆記や清書のお手伝い、そして向き合っての昼食時の、その緊張感はナミではなかった。
 高品さんいわく「三好のオヤジの前でモノが食えりゃあ将来大物になれるよ」。
 民芸といえばやはり宇野重吉さん。この御大の初めてのCM出演を交渉。秋葉原Y電器の企業CF「夕暮れに灯(あか)りがともる…」というナレーションは「初めてテレビから人の声が聞こえた」と、広告評論家の島森路子さんが書いてくれた。演出は吉田博昭さん。彼は学生の時からの知己だ。あの円谷プロを傘下にした映像会社グループTYOの総師。とにかくやる男だ。
 もう一人、ソニーのカラーテレビのCFで、ハタという魚の“声”を演じてもらった名優大滝秀治さんもCM初出演で、私の提案であった。
 ところで樋口恵子さんとのえにしはユニークだ。
 東大新聞部で活躍する樋口さんが、一九五三年にある新聞社主催の「はたちの記」論文コンテストに入賞した。
 その論文に私が手紙を差し上げたのがきっかけだった。樋口恵子著「私は十三歳だった/一少女の戦後史」に、いきさつが紹介されている。
 「…『あなたのお便りにお調子ものの私はガーンとハンマーで一撃を食らった思いでした』と返事を書いた」と。
 三好十郎さんと樋口恵子さんと下高井戸、この記憶の色は褪(あ)せることはない。
(東京新聞2008年2月15日朝刊・TOKYO発「わが街わが友」)




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「わが街わが友」20082月19日

8.有楽町

 有楽町―昭和三十三年、生まれて初めて本庄一郎という筆名を用いてニッポン放送でデビューした。
 江戸っ子外国人といわれたロイ・ジェームス、水谷良重(現八重子)、橋幸夫さんなどのDJ構成を担当。
 長谷川町子原作、叔父小沢不二夫脚色「サザエさん」のホンも代作させてもらう。
 お父さん東野英治郎、お母さん三戸部スエ、サザエさん市川寿美礼、そして近所の学生夫婦が岸田今日子と小山田宗徳の異色キャストだった。
 もっぱら“ヘンなおばあさん”や、うさんくさい“押し売り男”のチョイ役のあれこれが若き日の小沢昭一さん。
 当時から小沢キャラはかなりユニーク。近所の酒屋きく屋さんの御用聞きという陽気なレギュラー役を作った。
 これが好評で「小沢昭一のこんちわァ毎度ありィ」というコント番組が始まり、私も小沢さんのおかげで自主独立できた。
 ずっと父は「お前の名前をラジオで聞ければ死んでもいい」とのたまわっていた。
 その後、河田町にあったフジテレビの試験放送から参加して、ラジオにブラウン管にとやたら本庄一郎が登場するのだが、父は「そんなもんかい」という顔で長生きした。
 当時、有楽町にあった日劇五階にミュージックホールというヌード劇場があった。
 よく昼寝に利用する。昼間はガラガラで、ステージから降りてきた踊り子(アンジェラ浅丘?)に「失礼ね、起きなさいよ」と突っつかれた。
 有楽町ビデオホールという制作会社で、私の担当番組と同じスポンサー提供の「昨日の続き」というラジオ番組があり、若き日の永六輔、前田武彦、大橋巨泉の皆さんの“録音”を見物したものだ。
 有楽町の、当時駅前のすし屋横丁にあった名物「ミルクワンタン」―この店は現在もガード沿いにあって、ずっと美人の(大)ママに「あーら本庄サン!」と呼ばれると、つい不覚にも涙が出る。
(東京新聞2008年2月19日朝刊・TOKYO発「わが街わが友」)




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「わが街わが友」2008年2月20日

9.河田町

 さて、話は河田町にあったフジテレビへと、カメラ・パン(移動)する。
 小沢不二夫の兄弟の小沢效が入社していて、まずは試験電波(制作リハーサルをかねていた)用の台本を書いた。
 昭和三十年代の初めだ。
 小沢效は前述した大都映画などでの経験もあったから台本書きでは鍛えられた。
 やがて「ママと遊ぼう!ピンポンパン」といった純真無垢(むく)な仕事のチャンスももらう。
 テレビドラマやコントの作構成の仕事では、桂小金治、一竜龍斎貞鳳、沼田曜一さん、そして西村晃(二代目水戸黄門)、三井弘次(黒沢明作品など)、若宮忠三郎(後に大祐)さんたちとご一緒した。
 当時、小沢效と同期の方々に岡田太郎(吉永小百合さんの旦那(だんな)様)、五社英雄、森川時久さんらの映画監督たち。劇作家に転じた松木ひろしさん、現在歌舞伎史家として活躍中の塚田圭一さん(いまもお付き合いのある)がいた。
 そのころ上井草に住んでいた私は、西武線で新宿に出て都電で河田町にいった。
 現在、四季の道と名付けられた新宿区役所横の線路は、バラックの飲み屋の背うしろをかすめ新田裏や抜弁天を通り河田町にたどりついた。
 たそがれてからのゴトゴト走る電車の窓から、焼き鳥のいいにおいが侵入してきて、結果、歌舞伎町あたりに長居したりする原因になった。
 まだコマ劇場もないころからゴールデン街はにぎわっていたが、私は同業者がたむろするあのあたりの店をあえて避けて飲み歩いた。
 ある店では不動産屋と名乗り、別の店では産婦人科医を唱えて周囲をケムに巻いた。
 その“偽称”は、その後もっぱら通った阿佐谷、高円寺、吉祥寺あたりでも活用した。
 フジテレビはお台場に移りまったく無縁になったが、いまもって河田町にはずっと好意をもっている。
 岡田さんと吉永さんがデートしたというあのお寿司(すし)屋さんは、今もあるのかなぁ。
(東京新聞2008年2月20日朝刊・TOKYO発「わが街わが友」)




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「わが街わが友」2008月2月21日

10.赤坂

 有楽町ニッポン放送の番組の広告主は東芝レコードで、宣伝担当は大谷信夫さん。
 番組の取材で、来日したビートルズ(一九六六年六月)をファン熱狂の武道館の最前列で“実体験”した。
 大谷さんは気鋭の宣伝マンだった。たとえば「帰ってきたヨッパライ」を発売前に彼と一緒にしっかりおぼえて、バーなどで大声で合唱する。
 このメンバーにテアトル・エコーの熊倉一雄さん(ヒチコックの声などの)もいてとびっきり愉快に遊んだ。
 その大谷さんが「有楽町もいいけど赤坂も」とTBSを紹介してくれることになる。
 TBSでは、あの城達也さんの「ジェットストリーム」昼間版ともいうべき番組や、矢島正明さんの「パック・イン・ミュージック」の構成などイロイロやった。
 毎日のオビ番組「全国子ども電話相談室」では広告主の集英社のCMを、愛川欽也さんの出演で大量に(ギャラを値ぎって)制作した。
 そのころ、欽也さんは日本テレビ朝の番組の“ロバくん”で人気者だった。が、「愛川欽也です」と自由にしゃべりたいと相談をうけた。「では、DJをやったら」と「それ行け!歌謡曲」という番組のディレクターを紹介する。
 その後、水曜日の「パック―」に登場、見事に弾(はじ)けた。
 そのほか、Bカステラの音楽番組では、クラリネットの北村英治さんとご一緒した。「カッコイイ!」と素直に言える彼の仲間のトランペットが光井章夫ことバンちゃん。
 彼が酔って歌うとサッチモにそっくりのハスキー声。そこで、総合制作(企画・コピー・音楽・CF)を請け負っていたスコッチウイスキーのサウンド・ロゴ「♪カティサーク〜」を歌ってもらった。
 映像のヒロインは美女真野響子さん。十二年物のスペシャル版は人間国宝の先代松本幸四郎(白鸚)さん。
 カメラは東京オリンピックを撮った長野重一さん。あの時代は、よく働いたなぁ。
(東京新聞2008年2月21日朝刊・TOKYO発「わが街わが友」)




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「わが街わが友」2008年2月22日

11.銀座

 銀座にD企画という広告代理店があった。放送作家もやりながら昭和四十年、コピーライターとして入社する。
 内田健太郎さんというディレクターと組んだ。Aカメラ、Bタイヤ、M自動車などメジャャー広告主のCFを手当たり次第手掛ける。カメラのCFで、007ジェームス・ボンド風の企画として昭和四十一年ころ、三国連太郎さんに出演してもらった。その二枚目ぶりにとことんシビレた。
 直系のCFプロダクションNの社長は砂山利宗さん。黒沢明の「七人の侍」の大迫力の砦(とりで)のシーンのカメラを担当した人で、ずばりと言えば“モダン侠客(きょうかく)”。迫力の人。
 彼の下に稲見一良さんという男がいたが、大阪・八尾出身のこの人も元ストリートファイター。街にのさばるチンピラなど一瞬にしてのした。
 だが彼は、肝臓がんで余命半年と宣告を受け“遺書のつもり”で小説を書き始める。
 大手術三回、予後のベッドでそのつど小説を一冊まとめ三冊目「ダック・コール」で第四回山本周五郎賞を受賞。
 築地のがん研に見舞いに行くと、管だらけの彼は「望田さん(私の本名)もう広告の仕事をやめて、小説を書きなさいよ。あなたのコピー技術から刺激を受けて、それで小説を書き出したオレだよ」と見舞いのたびに叱咤(しった)される。彼は十年もガンと闘い十余冊の“傑作”を遺(のこ)して逝く。彼の生き方が私を発奮させた。
 このころ、作曲家としてバリバリ仕事をしていた故八木正生、桜井順、小林亜星さんといったプロに出会う。
 八木さんは天才的と称されたジャズ・ピアニストで、作曲家の彼とのコンビでさまざまなCMソングを作った。
 桜井順、小林亜星両巨頭はン千曲も作っていて健在。
 そういえば、D企画の同窓生だった阿部秀司さんは、映画「ALWAYS/三丁目の夕日」を制作する株式会社ロボットの社長。星五ツの男。
 私の銀座はホットな“ジャンプの街”だった。
(東京新聞2008年2月22日朝刊・TOKYO発「わが街わが友」)




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「わが街わが友」2008年2月25日

12.表参道

 D企画を退社した内田健太郎さんと私はエムケー(私の本名望田のMと健太郎のK)という制作オフィスを表参道にもった。
 同じマンションに音楽プロダクションがあり、前回にもふれた八木正生さんがいた。
 高倉健主演「網走番外地」をはじめ、ン百作品の映画音楽も作曲している。
 コンサートの彼はラジカルで、眩(まぶ)しくモダンだった。
 AビールのCFの制作をした。演出は内田健太郎、出演は高倉健。イメージソングは私の作詞で作曲は八木正生。そしてコーラスはとても大好きなデューク・エイセス。
 シリーズで制作して、そのラストには、山本麟一、今井健二といった悪役軍団にまじって私も出演した。
 アルコールがだめな健さんはノン・アルコール飲料だったが、テストごと、またNGごとにこちとらはガバガバと飲んだ。(飲まされた!)
 健さんといえば菅原文太さん。「望郷」という歌を作詞した。作曲は石田勝範さん。
 純な男っぽさと含羞(がんしゅう)と…健さんと文太さんは“男が惚(ほ)れるイイ男”。忘れられない人との仕事の記憶は永遠だ。
 あるK化粧品のPR映画を作った。脚本は私。演出は内田健太郎で約三十分の作品。
 その時、八木正生さんの大の仲良しであるイラストレーターの和田誠さん、フォトグラファーの立木義浩さんの、この三人に“魅力ある女性について”語ってもらった。
 「そりゃ、物を飲んだり食べたりする時に、美しい女がいい」「それよりも、雨の日、晴れの日、その雰囲気にふさわしい表情の女がいいなぁ」「ま、いろいろあるけど美しい女は何をやってもいいよ」
 誰がどう言ったのか忘れたが「そりゃズルイよ!」の爆笑でおわった。
 砂山利宗も、稲見一良も、八木正生も、内田健太郎も、急ぎ足で先に逝っちまった。
 表参道を通ると、あの派手さとは関係なくいきなりセンチメンタルになる。
(東京新聞2008年2月25日朝刊・TOKYO発「わが街わが友」)




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「わが街わが友」2008年2月26日

13.新宿

 新宿はなじみの街だ。
 もちろん、飲み歩きの街としてやたら出没したが、そのほかさまざまな縁があった。
 いっとき、CF制作会社を経営していたが、経営がヘタクソで撤退し、そのあと諸般の事情から新宿厚生年金会館近くの貸しスタジオを経営。
 芸能タレントや劇団、養成所にも活用してもらった。
 平幹二朗さん、小沢昭一さん、夢の遊眠社、花組芝居、遊◎機械/全自動シアター、フジテレビのポンキッキ。多くの皆さんが顧客だった。
 しかし、バブル後期には地上げ騒動が起こり、地主やビルのオーナーの意向もあり、売却されることとなった。
 そんな喧噪(けんそう)のさなかに、生まれて初めての小説「赤い風車劇場の人々/新宿かげろう譚(たん)」を必死に書いた。
 この小説第一作は、影書房の松本昌次さんが出版してくれた。新宿ムーラン・ルージュュが、昭和二十年五月に爆撃炎上するまでの物語。劇団ピープルシアターで劇化され、再演もされて好評だった。
 そのころ、胸に屈託があり“新しい仕事”を渇望する。「東京人」という好きな雑誌があった。評論家でもある粕谷一希さんによって創刊されたもので、“東京を語る”その視点や角度に深度があり、良質のエンターテインメントは魅力的だった。
 私は大胆にも「フォトと五七五でつづる“東京ヒッチはいく”」という企画書を突然、粕谷さんを訪問してプレゼンテーションする。
 粕谷さんは私の無礼千万なプレゼンを快諾してくれた。
 五年間、連載してもらって私なりに東京→江戸を学ぶ。その知識や資料が時代小説を書く大きなモチベーションになった―。
 くだんの貸しスタジオは売却されて、私は否(いや)も応もなく“物書き”としての再出発を期することになる。新たに高円寺に仕事場をもち、懸命に小説を書いた。
 街そのものが“物語”であり“人生の記録”だ。
(東京新聞2008年2月26日朝刊・TOKYO発「わが街わが友」)




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「わが街わが友」2008年2月27日

14.阿佐谷

 新宿を撤退、迷わず高円寺に仕事場をもち単身赴任し、古本屋と居酒屋があちこちにあって、ウキウキする。
 仕事場から一駅分歩くと阿佐谷である。ここにもどっしり構える古本屋がある。
 この街はずっと以前から大好きだった。
 井伏鱒二が愛した店だとか太宰治が立ち小便したという電柱があったとか。叔父小沢不二夫がご一緒したという壇一雄や角川源義(春樹さんの父上)など、大御所の方々の行きつけの店もあったらしいが、その後どうしたろう。
 時間とエネルギーと、いくばくかの自由になる金を収れんして、小説を書いた。
 T書店の雑誌「問題小説」にある人が紹介してくれた。
 その時、持ち込んだ時代物短編小説は即、採用になる。
 峰隆一郎さんという時代物の流行作家がおられた。
 ある日、電話があり「お前さんの今月号の『問題小説』の短編、なかなかいいよ」
 ぶっきらぼうだったが、ストレートにほめてくれた。
 いいトシをして跳び上がってよろこんだ。
 次の正月に「近いうちに貴兄は小説家になれると思います」という賀状をいただく。
 素直に「ありがとうございます」と口に出して言った。
 峰さんの本と、私の文庫本が書店に並んでいる。けれど、その峰さんも逝かれた。
 本庄慧一郎の筆名で時代小説に取り組んで、かれこれ十年になる。
 いまでも素直に思う。
 ――高円寺に住み、阿佐谷に親しまなかったら、物書きに戻れなかったのでは……。
 ときおり、さまざまな雑誌からエッセーを依頼される。
「街は人が作る。しかしその人が作った街はやがて、逆に人を飼育しはじめる」
 そうそう、阿佐谷一番街にある、十人ほどで満席になる“鳥平”にも久しくごぶさたしてるなぁ。
 近々、西荻の“一汁一菜・凜”にでもワイフと出かけるか。船戸与一さんはあいかわらず飲んでるのかなぁ。
(東京新聞2008年2月27日朝刊・TOKYO発「わが街わが友」)




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「わが街わが友」2008年2月28日

15.石神井2

 念願の石神井にこだわってしっかり生活の根を下ろし、まるで古書店のような書斎で毎日、原稿用紙に向かう。
 一昨年(二〇〇六年)テアトル・エコーで、念願の創作脚本、喜劇「大都映画撮影所物語」が、演出永井寛孝さんで上演された。
 きわめてユニークな主人公河合徳三郎を演じたのは、熊倉一雄先輩で、好評だった。
 芸能界ン十年という私が尊敬する桂小金治、小沢昭一先輩をはじめ、永六輔、矢野誠一さん、ジャーナリスト粕谷一希さんは奥様や大勢のお仲間と――千客万来だった。
 それがきっかけで実録「初代美空ひばりのいた/大都B級三流映画・波瀾(はらん)万丈」(仮題)を書くことになった。
 ワイフと娘たちのアシストでの作業は“家内工業”だ。
 結婚四十三年になる夫婦ともどもさしたる趣味がない。読書も演劇も映画も音楽もみんな仕事につながるからだ。
 それで結婚四十周年記念に自主CD「平和を願う歌/鳥になれたらいいね」を制作。
 作詞はすべて私だが、テレビドラマや映画で大活躍の作曲家石田勝範さんをはじめ、心ある音楽友達の協力で組曲七曲が出来上がった。
 二人とも東京生まれ。帰る故郷がないねと話すことも。
 もう三十年前にもなるか。
 山形県の真室川町の北の山間部にある分教場が小学校に昇格したことがあった。
 地元山形放送の企画で、東京の音楽制作会社が協力して“校歌”をプレゼントした。私は作詞でお手伝いし、作曲は丹羽応樹(まさき)さん。全校生徒四十一人という素朴な発表会の感動は終生忘れないだろう。
 その席で町長さんが「もしよろしければ、ここを故郷にして下さい。ここから見える山で『あれがいい』と言って下されば、きちんと手続きをして贈呈しますよ」と。
 結局はご辞退したのだが。
「青春彷徨(ほうこう)」―いい言葉だ。
 これからも小説も戯曲も作詞も…と、ヌケヌケとつぶやく新しい春なのデス。 =おわり
(東京新聞2008年2月28日朝刊・TOKYO発「わが街わが友」)




*** お知らせ ***
自主CDを制作
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平和を願う歌
「鳥になれたらいいね」
総合プロデュース:本庄慧一郎
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