親父の都々逸(どどいつ)


都々逸を息子に教える親父

 昭和20年までの軍国時代には、職業選択の自由なんてまるでなかった。
 いまは、法律を侵犯しない限り、どんな商売もできる。

 フリーターなどという職業(?)もある。一定の職業に従事することが嫌いな人たちだ。

 その点、才能の有無は別としてわたしはまあ、好きなことを仕事にできたようだ。
 影響としては、母方のきようだいたちが芸能志向だったことだ大だった。が、じつは父親も役者になりたくて、商家だった家を飛び出している。
 二十歳のころ、この親父が「酒を呑むようになったら都々逸(どどいつ)の一つも唄えなきゃダメだぞ」と言ったものだ。
 埼玉県本庄の生まれだったが、角帯に雪駄など履いて、江戸っ子ぶっていた。
 ♪この道を 行けば近道 わかっちゃいても 行けば別れが早くなる〜
 なんて都々逸を息子に親父が教えるのだ。これでは、銀行員や公務員を志すわけがない。とてもカタギの職業は無理だ。

 角帯を前で結んでうしろに回すと、「おい、ヤボ天、なにやってるんだい」と言うのだ。

 この親父、結局は役者になれずじまいだったが、自作の落語や講談まがいのはなしで、敬老会や老人ホームを得意になって回遊していた。

叔父に弟子入り志願
 なにしろ、小学生のころは戦時下で、東京の学校は空襲、爆撃に晒され、学童疎開などで勉強どころではなかった。教科書すらなかった。
 その分、叔父の書棚の本を漁った。尾崎紅葉の「金色夜叉」を読み、林不忘の「丹下左膳」を斜め読みするという乱読である。
 学校・学業とは縁遠いところを歩いていた。幸か不幸か分からないが、試験とか進学とかで悩まされたことは皆無だ。
 二十歳過ぎたころ、叔父の家に弟子入り志願した。叔父、甥の関係ではなく書生として住み込んだのだ。

 書生だから、掃除もした、雑巾がけもする。犬の世話から、幼いイトコたちの面倒もみた。

 やがて、叔父であり師である小沢不二夫の仕事を手伝う機会を与えられた。
 当時、ニッポン放送をキイ局に全国放送していたラジオドラマ「サザエさん」の脚本をカゲで書かせてもらえることになったのだ。
 書いたものが電波にのって全国に流れるのである。小便をチビルほど嬉しかった。

小沢家にできたけい古場
 そのころ、叔父と叔母(若いころ新宿ムーランルージュの舞台に立っていた)の肝入りで、小沢家の庭に演劇道場のけい古場ができた。
 かなりの出費を覚悟した上での演劇塾だった。
 4、50名の塾生がいた。
 エライ先生方が講義に来て下さった。
 六代目菊五郎の舞台脚本を書いていた宇野信夫先生をはじめ、それこそ現役第一線の劇作家先生が顔を見せた。紀伊国屋書店初代社長田辺茂一さんなど有名人もいた。からだが震えるほどに緊張もし興奮もした。その体験は財産である。
 そういえば塾生の中には、あの三田佳子サンもいた。高校三年生だったか。その後、皆さん、お世話になった小沢家には一顧だにしないようだったが・・・・。
 受けたご恩はさっさと忘れるのが世の常だ。

— posted by 本庄慧一郎 at 05:53 am  

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