続・一通の手紙から始まる


樋口恵子さんへの手紙のつづき

 前回に続いて、評論家樋口恵子さんのことを書かせて頂く。
樋口恵子著「私は13歳だった/少女の戦後史」(筑摩書房)から、前回分の続きである。

以下「私は13歳だった/少女の戦後史」筑摩書房より引用

望田さんのぶ厚い手紙の中身はもう正確に記憶していない。ようするに「自分のことだけ考えていい気になるなよ」という趣旨が、体験をまじえて切々と、大学仲間以上に理路整然と語られていた。家庭の事情で進学できなかった口惜しさは文面にあふれていたが、それは決して怨念や、怨念と表裏一体の上昇志向につながらず、自分自身であることを、同じ二十歳の地平から出発させようというさわやかさがあった。(略)
 負けん気で頑張り屋で人柄のよい望田さんは、その後も勉強をつづけ、著書も数多くあり、マーケティングの専門家となった。「青い実の会」とは望田さんを通して細いながらも交流がとぎれずにつづき、いっせいに還暦を迎えた年に、新宿のレストランでささやかな自前のお祝い会を開いた。小柄でやせた青年だった望田さんは、見違えるほど貫禄がついて、しかし最初に出会ったときと同じような敏捷な目付つきで「これから直木賞を目指して作品を書く」と志をのべた。「はたちの記」のおかげで、私は同時代を歩むそれまで知らなかったグループの仲間に加えてもらった。

 若き日の自分がまわりの人にどんな印象を与えていたのか、という貴重な記録である。 直木賞うんぬんも、このトシになってまだ気負っていると、あらためてたテレるのだが。

もうひとつのプレゼント
 それはそれとして、この樋口さんがもうひとつ《いい動機》をプレゼントしてくれることになる。
 当時、樋口さんの実家は西武池袋線の練馬駅と豊島園の中間に位置するあたりにあり、お招きをうけておじゃましたことがあった。
 欅の大木と高い踏み石の据えられた幅広い縁側が印象にある。お父さまは考古学の研究をなさっていたのだろうか。
 おなじ著書の中で、当時のお家は「家中まるごと学生寮になったような、梁山泊的ムードがあって、私も一緒に騒いだ」と書かれている。その下宿人の中に、劇団戯曲座の俳優がいたのだ。
 この劇団は、劇作家三好十郎さんが主宰していた。三好十郎さんは、昨年他界なさった劇団民芸の滝沢修さんの「ゴッホ小伝 炎の人」の名舞台をはじめ、近代演劇に大きな業績をのこした優れた劇作家である。
 わたしの叔父小沢不二夫がやはり戦前の新宿ムーランルージュで劇作の仕事をしていたことは前述した。
 新宿ムーランルージュとは、当時〔早慶〕の学生やサラリーマンや有名文化人らに支持され、都会的センスで人気を集めていた小劇場だった。
 そこに三好十郎さんもファンとして通っていて、叔父小沢不二夫は後輩として目をかけられていたのだ。

それは生涯の師との出会いのきっかけ
 さて話はもどるが、樋口さんは下宿していた俳優に紹介されて、戯曲座のけい古場(京王線桜上水の宗源寺にあった)に出かけたのだ。そして「望田(わたしの本名)さんは、絶対戯曲座が向いてる。三好十郎さんにお会いになるべきよ」と言ってくれたのである。
 わたしはそのおかげで《生涯の師》としての劇作家三好十郎さんと出会ったのだ。
 三好十郎さんは忘れ得ぬ人である。樋口恵子さんは大事な友人である。


— posted by 本庄慧一郎 at 08:43 am  

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