まわりの人たちから「おめでとう!」と言われるのはいいものだ。
人生の第一回の「おめでとう」は、母親の胎内より生まれ出た時に言われる。
ご本人が望むと望まざるとにかかわらず、世の中に押し出される。しかも、ご本人にとっては周囲の事情が分からないから、ほんとうにおめでたいかどうか、よく分からない。
第二回目は、小学校に入学する時か。いわゆる学校生活のスタートである。
第三回目は、学校をでて就職する時に「おめでとう」と言われる。
そして第四回目が、やはり結婚か。
この「四つのおめでとう」は、とりあえずスタンダードなプロセスである。
まわりの人たちから「おめでとう」と言われるのだから、いずれの場合も当のご本人は当然しあわせなはずである。
幸福を捕らえたものの…
それでも第一回目、第二回目あたりはまちがなく名実ともにハッピーなのだが、第三回目、第四回目のハッピーというのは、どうもそう簡単には定着しないケースが多い。
受験戦争とやらでからだや心をゆがめたり、学業途中で挫折したりする。かと思えばイジメに遭遇してとんでもない悲劇に引きずりこまれることもある。
第四回目の結婚のおめでとうも、必ずしもしあわせの持続につながらない場合も多い。
でも、思いきってやり直して、ほんとうの「おめでとう」をつかむ人もいる。
「幸福とは、つねに暫定的である」といったのはギリシャの詩人だ。
暫定的…一時的というような意味だ。
<仮のもの>ともいえるようだ。
「幸福にはつばさがある」といったのは、ドイツの劇作家シラーだ。
たしかに、やっと苦心して捕らえた幸福なのに、アッというまにヒラヒラ飛び去ったりするのだ。
就職とは職業人となること
近頃、トコトン俗悪化したテレビのワイドショーでは、いわゆるマスコミにウロチョロする者たちの結婚離婚が餌食になっている。
そういえば、第三回目、第四回目の場合は前の二つと異なって「おめでとう」とは、新しい困難の始まりだったりするのだ。
いま、社会や経済の混乱や悪化、企業のリストラや倒産で、現役の勤め人の諸君の居場所がきわめて不安定である。
となると、新スタートをきる諸君とてラクであるはずがない。
就職とはほんらい、職業をもつ、自分に適した仕事を選択して職業人になることだ。
しかし、かのバブル時代には、大学新卒の諸君はほとんどすべて、就社することに血道をあげた。
つまり、一流企業の<会社>にもぐりこむことに専心したのだ。その一流企業というのも、バブル以後、そして現在も、ウソのように次々と倒産し、消滅したりしている。
就職とは「立派なビルのオフィスの通うことではない」のだ。「手に確かとした機能をもつこと」なのである。
ハローワークに相談にきた中年の紳士然とした男が担当者に「どういうことが得意ですか?」と質問され、「部長ならできます」と答えたとか。大真面目にである。ああ!
こういう人はもう今後一切「おめでとう」とは無関係だろう。
四つのおめでとう
2002/1/8
人生の四つのおめでとう
— posted by 本庄慧一郎 at 05:30 am
この記事に対するコメントは締め切られています