あらめておのれの履歴をふり返ってみると、半世紀あまり一貫して日本語を素材にした仕事(ラジオ・テレビ・構成台本/舞台脚本/TVCMプロデユース・企画・COPY/時代小説・現代小説/五七五・評論集・エッセイ等)をしてきた。
現在の書斎は、古書店の倉庫のようで「創作の遊園地」になっている。
現在の書斎は、古書店の倉庫のようで「創作の遊園地」になっている。
●執筆スタッフ 本庄慧一郎(望田市郎)/みさき けい/深実一露
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スベル・ズレル・コケル
●テレビがダメにする。テレビでダメになる。
かつて、民放ラジオ・テレビが生活費を確保するベースだった。でも、番組もTVCM作りも結局は「消耗品」で、そこに関わる自分も……ということで、時代小説など数十冊以上のホンや舞台脚本をあれこれ書いた。(現在、それらの著作物を電子書籍化する「意義ある」作業に努めている)
●寄席には学齢前から通っていたけど。
父親が、寄席芸(落語・講談・マンザイ等)にこだわっている趣味人だった。そのため子どもの頃から寄席になじんで育った。
いわば「マセガキ」と称される子どもだった。(あの畏友小沢昭一さんも!)
でも、近頃の芸人はその習練場である寄席の体験を知らず――芸がうすっぺらで底が浅い。
テレビの「バラエティ」と称する番組でゾロゾロ出てくる者たちに「お笑い芸人」と称する者が多い。
こんな若者たちがよく口にするのが「スベル」だ。
つまり、おのれの「芸」が(テレビ)のギャラリーに受けなかった――というイミだ。
●番組の制作に対するコト。
完全にスタジオ・オンリーの制作なのに、ライブ風に「笑い声」や「拍手」を効果音として入れているケースが多い。(これは一種のサギ行為だ)
出演芸人にとっては「スベル」はスタジオ内のことでカネを払ってきた客でもない。そんな勘違いは、芸人の「芸」を鍛えることにならない。ばかりかとんでもない錯覚を「誤った自信」をもたせる。
●ずっとムカシ読んだ本では――
たとえば、アメリカの人気テレビ番組だった「ビング・クロスビー・ショー」「ディーン・マーチン・ショー」「ボブ・ホープ・ショー」「フランク・シナトラ・ショー」「ルーシー・ショー」(順不同)などの歌やコントなどに「アドリブは一切なし」とあった。
「アドリブ」に見えるパートもすべて、そのための「演出」だったというネ。
●現在のラジオ・テレビの「フリートーク」は――
現在の「放送作家」たちの「台本――構成台本」は「喋りコトバ」になっていない。あっても、出演者のための「進行メモ」のようなものか。
●しょせん、「うすっぺらな芸」はテレビメディアの「消耗品」というコトになるか。
●現在の政治の中央で起きているスキャンダラスな事件も、「スベル・ズレル・コケル」というアホなことばかりだ。
もう口先だけのごまかしではごまかせないぜ!
ケイちゃんの目 ↓
Scenes of memories
浅草周辺の散歩スナップ
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