朝日新聞05年1月10日「声」欄の投書
「新聞や雑誌は文字が大きくなり、目に優しくなった。だが耳の方にそういう配慮はなさそうだ。
年をとったせいか、数年前からテレビの早口が気になる。せかせかとしてゆとりが感じられず、意味がすぐには頭に入らない。
新春に放映された歴史ドラマ「大化改新」でも昨年の韓国ドラマ「冬のソナタ」でもせりふが速く、よく理解できない場面が何カ所もあった。
ニュースでも、とりわけ若いアナウンサーは早口で私には聞き取りにくい。家内もそう言う。高齢者にも分りやすく、もう少しゆっくり話して頂けないものか。放送局は語り口が相手に伝わりやすいよう心がけてほしい。
紀宮さまと黒田さんの婚約が内定し、記者会見が年末に行われた。その際のお二人の話しぶりはゆったりとして実に分かりやすかった。お人柄をしのばせ、心温まるものがあった。」(加藤隆二 神奈川県小田原市 75歳)
現在のテレビの大部分が、ことばを乱暴に粗雑に扱っている。時にはデタラメでさえある。
ニュースワイドのコメンテーターなる者についてもまた、そのことば遣い以前に、その思考や論理のいいかげんさに呆れることが多い。
とりわけ、バラエティと称する番組の、馬鹿の一つおぼえのような「ヒナ壇」に並んだ者たちの喋りは、それこそ「悪しき政治家たち」の国民主権を無視するヤカラ同様に、彼らテレビ寄生虫族も視聴者をおいてけぼりにして、ただひたすら自分たちだけで悪ハシャギしている。
投書の方が言われているように「言語不明」の原因は早口だけだろうか。それは違うと思う。
早口というならば、かつてロイ・ジェームスというタレントが、江戸弁ふうの歯切れのいい口跡(ものの言い方・俳優などのせりふの言いまわし)で人気があった。長身のハンサムで、DNAにはたしか「トルコ」がまじっていたらしい。
彼とはずいぶんラジオ番組の構成台本でおつきあいしたが、400字詰め原稿用紙は約1分という量では足らなくて、かなり余計に書くハメになった。
もうお一人、早口の達人をあげるならやはり黒柳徹子さんである。
「名ナレーター」としてその名を語りつがれていう城達也さん(かの「ジェットストリーム」の――)とご一緒したTBSラジオの生の2時間番組のCMに(スポンサーは時計のセイコー)黒柳さんが起用されたのだ。
ぼくがコピーを書いた。何種類か制作した。
60秒のCMだったが、ぼくが書いたコピーの分量では、時間が余ってしまうのである。
つまり、ロイと同じように黒柳さんの語り口がスピーディなので「もっとコピーを足してほしい」と言われた。
つい「もうすこしゆっくり喋ってください」と言ったら、「それじゃあ、黒柳徹子じゃなくなっちゃう」とチャーミングな微笑でニラマレタ。もちろんその場でコピーを書き足した。
前にも書いたが、城達也という人は、ぜったいアドリブやその場の思いつきで喋らなかった。ロイもアドリブはやらなかった。
フリートークという名の堕落
かつてのテレビやラジオには、構成台本だがあり、その台本にのっとって出演者は表現した。
もっとも、浅草などのボードビル系の芸人たちは(たとえばストリップショーの合間にコントを演じていた渥美清をはじめとするコメディアンたち)むしろヤジをとばす客たちに当意即妙にやり返すことを得意になってやった。
それは劇場という限定された場所でのことだから、お客サービスになり得たのだ。
一方、演劇ではお客をタネにして笑いを取るのは「客いじり」といってタブーとされている。(近頃、歌舞伎でも、それをやるのダ)
以前、前進座の時代ものの舞台(ジェ−ムス三木の作)で、夜鷹(ゴザ一枚を適当なところへ敷いて男にからだを売る娼婦)が客席へ下りてきて、「ねぇおひま? あたいと遊ばない?」などとやっていた。「前進座がこんなことやるの?」と大いにシラケタたものだ。
話をもどそう。
いまの芸人やテレビゲーノー人のことばが不明瞭なのは、ことばに対して彼らがゴーマンで、浅慮で、いいかげんだからなのである。
彼らは、ことばを汚し、歪めて、使い捨てにしているのだ。
ぼくは、ざっと50年、日本語を材料に暮らしてきた。
ラジオ・テレビの台本や脚本、そしてラジオ・テレビのコマーシャルの企画やコピー、CMソングの作詞など。そして現在の時代小説。いまあらためて舞台の脚本に挑みつつある。いや、CMではない歌の歌詞にも全力投球するつもりでいる。
もちろん、ことばを大事にする人だけご一緒するのを大前提とする。
これと思った人に、しっかりと伝わることばとその方法を考え、それを具体化するというのがぼくの本来の仕事なのだから。
ヘタな語り手は「名作」でごまかしている
読み語りという表現方法がブームである。
たとえば、幸田弘子さんのような名手もいるが、「語る」というための技や術を学ばない者が、山本周五郎だの宮沢賢治だの樋口一葉だのをとりあげる。
だが、名作を隠れみのに、そのヘタクソさをごまかして平然としているケースが多い。
文字を音声化するだけなら、駅のコンピュータ・ボイスもラクにやってのける。
この4年間、ぼくの書斎に通い詰めたレディがいる。東京二期会のメンバーで、ソプラノ歌手の木山みづほ。ぼくは演劇の出身なので、自作の時代小説をテキストに「読み語り」をけい古してきた。
オペラの「アリア」を歌うのと、時代小説(エンターテインメント)の読み語りの技は、現在のところうまく共存しているようだ。
このところ「歌と語り」のライブで好評を得ているらしい。
歌も語りも、そして喋りも、「ことばの根っこ」をしっかりと理解しようという謙虚さとパッショナブルな表現力によって成り立つのである。
それにしても……ことばをゴミにしてるヤツは誰だ?
「ことば・声・人間・演劇」
2005/1/10
— posted by 本庄慧一郎 at 10:31 am
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